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ぽかぽか春庭の「2003年の教えることの復権」

2015-03-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150326
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年三色知恵の輪日記(5)2003年の教えることの復権

 2003年の三色七味日記再録を続けています。
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2003/03/22 土 晴れ 
トキの本棚>『教えることの復権』

 苅谷剛彦夏子大村はまの新書『教えることの復権』読了。何より大村はまが96歳で、まだ生きていたことに感激。
 私が国語教師になったとき、すでに大村は「おばあさん先生」であり、「大村の単元学習」の時代は終わった、と言われていたのである。

 私は山ほどの国語教育関係書を読み、結局、国語教育とは何かわからないまま、3年で国語教育から敗退した。退職するとき、後輩の国語教師に国語教育関係書は全部あげてしまったので、一冊も残していない。あのときは「国語」なんて言葉を見るのもいやだった。大村はまを読んだのか、ということもいっさい覚えていない。読んでも頭に残っていないのなら、読まなかったのと同じ。私にとっては、ただ「伝説の国語教師」であった。

 大村は、74歳まで現役国語教師を続けていた。私には、またまたびっくり。管理職につかない一教師としてすごすとしても、60歳を過ぎたら退職勧告に従わざるを得ない状況にさせられると思っていたが、さすが伝説の教師、74歳まで現役だったとは。
 60歳すぎ、大学の教育学部などから引く手あまただったろうと思うが、最後まで中学校国語科教師を貫いたことだけでも、私は尊敬するね。

 苅谷夏子は、石川台中学校での大村の教え子にあたるという。ラッキーだ。夏子の「授業を受けた思い出」と大村の回想や過去の著作からの引用、最終章が苅谷剛彦の大学での授業についての話で構成されている。

 私は単元学習の教授法や研究授業について、きちんと学んだ覚えもないまま国語教師をやめたが、もし30年前に単元学習をとりいれたとしても、たぶん成功しなかったろうと思う。独身の大村が全勢力を教材研究教材準備にかけ、それでも時間が足りなくて「生徒をかわいいなんて思っている暇もなかった」と述懐しているのを読んでも、30年前の私に、このような教材研究の能力も単元学習(総合学習国語科版)をやり遂げる授業技術もなかったろう。

 大村の教え子で国語教師になった者は少ない、という夏子の証言。国語教育をするのが、これほどエネルギーのいる、ものすごい行為だということが身にしみてわかっていて、大村をこえる教師にはなれないとわかっているから、国語教師という職をあえて「先生にあこがれて」なんて理由で選ぶことはできなかったのであろう。

 生徒の自主性を生かす、とか、自由な発想を尊重する、なんてことが、アダおろそかにできることじゃない、ということが身にしみているわけではない文部科学省の小役人たちの、安易な発想で決定し、現場教師が小手先でやりすごそうとしている総合学習。

 一般の小中学校で、どれだけの成果をあげることができるだろうか。家庭も教頭校長昇進試験もすべて捨て去り、授業だけに情熱を捧げる教師でなくて、「総合学習、自主的に考えなさいと生徒にまるなげ」するような教師ばかりで、どういう結果がでるか、わかりきったこと。

 もちろん、何年間かあとの教育研究とか事例研究では「こんなにうまくいった」というような特殊な例ばかり出るだろうけど。

 生徒引率して博物館へ連れて行き、騒ぎまくる子供たちに「はい、自由に自主的に見物してレポートをまとめましょう」で終わりにして、博物館喫煙室でたばこすって居眠りする教師が想像できる。
 大学授業の部の中で、「教えること、学生に考えさせること」について確信が持てたのでよかった。

