2014/01/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(2)近代和風住宅
江戸時代、家を新築するには届け出が必要であり、商家などいくらお金があっても、2階建ては立てられない地域もあったし、身分によって玄関の造りに差があったり、贅沢な造りが禁止されたりしました。明治から昭和前期、庶民の住環境はまだまだ十分な状態にはなっていませんでしたが、お金持ちたちはお好みで家を建てることができるようになりました
接客用には洋館を建て、家族がくつろぐ日常生活用や別荘などでは和館が好まれました。熱海や日光などの別荘地域には、洋館を立てる人有り、和風建築に凝る人あり。
和館は「近代和風建築」と呼ばれ、西洋建築技術を取り入れながらの建物が工夫されました。例えば、従来の障子にガラスを取り入れたり、和風の家の内部に絨毯を敷きソファとテーブルを置いた居間を設けるなど「和洋折衷式」の住まいが近代和風として広がりました。
(1) 2011年11月06日に旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)を見ました。東京都文化財公開の日程で見学会があったので、参加したのです。
北泉寮、元は、1892(明治25)年、千代田区永田町に建てられた鍋島直大(なおひろ)侯爵家和館で、江戸時代の大名屋敷の伝統を残しています。鍋島公爵家も、洋館(1881建設)と和館の両方が建てられていたのですが、関東大震災(1923)のとき、洋館は崩壊、大正期に増設補強をした和館は残りました。この和館を、1927(昭和2)年に三井八郎右衞門高棟が買い受け、三井家別荘として東京都下拝島に移築しました。
三井高棟の三男高維(たかすみ1905~1979)英子(19051997)夫妻は帰国子女のための学校、啓明学園を創立し、三井家別荘は学生寮として利用されました。現在は、在学生の夏季合宿などに用いられています。





私の好きな古いガラスがはめ込まれた南側廊下のガラス障子。
千葉市稲毛区の「ゆかりの家」旧愛親覚羅溥傑仮寓を訪ねたときの記録です。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_49c5.html
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_668e.html
(2) ゆかりの家は、ラストエンペラー愛親覚羅溥儀の弟、溥傑と妻の浩が仮寓した家です。朝鮮王家の李垠が日本の皇族扱いとされ、宮殿(現 赤坂プリンスホテル・トリアノン)を建てたのに比べると質素な家という印象でした。しかし、政略結婚にもかかわらず互いに愛を育んだ溥傑と浩にとっては、思い出深い新婚の住まいでした。溥傑夫妻が住んだのは、1937(昭和12)年ころ。



どんなに贅沢な御殿でも、寒々とした愛のない家に住むよりは、愛に満ちた家に住みたいと、私も思います。とはいっても、現在の私のすまい、愛とともにさまざまなものが積み重なり折り重なり、ごみ箱状態なのはなんとかせねば。
<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(2)近代和風住宅
江戸時代、家を新築するには届け出が必要であり、商家などいくらお金があっても、2階建ては立てられない地域もあったし、身分によって玄関の造りに差があったり、贅沢な造りが禁止されたりしました。明治から昭和前期、庶民の住環境はまだまだ十分な状態にはなっていませんでしたが、お金持ちたちはお好みで家を建てることができるようになりました
接客用には洋館を建て、家族がくつろぐ日常生活用や別荘などでは和館が好まれました。熱海や日光などの別荘地域には、洋館を立てる人有り、和風建築に凝る人あり。
和館は「近代和風建築」と呼ばれ、西洋建築技術を取り入れながらの建物が工夫されました。例えば、従来の障子にガラスを取り入れたり、和風の家の内部に絨毯を敷きソファとテーブルを置いた居間を設けるなど「和洋折衷式」の住まいが近代和風として広がりました。
(1) 2011年11月06日に旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)を見ました。東京都文化財公開の日程で見学会があったので、参加したのです。
北泉寮、元は、1892(明治25)年、千代田区永田町に建てられた鍋島直大(なおひろ)侯爵家和館で、江戸時代の大名屋敷の伝統を残しています。鍋島公爵家も、洋館(1881建設)と和館の両方が建てられていたのですが、関東大震災(1923)のとき、洋館は崩壊、大正期に増設補強をした和館は残りました。この和館を、1927(昭和2)年に三井八郎右衞門高棟が買い受け、三井家別荘として東京都下拝島に移築しました。
三井高棟の三男高維(たかすみ1905~1979)英子(19051997)夫妻は帰国子女のための学校、啓明学園を創立し、三井家別荘は学生寮として利用されました。現在は、在学生の夏季合宿などに用いられています。





私の好きな古いガラスがはめ込まれた南側廊下のガラス障子。
千葉市稲毛区の「ゆかりの家」旧愛親覚羅溥傑仮寓を訪ねたときの記録です。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_49c5.html
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_668e.html
(2) ゆかりの家は、ラストエンペラー愛親覚羅溥儀の弟、溥傑と妻の浩が仮寓した家です。朝鮮王家の李垠が日本の皇族扱いとされ、宮殿(現 赤坂プリンスホテル・トリアノン)を建てたのに比べると質素な家という印象でした。しかし、政略結婚にもかかわらず互いに愛を育んだ溥傑と浩にとっては、思い出深い新婚の住まいでした。溥傑夫妻が住んだのは、1937(昭和12)年ころ。



どんなに贅沢な御殿でも、寒々とした愛のない家に住むよりは、愛に満ちた家に住みたいと、私も思います。とはいっても、現在の私のすまい、愛とともにさまざまなものが積み重なり折り重なり、ごみ箱状態なのはなんとかせねば。
<つづく>