20150318
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>三色七味日記3月(2)2003年の小さなお針子
12年前のうさぎ年、2003年の3月三色七味日記を再録、つづけます。
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2003/03/05 水 曇り
ジャパニーズアンドロメダシアター>『中国の小さなお針子』
午前中Aダンス。
午後、私はひとりで渋谷へ。家にいると、勉強しようとしない息子にいらいらして、また暗い一日になりそうだから、前から見たかった『中国の小さなお針子』を見ることにした。
行きがけに大盛堂の文庫店で津島佑子『快楽の本棚』と、『織田信長全合戦』を買う。
「信長全合戦」は、ゲーム「信長の野望」に夢中の息子を、少しでも歴史記述へ向かわせたいという、切なる親ばかの買い物。ゲーム三国志にはまっている人が全員中国史に向かうわけでも、FFにはまっている人がみんなファンタジーノベル読者になることもない、とわかってはいるが。
開演10分前にブンカムラの映画館に着いたら、150席くらいがほぼ売り切れで、私は142番だった。なぜ満席かというと、今日は映画サービスの日で、1800円の入場料が1000円だったから。
前から3列目の席だが、それほど見づらくなかった。一番いやなのは、前に上背のある人が座って、頭が字幕を隠すとき。今回は、前の人が大きくなかったので、よかった。身長150㎝、日頃は高い棚のものを取ろうとするときに不便を感じるくらいですむが、映画館では影響大。
中国の話だが、フランス制作なので、タイトルロールなどはフランス語だった。あとでパンフを見たら、原作脚本監督のダイ・シージエは、フランス在住の中国人作家。フランスでは原作が40万部のヒット。フランス語原題は『バルザックと小さなお針子』
あらすじ。文化大革命中の71年。知識青年農村下放再教育をうけることになった19歳のマー(両親は文学者)とルオ(父親は歯科医)。過酷な村の労働に従事しながら、村の仕立て屋の孫娘、「小さなお針子」という呼び名の娘に、バルザックやフローベルの小説を読み聞かせることで、重労働やいつ帰れるとも分からない将来の不安に耐える。
お針子の祖父は文学を知ることで孫娘がしだいに変化していくことに不安を感じる。実は仕立屋の祖父も「水滸伝」などの小説を好み、「違う世界を知る喜び」がわかる人なのだ。わかるから孫娘の変化が不安になる。
ルオと恋仲になったお針子はバルザックの小説を知ることによって自意識に目覚める。ルオの子をみごもるが、25歳前の女性には結婚が許されない。
妊娠を知ったら祖父はルオを殺しかねない。中絶せざるを得ないお針子を助けるために、マーは町の産科医をたずねて、非合法の中絶を頼む。産科医が自分も罪に問われるかもしれない手術をしてやる気になったのは、マーが服の裏に書き留めたジャン・クリストフのことばを読んだから。翻訳者がマーの父親だとわかったからだ。
産科医が「名訳だ。文体でマーの文だとわかる」という言葉を聞き、マーは泣き出してしまう。私はこの場面が一番好き。この「文体」がマーにとって「父の存在」であり、文化であり、自分を育てた環境への思いの凝縮なのだ。文体の力。
そして、言葉の力はお針子を変える。中絶によって「自分が今までと違う人間に生まれ変わったような」思いを経験したお針子。中絶という過酷な身体経験によって自意識を裏打ちされ、お針子は村を出ていく。自分で自分の人生の運をためすと。
