ヤンゴン市内シュエダゴン・パゴダ
20150328
ミンガラ春庭ミャンマー便り>3月ヤンゴン出張(1)ミンガラバー
ミンガラバーというのは、字義どおりには、「あなたに吉祥を!」という意味です。学校教育用に制定されたあいさつ語。ミンガラは、仏教用語の「吉祥」です。最後のバーは、日本語の「です・ます」に当たる丁寧さをあらわすことば。
通常、ミャンマーでは親しい人同士なら「元気?」とか「ごはん食べた?」くらいがあいさつ語で、型にはまったあいさつはしないほうが自然なのだそうです。ミンガラバーは、学校教育用に、先生と生徒がかわすあいさつとして作られた用語だということです。
3月24日から30日まで、仕事の下見でミャンマー(ビルマ)のヤンゴン(旧ラングーン)に出張です。
私の(そしてたぶん、おおかたの日本人の)頭に、ビルマと聞いて思い浮かぶのは、まず、「ビルマの竪琴」。竹山道雄の小説、そして市川崑による2度の映画化。映画好きの人なら「戦場にかける橋」、ゴールデントライアングルの麻薬栽培、麻薬王クンサー(地獄の黙示録)、社会主義軍事政権独裁。そしてアウンサン・スーチーさんの軟禁。スーチーさんのノーベル平和賞受賞。数年前からの民主化、自由化。
それ以上に思い浮かぶ人がいたら、よほどのビルマ通ミャンマー通でしょう。
まず、第一に、ミャンマー語ではビルマという国名はバーマと発音され、ビルマというのは、植民地時代に宗主国であった英語話者が作った国名である、ということすら、私は理解していませんでした。ミャンマーとビルマは、ニホンとニッポンくらいの発音の差であることは承知していましたが、ビルマの現地発音がバーマだとは知らなかったのです。
バーマとミャンマーも、どちらも正しいそうです。ただし、ミャンマー族以外の少数民族にとっては、「ミャンマー族の国」のようになるのは不満で、それならむしろ英語訛りの「ビルマ」のほうが、どの部族の名もあらわしていないからマシ、ということにもなる。
MとBの発音が相互に入れ替わることは、日本語でも起こります。冬の寒い朝、ドアから外に出たとき「さぶいっ」というか「さむいっ」というか。どちらの発音も「寒い」ということを表しています。
この夏からミャンマーで仕事をすることになりました。日本の東大に当たる国立大学がヤンゴン大学。軍事政権下で閉鎖されていた国立大学が再開され、高等教育は徐々に進展してきました。しかし、「日本語、日本学」のカリキュラムはまだ大学内に整備されていません。
ヤンゴン市内やその他の都市にも民間の日本語学校が開校されていますが、国立大学内の日本語教育は、まだまだこれからです。
「ヤンゴン大学の日本語教育」を立ち上げるために、お手伝いすることになりました。
3月の平均気温30度。最高気温は36度。シマシマの蚊にさされたらデング熱やらマラリアやらになるかも知れず、市内の病院では高度な手術などは受けられない、という条件のもとで、「行きます」と手をあげる人が少なく、ロートルの私にお話が回ってきました。
若い頃から「虫もつかない」と言われてきた私なので、デング熱の蚊も避けて逃げるんじゃないかという気がしたので、両手をあげて「はい、私行きたい」とお話を受けました。
どこでも寝られる何でも食べられるということだけが私のとりえと思っていたので、ほかに行きたい人がいないような仕事ならと、お引き受けしたのです。働き口があるなら、どこでもありがたい。
ところが、下見出張の出発日は3月24日。姑が元気を取り戻して病院を退院し自宅に戻る日が3月23日。悩みはしましたが、今回ばかりは、「我が家の家計担当者は私であり、私が働かなければ、娘と息子が飢える」ということを姑にもわかってもらう努力をしました。
20年前も今も、私が出稼ぎに出なければ、我が家の経済はにっちもさっちもいかないのだということを話しましたが、そんなことは姑の理解の範囲を超えていました。
姑の思い込みの範囲では、男が一家の生計を担うのは当然のこと。自分の息子が家計担当を放棄していることなどありえないことです。
しかし、我が家はそうではない。夫の収入は夫の会社を維持するためだけに使われ、家計費は私が働くしかなかった。20年前に私が中国に単身赴任したときも、そうする以外に収入の道がなかったからでした。が、姑は、「ヨメが働くのは、女性の自己実現のため」だと思っていました。
なので、それ以来「ヨメが働くのは、自分の自由になるこずかいが必要だからだ」という思い込みを変えることはありませんでした。
姑は自分のこずかいのためにパートをして働いたことがありますが、生活費は銀行員の夫が稼いでくるのが当然のことでした。その自分の経験をヨメにも当てはめ、それ以外に女性が働かなければならないことは「夫と死別か離婚でもしないかぎりありえない」のです。
「女のほうが家計を支えるなんて、そんな結婚生活なら、離婚してるみたいじゃない」と、姑は言います。はい、その通り、家に戻らない夫の妻が、離婚しているのと同じ状態の夫の母親を入院させ、当初は毎日、病状が安定してからは一日おきに病院付き添いに通ったのです。
90歳の姑に理解できないことを、無理矢理理解させることもない思い、とにかく退院に日には仕事があるから付き添えない、ということはわかってもらいました。
3月23日月曜日は、教科書編集の会議最終日です。退院のお世話は息子娘にまかせて、私は姑の退院には付き添えません。
24日火曜日の朝、成田からヤンゴンへむかいます。24日から30日までの1週間で下見をして、8月9月に2ヶ月間の赴任、そのあとは2015年12月から2016年3月までヤンゴンで仕事をすることになります。
<つづく>