本日のねたみ:わたしも教わりたかったカリスマ教師


2003/03/23 日 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ミュージック オブ ハート』

 夜、メリル・ストリープの『ミュージック オブ ハート』見た。実話をもとにした音楽教師奮闘ストーリー。

 あらすじ。ロベルタはネイビィの夫に浮気&離婚され、息子二人を養うためにハーレムの公立小学校の臨時音楽教師になる。正式な教員免許はないが、課外バイオリン教室で10年間教え、子供たちに音楽の喜びや生きる指針を与える。
 市の教育予算削減のために教室が閉鎖される事態になり、ロベルタは友人や教え子たちの助けを借りて、アイザック・スターンやイツァク・パールマンらが賛助出演するコンサートを成功させ、教室存続の資金を稼ぐ。というドキュメンタリー映画をもとにした映画。
 子供たちのエピソードは、女の子がギャングの流れ弾に当たって死んでしまったり、せっかく奨学金を貰えそうになったのに、DVのために母といっしょに父の暴力から逃れて身を隠すことになってしまう子とか、ありがちな設定になっているが、もとのロベルタのストーリーは実話。

 メリル・ストリープは、やたらにぎゃんぎゃんわめく。恋人になりそうだったボーイフレンドにも、「正式な結婚じゃなかったら、あんたいらない、出ていけ」と窓ガラスを割るし、こんなに怖いと、夫も逃げたくなるよなあ、と思う。メリルストリープの造形なのか、本物のロベルタがこういうキャラだったのか、わかんないけど。
 日本だったら、女校長や同僚にあんな具合に突っかかってわめきたてたら、それだけで「協調性のないヒステリー教師」と職員室から総スカン。映画のロベルタは味方を増やしていったから、アメリカじゃあれくらい自己主張をしないと存在感なくなっちゃうのかもしれない。

 大村はまとロベルタ。迫力満点の女教師を前に、私なんぞ教師と名乗るもおこがましいよな、と縮む。

本日のちぢみ:ちぢみ志向の日本語教師


2003/03/24 月 曇り 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『マドモアゼル』

 息子、終業式。もっと悲惨な通知票を予定していたが、そこまでひどくはなかった。

 『マドモワゼル』の感想を娘と話していて、私の画面読みとりミスが発覚。私は、画面冒頭で主人公クレアが見つめるのアルメン灯台のポスターのキャプションを見落としたのだ。そのため、最初に私が持った感想は「これじゃ不満」だった。

 最初の感想。
 『マドモワゼル』は恋愛映画。たった一日だけの恋。たった4日間の出会いの思い出を一生ため込んでいた『マディソン郡の橋』ほど、ズシンと重くない。そんな「橋の思い出」を抱え込んだままの女房の隣で何十年も眠らなければならなかった夫に比べて、クレアの夫は声のみで顔も姿も出てこない。夫はこの映画にマッタク関係ないのだ。

 あらすじ。冒頭シーン、灯台のポスターを見て、クレアは一晩の出来事を思い出す。クレアのたった一日の恋物語が始まる。

 医薬品セールスで地区の担当責任者に昇格したクレア(字幕ではクレールと表記されていたが、私の耳にはクレアに聞こえた)が、会議のためにミラノの近くの地方都市へ出かける。帰りの電車に乗り遅れ、会議後のパーティ余興で即興芝居をしていた一座の車に同乗。その一座の俳優ピエールと一晩をすごすという「大人の恋愛おとぎ話」

 ピエールは結婚式の余興に出演するために金持ちのパーティに行く。忘れ物の灯台レプリカを取りに戻ったクレアに、自作で未完のままの灯台守の恋の話をする。クレアは結婚式のスピーチとして即興でこの話をして、ピエールに戯曲を仕上げるようすすめる。ヤマハのバイクで町を走り、英国製の中古車のなかで朝を迎えて、ふたりは別れる。

 医薬品の中堅セールスとして仕事も順調、9歳と7歳のこどものいる家庭。何の不満もない平凡だが幸福な生活。ピエールと一晩過ごしたことで、クレアの人生は変わったのだろうか。もしかしたら、たまたま灯台のポスターを見て思い出したのではなく、夫のひげそりクリームを買うたびに思い出すことなのかもしれない。そのたびに「自分はどこにでもいるつまらないマダムではなく、一晩のアバンチュールを終える朝、マドモワゼルとギャルソンに呼ばれた、恋に燃えることもできる心を持った女なのだ」と思い返すことで、彼女の人生が変わったのかもしれない。

