2013/01/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(5)弓矢で射て食うヤバいラーメン
江戸の十四事の第一番目が「射」。
弓矢は、旧石器使用の狩猟採集時代から、人類にとって大切な道具でした。
この列島に「いくさ」が起きて以来、弓矢はもっとも強力な武器であり、平安期から鎌倉時代の源平合戦など、南北朝、戦国時代前期まで、徒歩(かち)雑兵ではない、ひとかどの武士(騎馬武者)にとって、主な兵器は弓矢だったのです。「海道一の弓取り」と評されることは武士にとって名誉なことでした。
この「騎馬武者による弓矢の戦い」を徹底的に変えたのが、尾張の織田信長だということは、どの歴史教科書にも載っていることなのですが、徳川の安定時代になると、武士の十四事においては、鉄砲術は弓矢より上に見られることはありませんでした。鉄砲はあくまでも雑兵の武器でしたから。
私がこどものころに見たチャンバラ映画でも、ピストルを構える武士に対しては「なぬっ、飛び道具とは卑怯な!」と嘲りの叫びが浴びせられるのが常で、「騎射」すなわち馬術と弓術や剣術のほうが武士らしい術と思われていました。
武士の武芸十四事のうちの「射」が庶民に渡れば「射的」となり、「矢場」といういかがわしさも含む場所に様変わりしました。「射」の腕前が賭け事の対象になり、矢場は「不健全さも含む娯楽」に変わったのです。
言語文化を追求した一本槍の教師として、「現代日本語」という科目を学生に講じるとき、シェークスピアの振り回す槍の話のほか、「やばい」も主要なネタです。言語の変化、流行語と時代語などについて話す、社会言語学基礎をテーマにしたときに、学生に問いかけます。
行列ができる有名なラーメン屋に入ったグルメタレントがひとくちラーメンを食べて「う~ん、これはヤバい!」と叫ぶテレビ番組を見たとき、このラーメンは「うまい」「まずい」どちらでしょう、というクイズを出します。平成以後の生まれが大学に入学するようになった数年前から、学生の反応は100%「うまい」であって、「まずい」に手を上げる学生はいなくなりました。
「やばい」は、ここ50年のあいだに、意味変化を遂げた代表的な日本語です。
「すごい!」が、平安時代の「すごし=ぞっとする、気味悪いようす」から「ぞっと鳥肌立つほどすばらしい」に意味が移行しました。現代語では、「彼はすごいよ」と言えば、「彼はぞっとするような冷たい人だ」という意味ではなく「彼はすばらしい」という褒め言葉の方にしか受け取られなくなりました。
20世紀のあいだは、「ヤバいラーメン」と言えば、怪しげな骨のだしなんぞをつかっていて、腹下しなど起こしかねない調理法のラーメンでしたが、21世紀も四半世紀すぎてしまえば、「やばいラーメン」は、褒め言葉。
語源は、諸説あるなかで流布している説のひとつがあります。「江戸時代元禄期以後に広がった矢場で接客する女性を矢取り女、矢場女と呼ぶ。矢場で働く「矢場女」から、「矢場い」が危険な、良くない、という意味になった、という説。弓を射て当たれば景品を得る娯楽の場だった場所が、接客の女性を置くことによって次第に私娼窟化し、吉原などの管理された公娼に比べて、病気にかかっている率の高い危険な女性に接する場、というわけです。
もっとも、「矢場い」が実際に掲載されている江戸期の黄表紙本赤表紙本などの出典が見当たらないので、未検証の説ではあります。語源学にとって、文献に出ていない「推測」による説は、おもしろくはあっても、学説にはなりません。
1915年には、やくざが警察官を「矢場」と読んで危険視したという説もあります。こちらは明治以後の小説、暗黒社会探報ルポなどの記事をたんねんに探せば、掲載文献が見つかるかもしれません。どなたか、デジタル化した新聞のなかから「やばい」を探し当ててください。当たるも当たらぬも、弓矢しだい。江戸の矢場では見事マトを射抜けば、矢場女がドドンと太鼓鳴らして「あたりい~」と大声で褒めてくれましたが、「矢場い」が江戸時代の文献中にみつかれば、春庭が「大当たりい~」と褒めてさしあげます、、、景品がでないんじゃ、やるきでませんね。
和弓弓道を極めた人によれば、大切なのは精神修養ということになるらしいですが、江戸時代の娯楽としては、どうもやばかった。
矢場は、明治末期の浅草奥山でも繁盛していた娯楽でした。
現代のスポーツとしては、アーチェリー、射撃、馬術、フェンシング、どれをとっても西洋由来のもので、弓道、剣道などは、柔道が世界的なスポーツになったのに比べて、「ガラパゴス化」というか、日本国内競技にどどまりました。スポーツとしての和弓が衰退してしまうとしたら、ちょっとやばくね?
下の人形は、弓を引いてマトに当てる動作をするからくり人形です。人形が矢を選び、弓につがえて「よっぴいてひょう」と放ち、的を射るまでを自動で行います。
からくり儀右衛門こと田中久重の作った「弓曳き童子」。160年前に田中久重が作った最高傑作のゼンマイ式からくり人形が世界に2体だけ保存されていたものを複製復刻した人形です。
私が新年の江戸東京博物館3日15時の最終回で見たときは、4本の矢のうち最初の1本だけが的に当たりました。太夫さんの口上では、2日3日続けての実演で人形童子も疲れたのだそうです。
新年にいいものを見せてもらいました。日本のものづくりの実力を感じました。日本のものづくり、やばいよ(ほめことば)。
疲れていない方の弓曳童子をきれいな画像で(借り物:この弓曳童子が日本の2013年度機械遺産に登録されたというニュースの画像)
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(5)弓矢で射て食うヤバいラーメン
江戸の十四事の第一番目が「射」。
弓矢は、旧石器使用の狩猟採集時代から、人類にとって大切な道具でした。
この列島に「いくさ」が起きて以来、弓矢はもっとも強力な武器であり、平安期から鎌倉時代の源平合戦など、南北朝、戦国時代前期まで、徒歩(かち)雑兵ではない、ひとかどの武士(騎馬武者)にとって、主な兵器は弓矢だったのです。「海道一の弓取り」と評されることは武士にとって名誉なことでした。
この「騎馬武者による弓矢の戦い」を徹底的に変えたのが、尾張の織田信長だということは、どの歴史教科書にも載っていることなのですが、徳川の安定時代になると、武士の十四事においては、鉄砲術は弓矢より上に見られることはありませんでした。鉄砲はあくまでも雑兵の武器でしたから。
私がこどものころに見たチャンバラ映画でも、ピストルを構える武士に対しては「なぬっ、飛び道具とは卑怯な!」と嘲りの叫びが浴びせられるのが常で、「騎射」すなわち馬術と弓術や剣術のほうが武士らしい術と思われていました。
武士の武芸十四事のうちの「射」が庶民に渡れば「射的」となり、「矢場」といういかがわしさも含む場所に様変わりしました。「射」の腕前が賭け事の対象になり、矢場は「不健全さも含む娯楽」に変わったのです。
言語文化を追求した一本槍の教師として、「現代日本語」という科目を学生に講じるとき、シェークスピアの振り回す槍の話のほか、「やばい」も主要なネタです。言語の変化、流行語と時代語などについて話す、社会言語学基礎をテーマにしたときに、学生に問いかけます。
行列ができる有名なラーメン屋に入ったグルメタレントがひとくちラーメンを食べて「う~ん、これはヤバい!」と叫ぶテレビ番組を見たとき、このラーメンは「うまい」「まずい」どちらでしょう、というクイズを出します。平成以後の生まれが大学に入学するようになった数年前から、学生の反応は100%「うまい」であって、「まずい」に手を上げる学生はいなくなりました。
「やばい」は、ここ50年のあいだに、意味変化を遂げた代表的な日本語です。
「すごい!」が、平安時代の「すごし=ぞっとする、気味悪いようす」から「ぞっと鳥肌立つほどすばらしい」に意味が移行しました。現代語では、「彼はすごいよ」と言えば、「彼はぞっとするような冷たい人だ」という意味ではなく「彼はすばらしい」という褒め言葉の方にしか受け取られなくなりました。
20世紀のあいだは、「ヤバいラーメン」と言えば、怪しげな骨のだしなんぞをつかっていて、腹下しなど起こしかねない調理法のラーメンでしたが、21世紀も四半世紀すぎてしまえば、「やばいラーメン」は、褒め言葉。
語源は、諸説あるなかで流布している説のひとつがあります。「江戸時代元禄期以後に広がった矢場で接客する女性を矢取り女、矢場女と呼ぶ。矢場で働く「矢場女」から、「矢場い」が危険な、良くない、という意味になった、という説。弓を射て当たれば景品を得る娯楽の場だった場所が、接客の女性を置くことによって次第に私娼窟化し、吉原などの管理された公娼に比べて、病気にかかっている率の高い危険な女性に接する場、というわけです。
もっとも、「矢場い」が実際に掲載されている江戸期の黄表紙本赤表紙本などの出典が見当たらないので、未検証の説ではあります。語源学にとって、文献に出ていない「推測」による説は、おもしろくはあっても、学説にはなりません。
1915年には、やくざが警察官を「矢場」と読んで危険視したという説もあります。こちらは明治以後の小説、暗黒社会探報ルポなどの記事をたんねんに探せば、掲載文献が見つかるかもしれません。どなたか、デジタル化した新聞のなかから「やばい」を探し当ててください。当たるも当たらぬも、弓矢しだい。江戸の矢場では見事マトを射抜けば、矢場女がドドンと太鼓鳴らして「あたりい~」と大声で褒めてくれましたが、「矢場い」が江戸時代の文献中にみつかれば、春庭が「大当たりい~」と褒めてさしあげます、、、景品がでないんじゃ、やるきでませんね。
和弓弓道を極めた人によれば、大切なのは精神修養ということになるらしいですが、江戸時代の娯楽としては、どうもやばかった。
矢場は、明治末期の浅草奥山でも繁盛していた娯楽でした。
現代のスポーツとしては、アーチェリー、射撃、馬術、フェンシング、どれをとっても西洋由来のもので、弓道、剣道などは、柔道が世界的なスポーツになったのに比べて、「ガラパゴス化」というか、日本国内競技にどどまりました。スポーツとしての和弓が衰退してしまうとしたら、ちょっとやばくね?
下の人形は、弓を引いてマトに当てる動作をするからくり人形です。人形が矢を選び、弓につがえて「よっぴいてひょう」と放ち、的を射るまでを自動で行います。
からくり儀右衛門こと田中久重の作った「弓曳き童子」。160年前に田中久重が作った最高傑作のゼンマイ式からくり人形が世界に2体だけ保存されていたものを複製復刻した人形です。
私が新年の江戸東京博物館3日15時の最終回で見たときは、4本の矢のうち最初の1本だけが的に当たりました。太夫さんの口上では、2日3日続けての実演で人形童子も疲れたのだそうです。
新年にいいものを見せてもらいました。日本のものづくりの実力を感じました。日本のものづくり、やばいよ(ほめことば)。
疲れていない方の弓曳童子をきれいな画像で(借り物:この弓曳童子が日本の2013年度機械遺産に登録されたというニュースの画像)
<つづく>