ルオもマーもその決意を止めることはできない。もし止めたりしたら、自分たちがここから出ていけるかもしれないという望みも、否定することになるだろう。お針子をこの村に縛り付けることは、だれにもできないのだ。
27年後、村はダム建設で水底に沈む。中国トップクラスの歯科医となったルオと、フランスでバイオリニストとして活躍するマーは上海で再会し、お針子とすごした日々を回想する。マーは82年にお針子が深釧に居るという話を聞いて探したが、香港へ行ったらしい、といううわさだけしかわからなかった。
学校に行く機会がなかった少女が、都会にたった一人で出ていって、どんな人生をたどったか。彼女が幸福に暮らしたという描写がないということは、悲惨な末路をたどったことを暗示するのだろう。
それでも、彼女が「自分の人生を自分で決定した」ということに、この映画の最大の輝きがある。たぶん、未熟な決定だったのかもしれない。もう少し待って、もう少し学んでから出ていったなら、違う人生もあったろう。18歳の彼女が7年待てば、結婚が許される25歳になり、ルーかマーと結婚するチャンスを得たかもしれない。でも、その青春の7年を彼女は自分の決断で自分のものにしたのだから、だれも何も反対はできない。その7年間は彼女のものだし、それから先の人生も。
タイトルロールがフランス語だったので、残念。漢字バージョンも作って欲しかった。
2002年カンヌ映画祭ある視点オープニング作品。『村の郵便配達』は、見ようかどうしようか迷っていたが、息子役はマーを演じたリュウ・イェだというので、それじゃ、見に行こうかという気になった。
ことばの力を再確認することができる映画のひとつ。
映画が終わって、ブンカムラ通りを駅に向かい、ブックファーストに入る。いつも大盛堂にいってしまうので、ブックファーストに初めて入った。大型書店が渋谷に開店したというニュースは以前に見たのだが、駅からは大盛堂のほうが近いので。
何を買う予定もなかったが、店員の質はどうかと思い、児童書コーナーに行って「正確なタイトル忘れたんですけれど、ラングの童話集ありますか。なんとか色の童話集っていうんですけれど」とたずねると、すぐ「こちらです」と案内してくれた。
これなら、買う気になるね。本屋の店員が、作家名も書名も何も知らずに、どこにどの本がおいてあるのか、まるでわかってない本屋で買うのはいやだ。大盛堂より、広さがあるので、この次はこちらで本を探そうという気になる。スケールメリット。
池袋は、西武リブロは各フロアが別々なので、一冊だけ目的の本をさがすにはいいが、ぶらぶら探すにはむかない。それでジュンク堂の方へ行ってしまう。散歩コースとしての本屋は、1,いすにすわれる、2,広い。3,店員が本を知っている、この3点はゆずれない。
ラングの「~色の童話集」シリーズ、ぱらぱらと各巻の目次を立ち読み。
四十数年前に読んだ本の目次を読んで、タイトルから内容を思い出すかと期待したのに、全然思い出さない。あれぇ?という感じ。あんなに夢中になって全巻読んだのに。
アンデルセンは、タイトル見ただけで全部内容を思い出せる。家に本があって、繰り返し読んだからか。ラングは図書館の本だったから、繰り返し家で読むことはなかった。それでも、ひとつくらいはタイトルみたらパッと物語がよみがえってくるってものが、あるかと思ったのに。
ラングとアンデルセンによって、10歳ころの私は自分の住むせまい地域だけでなく、「世界」という広大な場所があることを知った。自分が暮らしているのとは違う生活の仕方があり、文化があると知ったのだ。そこへ行ってみたいという「テラ・インゴグニダ」へのあこがれを育てたというのに。
目次をながめるだけでなく、中味を読めば思い出すかと思ったが、それには立ち読みじゃなくてちゃんと読まねば、と本を棚に戻す。
テラ・インコグニダへ。私はケニアに行くときも、中国に行くときも、自分で決定することができた。
お針子は、バルザックを知ることで、広い世界に出ていきたくなった。自分で自分の行き先を決めた。彼女の人生にとって、その後にどんな過酷な人生が待ちかまえていようと、あのとき、彼女には自分で決定することが大事だったのだ。
本日のそねみ:活字の広大な世界をまえにして、自分の世界の広がりを信じられる若い心
2003/03/06 木 曇りのち雨
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ウラノハタケニイマス』
夕方、雨が降り出す中、西荻窪へ。西荻WENZスタジオで、Fuらっぷ舎公演『ウラノハタケニイマス--春と修羅をめぐる散歩』を見た。7時半開演9時まで。
ジャズダンス仲間の息子、ミラクルが出演している。ミラクルママの隣に坐ってみていたが、途中で眠った。
これはなかなかないことだ。私は根っからの貧乏性だから、注文したラーメンがどれほどまずくても、これで腹を下すという心配がない限り、たいていの場合全部食べるし、たとえ無料招待券で入場した映画演劇がさっぱりおもしろくなくても、最後まで見る。まずいラーメンでも作った人の労力への敬意として残しては悪いと思うし、つまらない映画でも、作った人はそれなりの努力をして作ったのだろうと思うからだ。
それが、自腹で入場料払って演劇を見に行って、出演者の母親が右隣に座っているのだから、礼儀としてもちゃんと彼の演技だけでも見なくちゃ、と思って意識したのに、どうにも眠気を誘われ、退屈で眠ってしまった。最前列で見ているのだから、出演者の意欲をそいでしまったとしたら、悪いことをした。
私の左隣の女性は、あくびを繰り返していたが寝てはいないらしい。彼女の「ファー」というあくびの息の漏れる音連続と、私の居眠り姿。ごめんね。ちゃんと見ることができなくて。
パンフの制作ごあいさつ。『春と修羅』からイメージされる感覚を再現した、と出ている。『春と修羅』は好きな詩集だし、自分の受け取った印象と違う詩の受け取り方があっても、また面白いだろうと見る気になったのだが、まったく感応することがなく、よほど相性が悪かったらしい。
これなら、ただ『春と修羅』を、棒読みでもいいから朗読してくれた方が、よかった。なんだか「独りよがりの前衛的現代音楽」を聞いているのと同じような気分。わからん。「役者の即興による演劇」というので、一回ごとに違う舞台になるらしいが、もう一度見る気力なし。
西荻駅前で、ミラクルママと11時くらいまでおしゃべり。
ミラクルが今回出演するについて、舞台制作費分担として5万円を主催者に払った。その金もママが出したというので、う~ん、ちょっとなあ。息子の才能を信じる気持ちは、母親の生き甲斐だろう。しかし、演劇やり続けたいなら、食う住むはまだ親の世話になるとして、演劇に関わる費用くらいは、ミラクル自分で稼げよなあ、と私は思ってしまう。
働き者の母に似ないで、経済力のまったくなかった実父に似てしまった息子を、愛し続け支え続けるミラクルママに乾杯!と、いっても、ビールを一人で飲んだのは私。ママは食事とコーヒーだけ。
ミラクル実父は、離婚した当初は毎月養育費25万円振り込んできたのだという。夫の働きのなさ、経済観念の欠如、借金がどんどん増える一方なのに耐えられず離婚したミラクルママ。夫が養育費も借金によって振り込んでいることがわかり、借金するなら振り込まなくてもいいと言ったら、まったく送金は途絶えてしまい、一人で働きながら息子ふたりを育て上げた。えらい!
現在はボーイフレンドと仲良く落語を楽しみ、いっしょに旅行し、楽しそう。現在が幸福なんだから、ちょっとは愚痴の聞き役になってもらってもいいだろうと、私も「うちの息子にとって、父親像が希薄なので、男の子としてちょっと心配」とか、「息子がちっとも勉強しないで困る」とか、余計な愚痴まで話す。
本日のひがみ:ミラクルママは超美人
2003/03/07 金 雨
日常茶飯事典>試験が終わればボーリング
息子、期末最終日。
今の読解力、資料探索力があれば、学びたいことが見つかれば、自分で学ぶ方法を探すことはできるだろう、という楽観論にすがるしかない。
息子は、クラスメートと「期末終了記念ボーリング大会」をしてきた。池袋で天丼を食べ、「3学期終了、中2クラスまもなく解散記念、中2最後の友情ボーリング大会」なんだって。
遊ぶ友達がいることはうれしいが、友達は天才秀才たち。皆塾へも行き、家庭教師もいて、一日に1時間2時間は勉強しているのだ。1日に5分も自宅学習をしていない息子は、「試験が終わって解放された」と、遊ぶ必要がないくらい、ふだん解放されっぱなしではないか。とはいえ、とにかく試験が終わって私もほっとした。
今の中学校を退学するなら、中国でもハワイでも留学するとか、山村留学して山仕事を手伝いながら通学するとか、新聞販売店に住み込んで働くとか、生き方暮らし方はいろいろあるよ、と息子に勧めてはみるが、そんな積極的な生き方を選べるようなら、心配はしない。息子が学校をやめた場合、何もしたくなくて家にひきこもり、昼夜逆転でゲーム三昧、という姿が目に浮かぶ。
ひきこもりはひきこもりで生き方であり、人間存在のしかたである。と、頭で理解しても、実際、家の中に図体だけでかくなっていく息子が青白い顔無精ひげで、パンツをとりかえる気力もなく、夜中にカップラーメンをすすり、と想像していくと、なんでもいいから、とにかく一人で食って生きていける生活力は身につけて欲しいと思ってしまう。
そういう「生活力」だの「たくましく」だのという価値観が、ひきこもりを差別することになる、って言われるんだろうが、そうは言ってもね。
本日のつらみ:ボーリング、ガーターばかりの我が人生
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20150318
息子に新書本「信長全合戦」を買ってやり、ゲーム「信長の野望」からシフトして少しでも「歴史の本好きにさせよう」というせこい母親の根回し、今となっては笑えました。26歳の息子の博士論文「織豊政権論」は、書き上がるのやら上がらないのやら。今も、論文書くよりゲームしていたほうが楽しいみたいです。
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>三色七味日記3月(2)2003年の小さなお針子
12年前のうさぎ年、2003年の3月三色七味日記を再録、つづけます。
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2003/03/05 水 曇り
ジャパニーズアンドロメダシアター>『中国の小さなお針子』
午前中Aダンス。
午後、私はひとりで渋谷へ。家にいると、勉強しようとしない息子にいらいらして、また暗い一日になりそうだから、前から見たかった『中国の小さなお針子』を見ることにした。
行きがけに大盛堂の文庫店で津島佑子『快楽の本棚』と、『織田信長全合戦』を買う。
「信長全合戦」は、ゲーム「信長の野望」に夢中の息子を、少しでも歴史記述へ向かわせたいという、切なる親ばかの買い物。ゲーム三国志にはまっている人が全員中国史に向かうわけでも、FFにはまっている人がみんなファンタジーノベル読者になることもない、とわかってはいるが。
開演10分前にブンカムラの映画館に着いたら、150席くらいがほぼ売り切れで、私は142番だった。なぜ満席かというと、今日は映画サービスの日で、1800円の入場料が1000円だったから。
前から3列目の席だが、それほど見づらくなかった。一番いやなのは、前に上背のある人が座って、頭が字幕を隠すとき。今回は、前の人が大きくなかったので、よかった。身長150㎝、日頃は高い棚のものを取ろうとするときに不便を感じるくらいですむが、映画館では影響大。
中国の話だが、フランス制作なので、タイトルロールなどはフランス語だった。あとでパンフを見たら、原作脚本監督のダイ・シージエは、フランス在住の中国人作家。フランスでは原作が40万部のヒット。フランス語原題は『バルザックと小さなお針子』
あらすじ。文化大革命中の71年。知識青年農村下放再教育をうけることになった19歳のマー(両親は文学者)とルオ(父親は歯科医)。過酷な村の労働に従事しながら、村の仕立て屋の孫娘、「小さなお針子」という呼び名の娘に、バルザックやフローベルの小説を読み聞かせることで、重労働やいつ帰れるとも分からない将来の不安に耐える。
お針子の祖父は文学を知ることで孫娘がしだいに変化していくことに不安を感じる。実は仕立屋の祖父も「水滸伝」などの小説を好み、「違う世界を知る喜び」がわかる人なのだ。わかるから孫娘の変化が不安になる。
ルオと恋仲になったお針子はバルザックの小説を知ることによって自意識に目覚める。ルオの子をみごもるが、25歳前の女性には結婚が許されない。
妊娠を知ったら祖父はルオを殺しかねない。中絶せざるを得ないお針子を助けるために、マーは町の産科医をたずねて、非合法の中絶を頼む。産科医が自分も罪に問われるかもしれない手術をしてやる気になったのは、マーが服の裏に書き留めたジャン・クリストフのことばを読んだから。翻訳者がマーの父親だとわかったからだ。
産科医が「名訳だ。文体でマーの文だとわかる」という言葉を聞き、マーは泣き出してしまう。私はこの場面が一番好き。この「文体」がマーにとって「父の存在」であり、文化であり、自分を育てた環境への思いの凝縮なのだ。文体の力。
そして、言葉の力はお針子を変える。中絶によって「自分が今までと違う人間に生まれ変わったような」思いを経験したお針子。中絶という過酷な身体経験によって自意識を裏打ちされ、お針子は村を出ていく。自分で自分の人生の運をためすと。
ルオもマーもその決意を止めることはできない。もし止めたりしたら、自分たちがここから出ていけるかもしれないという望みも、否定することになるだろう。お針子をこの村に縛り付けることは、だれにもできないのだ。
27年後、村はダム建設で水底に沈む。中国トップクラスの歯科医となったルオと、フランスでバイオリニストとして活躍するマーは上海で再会し、お針子とすごした日々を回想する。マーは82年にお針子が深釧に居るという話を聞いて探したが、香港へ行ったらしい、といううわさだけしかわからなかった。
学校に行く機会がなかった少女が、都会にたった一人で出ていって、どんな人生をたどったか。彼女が幸福に暮らしたという描写がないということは、悲惨な末路をたどったことを暗示するのだろう。
それでも、彼女が「自分の人生を自分で決定した」ということに、この映画の最大の輝きがある。たぶん、未熟な決定だったのかもしれない。もう少し待って、もう少し学んでから出ていったなら、違う人生もあったろう。18歳の彼女が7年待てば、結婚が許される25歳になり、ルーかマーと結婚するチャンスを得たかもしれない。でも、その青春の7年を彼女は自分の決断で自分のものにしたのだから、だれも何も反対はできない。その7年間は彼女のものだし、それから先の人生も。
タイトルロールがフランス語だったので、残念。漢字バージョンも作って欲しかった。
2002年カンヌ映画祭ある視点オープニング作品。『村の郵便配達』は、見ようかどうしようか迷っていたが、息子役はマーを演じたリュウ・イェだというので、それじゃ、見に行こうかという気になった。
ことばの力を再確認することができる映画のひとつ。
映画が終わって、ブンカムラ通りを駅に向かい、ブックファーストに入る。いつも大盛堂にいってしまうので、ブックファーストに初めて入った。大型書店が渋谷に開店したというニュースは以前に見たのだが、駅からは大盛堂のほうが近いので。
