春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「高橋是清邸の復元」

2014-01-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(8)高橋是清邸の復元

 昨年の遠山記念館見学のおりには、壁の修復時、壁材がすでに手に入らないものであるので、納戸などの見学者には見えない部分の壁を削り取って、見える部分の修復に使用した、という裏話を聞くことができました。
 古建築の修復保存には、さまざまな苦労があります。

 東京大空襲の際、都心の古いお屋敷の多くが消失しました。たとえば、永井荷風は、麻布にあった自邸「偏奇館(へんきかん」が焼け落ちるようすを書き残しています。麻布の偏奇館周辺、どこも焼け野原になりましたが、赤坂にあった高橋是清邸は、現在、江戸東京博物館のたてもの園に移転復元されています。この建物が往時の姿のまま残されたのには、訳があります。

  二・二六事件で暗殺された高橋是清(1854-1936)の邸宅は、事件後、遺族の意思により赤坂から多磨墓地に移築されました。遺族も悲劇の館を壊すにしのびなく、だからといって当主の血の流れた屋敷にそのまま住み続ける気にもならなかったのでしょう。そのため、都心部が焼け野原になったのに消失をまぬがれ、小金井市江戸東京たてもの園に母屋部分が移築されました。

 1902(明治35)年に竣工した母屋は総栂普請。母屋和館の中に洋間もしつらえてある和洋折衷の住まいで、接客に用いた洋間の床は寄木張り。2階は是清の書斎や寝室として使われていました。

 移築にもいろいろな問題が生じるようです。高橋是清邸がたてもの園に移築された過程を知った建築専門家が「こんな保存方法があるものか。貫に釘を打ってしまうなんて、乱暴な!」と怒っている文章を読みました。貫(ぬき)とは、柱と梁などを組み合わせるとき、一本に穴をうがち、そこに差し込むを尖った部分をつくって組み合わせ固定する方法です。在来の伝統工法では、鉄の釘を打ちません。法隆寺でも東大寺でも、古い建築はこの貫の工法により、地震のゆれを吸収し、長く残ってきたのです。

 それが、高橋邸の移築では、「貫部分に釘が打たれてしまった、これでは大地震のときには、柱は梁を支えきれず、倒壊するだろう」という建築家の意見でした。
 たてもの園には建築専門家が学芸員として大勢います。専門家が移築に携わってきたのですから、この、「貫」に釘を打ち付けてしまうという工法も、なんらかの根拠があってのことだろうと思います。


 建築技法について何も知らない素人の想像ですが、昭和の多磨霊園移築時に、古い工法などに考慮せず新式工法で釘を打ち、見た目は同じにしたのかと。当時は復元の方法などについてまだ、「在来の工法のみで復元する」という考え方自体がなかったと思うのです。
 そして、たてもの園への移築復元にあたっては、釘を打ってある部分には、そっくり同じに釘を打ったのではないかと思いました。赤坂に最初に建てられた時の図面などは、焼けてしまって残されていなかったのではないか。そのため、たてもの移築復元するにあたっては、多磨霊園にあったときのまま復元するしかなかったのではないかと想像するのです。

 人が住み続けた古い家の場合、何度も増築や改築が加えられている場合が多いです。復元するときに、「増改築後の最後の姿」「最初に建てられたときの姿」「有名人が住んでいたころの姿」など、さまざまな建物の姿が考えらえるでしょう。建物の持ち主が何代かかわったときなど、ことに変化があったことと思います。

 現在では古建築保存への考え方もしっかりしているので、今後の建物復元には細心の注意が払われることと思います。

高橋是清邸玄関


<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする