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ぽかぽか春庭「トルコ展in東洋文庫」

2014-08-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

トルコのスルタン

20140811
ぽかぽか春庭アート散歩>オリエント(2)トルコ展in東洋文庫

 今期、担当したクラスの留学生のうち、トルコから来た学生には、4人と出会いました。男性1人、女性3人。
 全留学生のうち、中国韓国ほど多くはないですが、モーリタニア、シオラレオネというような、25年の間に出会った留学生は一人だけ、というほど少なくもない。

 今年のトルコ人、女性3人組は「日本の大学の教育学部で英語教授法を研究するのだけれど、最終レポートも英語で書くし、ゼミの先生も英語話せるから、日本語できなくても問題ない」と、日本語教育受講を軽視していて、日本語教師たちは「あの、物見遊山感覚の留学では、英語教授法の論文もろくな仕上がりにならないだろう」と、あきらめムード。

 日本語を熱心に学習した留学生たちの経験談。たとえば、日本の小学校中学校に見学に行くチャンスがあったとき、子供たちと日本語で会話し、先生方に日本語で質問をして答えをもらったことで、レポートのテーマについて大きなひらめきを得て、とても良い論文が仕上がった、ということも多いのです。英語教授法の論文を書くのに、英語だけ話していればよい、という考え方では、語学教育の成果はおぼつかないでしょう。

 まあ、日本への国費奨学金に応募したら合格したから、仕方なくアメリカではなく日本にきたのかもしれないけれど。
 トルコ3人娘は、毎回の単語テストも零点つづき。まったく単語も文型も覚える気が無し。

 ほんとうは、彼女らにとって、アメリカで「第二言語としての英語教授法」を習うより、日本で習うほうがずっと有意義なはずです。なぜなら、トルコ語は、日本語と同じ、SOV語順の膠着語なので、朝鮮韓国語、モンゴル語と同様に、日本語と文法構造がほとんど同じ、という言語だからです。

 トルコ人学生のうち、男子のN君は、既婚者の大学院生で、日本で就職したいという希望を持っているために、日本語習得に熱心です。こちらが教えることをいっしょうけんめい吸収しようとする学生に対しては、教師も熱心に教えます。それは人情としていたしかたない。

 N君、トルコのエルトゥールル号遭難事件について、熱く語っていました。彼によると、トルコ人が決して忘れずに語り継いでいる「明治のトルコ軍艦難破に際して、日本人がいかに親切であったか」という事件を、ほとんどの日本人が知らないでいると言うのです。

 私は、明治時代にそのような遭難事件があったこと自体は知っていましたが、「すべてのトルコ人は、エルトゥールル号が受けた恩義を100年たっても、決して忘れない」ということを彼から聞いて驚いてしまいました。N君によれば「トルコ人は、受けた恩を決して忘れない」
 よくよく調べてみれば、トルコ国内の調査で、エルトゥールル号遭難事件を知っている人は国民の3割ほどで、N君がいうように「すべてのトルコ人は知っている」ということでもないようです。

 だた、N君のように、日本に留学しているような人にとっては、日本トルコの友好関係の始まりとなった事件として、決して忘れることはない、ということなのでしょう。
 N君に言わせると「私は来日以来、日本の人に親切にしてもらってきた。これはエルトゥールル号遭難者を救助したその精神が、日本人の中にそのまま生きているのだろうと思う」と、なるのだと思います。

エルトゥールル号の模型


 7月26日、仕事帰りに東洋文庫によりました。(トルコ展2014年4月23日~8月10日)
 日本とトルコが国交を樹立して90年になるのを記念しての展覧会。エルトゥールル号の模型も展示されており、トルコと日本の友好の歴史が理解できる展示でした。


 東洋文庫ミュージアム1階オリエントホールの展示は、突厥やウイグルなどトルコ系の民族のさまざまな文化について、でした。フラッシュは禁止ですが、撮影は自由という東洋文庫ミュージアムの方針、私にはうれしい措置です。

 1階のオリエントホールの展示から。
 ウイグル族の王侯たちの肖像(ベゼクリフ千仏洞)各人物ひとりひとりの名前がウイグル文字で書かれています。


 日天子(クムトラ石窟壁画)日輪の化身であり、観音菩薩の変化した姿のひとつ。


 クムトラ石窟は、中国新疆ウイグル地区にある仏教遺跡です。シルクロードのオアシス都市国家として栄えた亀茲(きゅうし)国の石の断崖に千の穴がうがたれ、ひとつひとつに石仏が彫刻されており、現在は112の石窟が残されています。
 5~8世紀仏教遺跡。ペルシャのガラス椀が日本に運ばれ、古墳の副葬品となったそのころの遺跡です。日天子の壁画も東西の文化融合がよく示されている絵なのだそうです。

 2階の展示から。
  トルコ語で書かれた日本地図。1732年、オスマントルコの学者キャーティブ・チェレビは、世界地理の冒頭に日本地図を書き表しました。アラビア文字でミヤコ(京都)、ワカサ(若狭)、カズサ(上総)、シモツセ(下野)アワ(安房)などの地名が書き込まれています。

 『東方見聞録』がヨーロッパに日本を紹介して以来、「黄金の国ジパング」は、はるかなあごがれの異国でした。元朝時代の中国語では「日本国」の発音は、「ジーベングオ」でした。それをイタリア人マルコ・ポーロが「ジパング」として伝えたのです。
 マルコ・ポーロ(1254 - 1324)『東方見聞録(イル・ミリオーネ (Il Milione)』のイタリア語版写本の現存するもっとも古い版


 一方、日本で「トルコ」という国名が文献に現れるのは、江戸時代です。江戸時代以前、日本が国名として認識していたのは、朝鮮、中国、印度くらいで、あとはその他ひっくるめて南蛮と西戎(せいじゅう)でした。

 トルコという国名についての初出は、1715年刊行の『西洋紀聞』。新井白石がイタリア人宣教師ジョバンニBシドッチと面談して聞き知った西洋についての知識をまとめた本に、トルコについて書かれた部分があります。日本の人が「トルコ」という国名を初めて記した本です。18世紀初頭、トルコ帝国は、オーストリア・ヴェネツィアと戦争をしていました。イタリア人シドッチにとっては、侵略者トルコですが、白石に対しては、冷静に国情を語ったと思われます。白石は伝え聞いたトルコについて、以下のように書き残しました。
 現代語訳はムハンマッド・ムスタファ小林不仁男による。小林はイスラム教伝道者。(『日本イスラーム史』より)



 トルコはまたはツルコという。アフリカ、エウパエロ、アジアの地方につらなり、国都はコウスタンチンィ・またはコウスタンチノプール。(現イスタンブール)のことである。
その風俗はタルクーリャすなわち韃靼国にひとしく勇敢敵すべからず、丘ハ馬の多きこと二十万エウパエロの地方はその侵略に堪えずして各国相援けてこれに備う。アフリカ地方ことごとくトルカに属し、東北はゼルコニア(ゲルマンすなわちドイツ)に至り東南はスマアタラ(現スマトラ)に至るという。


 16世紀末に制作されたトルコ製の草花文様皿の複製品


 西洋からオリエント世界へ、そしてシルクロードを通って東のはずれ、日本へ。
 ミュージアム本館からレストランへ行く途中、東洋各地のことば各地の文字でさまざまなことわざ格言や偉人のことばが書かれていて、文字を見比べるのも楽しいです。

 文物と知識とが行き交ったはるかな道のりに思いをいたしながら、レストランマルコポーロで、カレーライスを食べました。(カレーが一番安かったのでね)

<つづく>
コメント (2)
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