何を買う予定もなかったが、店員の質はどうかと思い、児童書コーナーに行って「正確なタイトル忘れたんですけれど、ラングの童話集ありますか。なんとか色の童話集っていうんですけれど」とたずねると、すぐ「こちらです」と案内してくれた。
これなら、買う気になるね。本屋の店員が、作家名も書名も何も知らずに、どこにどの本がおいてあるのか、まるでわかってない本屋で買うのはいやだ。大盛堂より、広さがあるので、この次はこちらで本を探そうという気になる。スケールメリット。
池袋は、西武リブロは各フロアが別々なので、一冊だけ目的の本をさがすにはいいが、ぶらぶら探すにはむかない。それでジュンク堂の方へ行ってしまう。散歩コースとしての本屋は、1,いすにすわれる、2,広い。3,店員が本を知っている、この3点はゆずれない。
ラングの「~色の童話集」シリーズ、ぱらぱらと各巻の目次を立ち読み。
四十数年前に読んだ本の目次を読んで、タイトルから内容を思い出すかと期待したのに、全然思い出さない。あれぇ?という感じ。あんなに夢中になって全巻読んだのに。
アンデルセンは、タイトル見ただけで全部内容を思い出せる。家に本があって、繰り返し読んだからか。ラングは図書館の本だったから、繰り返し家で読むことはなかった。それでも、ひとつくらいはタイトルみたらパッと物語がよみがえってくるってものが、あるかと思ったのに。
ラングとアンデルセンによって、10歳ころの私は自分の住むせまい地域だけでなく、「世界」という広大な場所があることを知った。自分が暮らしているのとは違う生活の仕方があり、文化があると知ったのだ。そこへ行ってみたいという「テラ・インゴグニダ」へのあこがれを育てたというのに。
目次をながめるだけでなく、中味を読めば思い出すかと思ったが、それには立ち読みじゃなくてちゃんと読まねば、と本を棚に戻す。
テラ・インコグニダへ。私はケニアに行くときも、中国に行くときも、自分で決定することができた。
お針子は、バルザックを知ることで、広い世界に出ていきたくなった。自分で自分の行き先を決めた。彼女の人生にとって、その後にどんな過酷な人生が待ちかまえていようと、あのとき、彼女には自分で決定することが大事だったのだ。
本日のそねみ:活字の広大な世界をまえにして、自分の世界の広がりを信じられる若い心
2003/03/06 木 曇りのち雨
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ウラノハタケニイマス』
夕方、雨が降り出す中、西荻窪へ。西荻WENZスタジオで、Fuらっぷ舎公演『ウラノハタケニイマス--春と修羅をめぐる散歩』を見た。7時半開演9時まで。
ジャズダンス仲間の息子、ミラクルが出演している。ミラクルママの隣に坐ってみていたが、途中で眠った。
これはなかなかないことだ。私は根っからの貧乏性だから、注文したラーメンがどれほどまずくても、これで腹を下すという心配がない限り、たいていの場合全部食べるし、たとえ無料招待券で入場した映画演劇がさっぱりおもしろくなくても、最後まで見る。まずいラーメンでも作った人の労力への敬意として残しては悪いと思うし、つまらない映画でも、作った人はそれなりの努力をして作ったのだろうと思うからだ。
それが、自腹で入場料払って演劇を見に行って、出演者の母親が右隣に座っているのだから、礼儀としてもちゃんと彼の演技だけでも見なくちゃ、と思って意識したのに、どうにも眠気を誘われ、退屈で眠ってしまった。最前列で見ているのだから、出演者の意欲をそいでしまったとしたら、悪いことをした。
私の左隣の女性は、あくびを繰り返していたが寝てはいないらしい。彼女の「ファー」というあくびの息の漏れる音連続と、私の居眠り姿。ごめんね。ちゃんと見ることができなくて。
パンフの制作ごあいさつ。『春と修羅』からイメージされる感覚を再現した、と出ている。『春と修羅』は好きな詩集だし、自分の受け取った印象と違う詩の受け取り方があっても、また面白いだろうと見る気になったのだが、まったく感応することがなく、よほど相性が悪かったらしい。
