2014/01/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(7)デ・ラランデ邸たてもの園のネーミング
旧岩崎邸の貴重な金唐革紙の壁紙にペンキを塗って「ぴかぴかに新しくなった」ことをよしとした米軍将校の話をしました。
家作りや補修において、「ペンキを塗る」というのは、芝刈りと並んでアメリカではとてもポピュラーな「男の家事」。将校夫人は「そうね、ここはクリーム色のペンキを塗って」なんて、夫や部下の兵士に指示していたのでしょうね。
金唐革紙、今では復元製作すると1平方メートルあたり、百万円もするそうです。(畳2枚分の屏風仕立てで500万。いつものことですが、すぐ値段の話になってしまって、すみません)
西洋住宅のうち、木造の場合、素木のままになっているのはあまりみかけません。とくにアメリカの木造一般住宅だと、好みの色合いにペンキを塗るのが、各家の個性にもなっているようです。
「下見板張り(したみいたばり)」または「押縁下見(おしぶちしたみ)」と呼ばれる薄く細い板を下から順に少しずつ重ねていく壁にペンキが塗られます。
文明開化後、一般住宅が洋館にデザインされたとき、この下見板張りが数多く採用されました。
前回、永井荷風(1879 -1959)の「偏奇館(へんきかん」が東京大空襲で焼失した話を書きました。
1920(大正9)年から1945年空襲で焼け落ちるまで、荷風41歳から65歳の20余年のあいだ住んだ家です。二階建て瓦葺木造洋館を新築したので、外観内装ともに荷風自身の好みが反映していたと見てよいでしょう。この洋館には「偏奇館」と名付けたのは、荷風が自分自身を偏屈偏奇な人と任じていることの表現であると思っていたのですが、それだけではなく、ネーミングに理由がありました。
荷風が住んだ洋館、下見板張りの外壁に青いいペンキが塗られた家だったのだそうです。(出典は、歴史学者の森銑三(1895-1985)の『明治人物夜話』講談社文庫1973ということですが、春庭は原典にあたっていませんので、孫引き伝聞です)
青いペンキでペンキ館=偏奇館、なんだ、ダジャレだったんじゃん。荷風先生、案外おちゃめな人だったのだと、親しみがわきました。
書院や茶室の建物には、昔から「銀閣」とか「如庵」などと名前がつけられてきました。現代も、大邸宅だけでなく、作家などの家にもしゃれた名前が付けられます。
白洲次郎正子夫妻が町田に建てた家の名「武相荘(ぶあいそう)」は、「武蔵の国と相模の国のあいだにある」という理由と、「無愛想」を掛けたものというので、やっぱり、ダジャレネーミング。まだ訪問したことないので、行ってみたい家のひとつです。
武蔵小金井の江戸東京たてもの園は、仕事先のひとつから近いので、仕事が早くおわったときにときどき散歩する場所です。
たてもの園内のいちばん新しい移築復元の建物は、2013年5月に公開されたデ・ラランデ邸です。私は、2013年9月に見学しました。
デ・ラランデ邸は、その名称について、各方面に異論が沸き起こりました。もとは、新宿区信濃町近くに建っていた三島食品工業(カルピス創業者三島海雲の会社)の所有だったから、旧三島邸とすべきだ、いや、明治時代に最初にこの邸宅を建てたのは、気象学者・物理学者の北尾次郎だから、旧北尾邸とすべきだ、など。
北尾次郎からデラランデが家を引き継ぎ、1914(大正3)年にデ・ラランデが死去し、何人かの所有者を経て三島海雲が1956年この家を手に入れました。三島食品は、1999年まで所有していました。東京都が買い取ってから、復元が完成するまで14年かかりました。研究者は元の図面が残っていないかなど、いろいろ調査を続けてきたことでしょう。
たてもの園のパンフレット解説によると、北尾次郎が建てた1建てを、1910(明治43)年ごろ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが、3階建てに増改築し、現在の姿にしたのだそうです。
改築者がデ・ラランデであったかどうかについては、建築史研究者から異論も出ています。ドイツで設計の勉強もした北尾次郎自身が改築も行い、デ・ラランデは一時的に借家として北尾邸に住んだだけだ、という説もあり、素人は何をどう信じたらよいのやら。
しかし、ネーミング理論からいうと、デラランデの名が採用されたこと、理解できます。
たてもの園には、近代和風住宅として高橋是清邸や三井八右衛門邸があります。また、昭和のアトリエ兼住宅として前田邸があり、田園調布の家の大川邸、堀口捨己作品の小住宅、小出邸など移築復元されています。しかし、本格的な洋館はなかったのです。北尾邸や三島邸では、大川邸、小出邸などとの差別化ができません。ここはひとつ「いかにも洋館」のイメージがほしいところ。改築者デ・ラランデの名前こそ、洋館をアピールすることができます。
横浜市が市内に残された洋館を修復復元し、エリスマン邸、イギリス館などのネーミングで公開している例があります。文明開化の魁を担った横浜市のイメージが、カタカナ名前の洋館の存在でアピールされ、観光に役立っているのです。
復元プロジェクトに関わった人々は、「たてもの園のいちばんあたらしい復元住宅は西洋館ですよ」と来園客に知らせるには、デ・ラランデの名がもっともインパクトが強いと、考えたのではないかと、建築素人ですが、ネーミング理論はいちおうかじった春庭は推測いたしました。
デ・ラランデ邸の復元。スレート葺きのマンサード屋根(腰折れ屋根)と下見板張りの外壁、1階の下見板張り部分は白い塗装で、屋根は赤い塗装で印象的な洋館です。
階段室
1階は、武蔵野茶房の店舗、お茶や軽食があります。田無にある店の支店で、私は武蔵境駅の駅ビル支店のカレー半額の日にのみ利用。
「デラランデ邸に招かれた大正ロマンの奥様」という気分でランチをいただきました。
あ、大正ロマンの奥様は、ランチ食べながら店内の写真を撮るほうがいそがしい、なんてことはしないわね。やっぱり私は「奥様」にはなれないから、奥様ごっこをする「女中たち」でもいいわ。
武蔵野茶房が営業している、元の客間
<つづく>