 でも、画面では薬屋でひげそりクリームを買う前のクレアと、夫や子供たちといっしょに車に乗ってショッピングしている間、灯台のポスターみて思い出にふけっているクレアのどこが違うのか、あんまりわからない。『マディソン郡の橋』のように、平凡で退屈な夫との生活に飽き飽きしているという描写があったのなら、「たった一晩の恋愛の効用」がよくわかるんだけど。

 私は「へ~んしん!」と「革命!」が大好きなのだ。彼女がこの一晩の恋愛で自分の人生に自信や満足感を持つようになったのかどうか、をはっきり描いてくれないことには、この恋の思い出のありがたみが減るような気がする貧乏性なのである。

 ピエールのほうは、自分の「即興劇団旅芸人」として惰性で生きていく生活から、「成功するかどうか、わからないが、とにかく戯曲を仕上げるという希望を持った俳優」に変化したのかどうか、これまたよくわからない。冒頭の灯台のポスター、私にはフランス語がわからないから、ただの観光ポスターと思って見ていたが、もしかして『灯台守』と題されたピエールの戯曲のポスターだったのかしらとも気になった。
 ピエールのほうに重点をおけば、クレアを「たった一晩だけのファムファタール」として、しがない役者から劇作家へ「へ~んしん」する物語にもできただろう。そうなると映画のタイトルは「マドモワゼル」ではなく当然「灯台守」である。私には、そのほうが面白いんだけど、作品的には平凡になるだろうな。

 新人劇作家の作品『灯台守』のポスターを見つめるクレア。自分の存在によって、この作品は「永遠の胎児」であることから抜けだし、この世に生み出されてきたのかもしれない、という感慨にふけるクレア。「私がこの作品を世に出すきっかけを作った。でも、私はこの二人の子供ととりえのない夫との平凡な生活を、自分の意志で選んだのよ」という顔でポスターから視線を離すクレア。そういうラストだったら、私の「へ~んしん」願望がもっと満足したのにね。

 と、娘に話していたら、「何言ってんの。そういう話だったんじゃない。あの灯台のポスターは国立劇場の劇のポスターだったもの」という。
 私は「トゥルーズ国立劇場」という画面の説明を完全に見落としていて、ただの観光ポスターだと思ったのだ。「ピエールが劇作家として成功したのを知って、クレアはとても複雑な表情をしていたじゃないの。うれしいようなさびしいような。何見てきたのよ、お母さん」

 なんと間抜けな映画鑑賞をしたものだ。それで、夕方5時からもう一度見る。シネマカードがあるから、同じ映画を2回続けてみる、という経験をした。これまで同じ映画をみることはあっても、それはビデオでみたり、テレビでみたりするくらいで、同じ映画館で続けてみるなんてコトは始めて。

 2度目はちゃんと、国立劇場という字幕の説明も、ポスターの中の「ピエール・カッシーニ」という劇作家名前クレジットもちゃんと見た。ラストシーンにも出てくるポスター。

 戯曲が国立劇場で上演されて、ピエールはビッグになっていくのかもしれない。でも、クレアの子供たちは買ってもらったプレステに夢中で、彼らが将来劇作家の名前に注意を向けることはないだろうなあ、クレアは劇作家の恋人ではなく、プレステ大好きな子供を選んだのだ。

 それでもって、この恋愛映画は星三つから五つになりました。

 字幕キャプションを見落して、内容を読み違えたなんて、自分の映画の見方にがっくりきました。 
 たぶん、私が小説を読んだり論文を読んだりするときも、大切な何かを読み落として、思い違いのままのものがたくさんあるんじゃないかな。
 もともと映画でも演劇でも小説でも、自分を「見巧者読み巧者」と、思ったことはなかったが、見巧者ではないものの「ちゃんと内容を理解できるくらいの読みとり方はしている」という根拠のない自信を持っていた。
 娘と話さなかったら「トゥルーズ国立劇場」の文字を見落としていたことなど、まったく気づかないままだった。本はひとりで読めばよい、映画は一人で見るからいい、と思っていたけれど、読書会とか映画感想話し合い会は、私のような独りよがりの思いこみ人間には必要なんですね。

本日のつらみ:うちの子たちも、プレステが好き。母が劇場にさそっても、プレステゲームのほうがいいってさ


2003/03/25 火 雨 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『年下の男』

 昨日と今日、ビデオにとっておいた「ドラマ最終回」をつづけてみた。娘が好きな内舘牧子『年下の男』と、どうでもいいといいながら結局全部みてしまったキムタク『グッドラック』
 今期みたのは、ほかに松島菜々子主演の『美女か野獣』。連続ドラマどれを見るか決定権は娘にある。

 稲森いづみは、どうやっても「反町を菜々子に取られた2番手女優」というレッテルがはがれないので、さえないOL役にはぴったり。
 菜々子は「美女か野獣」でキャラに文句付け「こんなんじゃ、私バカみたいじゃないですか」のひとことで、ドラマの途中でキャラ設定が変わって、突然ただのタカビー女からイイヒトに変わってしまう、というわがままが許されたそう。
 こちらも「お約束」の塊だけでドラマができていた。娘と息子につきあって、半分くらいは見た。ひとつとしてストーリー展開の予想がはずれた回がなかった。テレビドラマとはすべて水戸黄門か。

 菜々子の「印籠」は「親が政府の役人で大臣の側近」という設定。父親は、娘に突っつかれたくらいで大臣の汚職を認めてしまう、しょうもない人間である。ここは、汚職の事実を隠し通すために娘を殺して自分も自殺、っていうくらいにすると、衝撃のラストになってよかったのにね。

 もう眠くなって、ばかばかしさについていけなくなって、福山雅治と空港でヨリをもどすシーンは寝てしまったので見られなかった。どんな馬鹿な設定、あり得ない展開でも「そんなばかな」と言いながらドラマを見るのがテレビドラマ視聴の正しい姿であるのに、最後までばかばかしさと付き合ってやれないなら、最初から見なければいいようなものだが。

 内舘ドラマは、今回も最初からラス前までどろどろぎゃあぎゃあやっていて、ラストでみんな丸くおさまる、というお約束通りの終わり方。

 稲森の山口千華子、私の予想通りに「年下の男に結婚申し込まれてうれしかったけど、仕事もうちょっとがんばってみるから」という健全路線でおわり。
 風吹じゅんのモモエ「高橋克典とは別居生活だけどうまくやっていく」で、ミノルは「家族から解放されて新しい人生」だし、もう、それぞれ「成長したら家族は新しい自分だけの道を歩いていっていいんだよね」という「そんな当たり前の終わり方でいいのかあ」の最終回だった。
 星野まりは「成長していい女になる」だし。たった一人最後までどろどろ「ぜったいに自分以外の人間が幸福になるのを許せない」と突っ張っていた梓も角が取れていく気配だし。耄碌じじいのじろうさんが最後まで死ななかったのも、なんだかなあ。癌のじいさんくらい往生させてやればいいのに。娘の「最後は全員死んじまうとかしないと収まらないよ」という「内舘への反乱」は鎮圧されました。

 グッドラックは初回から最終回まで、ストーリーになんの破綻も波瀾万丈もどきどきも、来週はどうなっちゃうんだろうもなく、予定通りに年上組も年下組もラブラブで終わって、ええい、こんなにうまくいく人生ばかりみせちゃ、いたいけな青少年に「人生甘いもんです」と思わせちゃうじゃないか、教育上よくないドラマだなあと思わせる。
 何を演じてもただひたすら「キムタク」でしかないというのも、演技者としてはつらいものがあるのかもしれないが、私はキムタクを見ていたのだからまあいいや。途中でちょとは演技パターンがかわることがあるのかと思ったが、最後までキムタクでした。おしまい。

本日のそねみ:ナナコはどんなわがままも許され、キムタクは高いところから落っこちて重症骨折でも、現場復帰可能

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20150324
 ドラマのようにすらすら運ぶ人生なんてありっこないのだけれど、それにしても私の人生、ぎくしゃくとよろけながら、大貧民ゲームの貧民から抜け出せないのか。トランプの大貧民では、最低札が集まれば逆転できるはずなのに。

<つづく>
コメント (2)
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