これなら、ただ『春と修羅』を、棒読みでもいいから朗読してくれた方が、よかった。なんだか「独りよがりの前衛的現代音楽」を聞いているのと同じような気分。わからん。「役者の即興による演劇」というので、一回ごとに違う舞台になるらしいが、もう一度見る気力なし。
西荻駅前で、ミラクルママと11時くらいまでおしゃべり。
ミラクルが今回出演するについて、舞台制作費分担として5万円を主催者に払った。その金もママが出したというので、う~ん、ちょっとなあ。息子の才能を信じる気持ちは、母親の生き甲斐だろう。しかし、演劇やり続けたいなら、食う住むはまだ親の世話になるとして、演劇に関わる費用くらいは、ミラクル自分で稼げよなあ、と私は思ってしまう。
働き者の母に似ないで、経済力のまったくなかった実父に似てしまった息子を、愛し続け支え続けるミラクルママに乾杯!と、いっても、ビールを一人で飲んだのは私。ママは食事とコーヒーだけ。
ミラクル実父は、離婚した当初は毎月養育費25万円振り込んできたのだという。夫の働きのなさ、経済観念の欠如、借金がどんどん増える一方なのに耐えられず離婚したミラクルママ。夫が養育費も借金によって振り込んでいることがわかり、借金するなら振り込まなくてもいいと言ったら、まったく送金は途絶えてしまい、一人で働きながら息子ふたりを育て上げた。えらい!
現在はボーイフレンドと仲良く落語を楽しみ、いっしょに旅行し、楽しそう。現在が幸福なんだから、ちょっとは愚痴の聞き役になってもらってもいいだろうと、私も「うちの息子にとって、父親像が希薄なので、男の子としてちょっと心配」とか、「息子がちっとも勉強しないで困る」とか、余計な愚痴まで話す。
本日のひがみ:ミラクルママは超美人
2003/03/07 金 雨
日常茶飯事典>試験が終わればボーリング
息子、期末最終日。
今の読解力、資料探索力があれば、学びたいことが見つかれば、自分で学ぶ方法を探すことはできるだろう、という楽観論にすがるしかない。
息子は、クラスメートと「期末終了記念ボーリング大会」をしてきた。池袋で天丼を食べ、「3学期終了、中2クラスまもなく解散記念、中2最後の友情ボーリング大会」なんだって。
遊ぶ友達がいることはうれしいが、友達は天才秀才たち。皆塾へも行き、家庭教師もいて、一日に1時間2時間は勉強しているのだ。1日に5分も自宅学習をしていない息子は、「試験が終わって解放された」と、遊ぶ必要がないくらい、ふだん解放されっぱなしではないか。とはいえ、とにかく試験が終わって私もほっとした。
今の中学校を退学するなら、中国でもハワイでも留学するとか、山村留学して山仕事を手伝いながら通学するとか、新聞販売店に住み込んで働くとか、生き方暮らし方はいろいろあるよ、と息子に勧めてはみるが、そんな積極的な生き方を選べるようなら、心配はしない。息子が学校をやめた場合、何もしたくなくて家にひきこもり、昼夜逆転でゲーム三昧、という姿が目に浮かぶ。
ひきこもりはひきこもりで生き方であり、人間存在のしかたである。と、頭で理解しても、実際、家の中に図体だけでかくなっていく息子が青白い顔無精ひげで、パンツをとりかえる気力もなく、夜中にカップラーメンをすすり、と想像していくと、なんでもいいから、とにかく一人で食って生きていける生活力は身につけて欲しいと思ってしまう。
そういう「生活力」だの「たくましく」だのという価値観が、ひきこもりを差別することになる、って言われるんだろうが、そうは言ってもね。
本日のつらみ:ボーリング、ガーターばかりの我が人生
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20150318
息子に新書本「信長全合戦」を買ってやり、ゲーム「信長の野望」からシフトして少しでも「歴史の本好きにさせよう」というせこい母親の根回し、今となっては笑えました。26歳の息子の博士論文「織豊政権論」は、書き上がるのやら上がらないのやら。今も、論文書くよりゲームしていたほうが楽しいみたいです。
<つづく>