20150325
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記3月(5)2003年の絶望書店
2003年の三色七味日記再録をつづけています。
~~~~~~~~~~~
2003/03/19 水 晴れ
アンドロメダM31接続詞>絶望書店
午前中Aダンス。
絶望書店にいきついてしまい、朝からずっとネット読書。小谷野もてない氏と絶望主人の「遊女の平均寿命」論争ではだんぜん絶望氏の勝ち。ここでももてない氏は無惨な姿をさらしてしまっている。
絶望主人の「投げ込み寺過去帳からみた遊女の寿命」「新聞検索による少年犯罪」「ネット古本商売のファウンデーション」どれも感服。書き手の自己満足だけでなく、読み手に与えるものがある。
それに対して、もてない氏は「歴史や文学について、書きたいことがあるなら、論文にして発表しろ。論文として認められないなら、何か言ったことにはならないのだ」と、わめいている。紀要論文だの学会発表だけが、学者にのしあがるためのステップである、という認識以外に考え方を知らない学者業界人。
でも、小谷野って、まわりの人に学者として認めて貰えているんだろうか。肩書きが「東大非常勤講師」しかなくなって、「田中優子とか佐伯順子の悪口言ったために、就職口がだめになった」と嘆きを入れていた。おもしろい。
ネットというものがあるからには、トンデモ学問を含めて、これからは「学問インフレーション」の時代。みんな、自分の学説を紀要だの学会だのという狭い業界内ではいずり回ることなく、どしどし学説発表したらいい。「学会誌にジャッジが必要」と同じコトしたいのなら、世界中の人がジャッジして、学説を評価してやればいい。最初はトンデモだけがはりきるだろうが。トンデモはおもしろいからいいや。
一方、絶望書店の方は、肝が据わっている。「当店唯一新刊書の販売」をしている『文化ファシズム』は「この妄想を買え」という惹句つき。ほめ殺しコピーなのかと思ったら、ほんとうに妄想本なのだ。
久本福子のサイト、妄想に充ち満ちていて、すごすぎ。「創価学会と朝日新聞と西武」にあやつられた柄谷行人と浅田彰は、久本の論文を盗用する、熊野大学の講習料は高すぎでボッタクる、という大悪人。
もう、トンデモの世界観満開。久本の夫が経営していた葦書房はこの陰謀によって乗っ取られ、中上健二、李良枝はじめ、太地喜和子などは皆、陰謀によって不可解な早死にをとげたという。
電波系サイトというのがたくさんあることを知ってはいたが、用もなかったので、読むことはなかった。が、はじめてこのような「主観のなかにのみ生きている人」の書いた物を読めて、おもしろかった。この奇妙な本を、自分のネット古書店のトップで売ることにした店主の気骨は伝わる。
これを誤解して「変な本を売るへんな店主」と思う人もいるのではないかと心配だが。ネット読書をする人は、やたらに思いこみが強く、なんでも自分の思いこみにひきつけて、誤読が生き甲斐みたいな人がたくさんいるらしいとわかってきた。
SFをバックボーンにしているサイコドクターと、文楽をため込んでいる絶望書店。絶望書店の過去日記を全読したので、サイコドクターの過去日記全読をはじめたが、長いのでなかなか終わらない。
日記サイトは山のようにあるが、不特定多数を相手に文章を書く、という行為の「芸の差」は歴然としてある。この芸の差が「安定したおもしろみ」になる。別段、読者をおもしろがらせるために書いているのではなく、書きたいから書いているのだろうから、読みたい人だけ読めばいいのだけど。
精神科医師サイコドクターは、「今から大精神科医として出世するのと、SF小説史に残る大傑作を書く才能をもらうのとどちらがいい?って、神様に聞かれたらどうする」と問われたら「SF」と答えそうな雰囲気がある。というか、文学演劇にシンパシィがある文章と、そうでない文章を比べたら、私の好みは明らかで、絶望書店の過去日記は全部読めたし、サイコドクターの過去日記も、もうすぐ読了する。
本日のそねみ:妄想世界に生きることのできる幸福
2003/03/20 木 曇り
ニッポニアニッポン事情>開戦卒業式
90年湾岸戦争開始の日、私は日本語学校のクラスで、留学生たちが「開戦までカウントダウン」をするのを聞いていた。
今日のイラク攻撃開始、湾岸戦争以上に戦争はテレビの中にあり、私の生活はいつもの通りのぐうたらで、いつものとおりのしまりのない一日。小泉のしょうもない記者会見をテレビでみたくらいで、ミサイルも弾丸も、ただテレビのなかにある。テレビと新聞がなければ、いつもの一日。
でもね。この日記は一応22世紀まで子々孫々がつながって、我が子孫たちが読者となるという前提で書いている。もしかしてこの日が「だれかがボタン押しちゃった。あ~あ、押してみたかったのね」という日の始まりになるのか、と思うと、絶望というわけで、今日も絶望書店の黒薔薇と日記を読んで終わり。
ベランダから世間を眺むれば、本日も日本は平和なり。団地中学校卒業生が胸に造花つけ、手に卒業証書の紙筒もって中央広場で記念写真のとりあいっこ。団地とその周辺のご近所仲間に別れをつげ、これから君たちは偏差値で振り分けられたコーコーに行くのね。
息子の中学校卒業式。校長の告示はさっさと終わってよかったのに、学長代理の祝辞がやたらに長くて空疎。
在校生席では、ミニ軍事評論家やら、ミニ国際関係評論家やらが、各自空爆作戦論評を展開し、おしゃべりタイムができてよかったとか。
「先輩、高校へ行っても、僕たちのこと忘れないでください」とか言って、泣いてみようか、という在校生イベントは、結局だれもやらなかったというが、そりゃまあ全員進学の中高一貫校の中学卒業式で泣けるやつはえらい。
本日のうらみ:イラクの民は爆撃に泣く
2003/03/21 金 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>『メルシィ人生Le placard』
午後、娘と『マドモアゼル』と『メルシィ人生Le placard』を見た。
『メルシィ人生 ル・プラカール』は、フランスらしい「エスプリのきいた人生讃歌」ってとこ。笑えた。
プラカールには、日本語カタカナ語でいうプラカードの意味の他に、フランス語では戸棚の意味もあると、私がもっている「大学1年の仏和辞典」には出ているんだけど、もっと大きな辞書でひいたら、プラカールの持つ隠語の意味とかでているんだろうか。ゲイを意味する隠語とか。
この映画が伝達する重要事項。アイデンティティ形成には「他人の視線」が影響するものであり、他人の視線を受けることで、自己像は変容する。
あらすじ。ピニョンはフランスのコンドーム製造販売会社経理課平社員。ハンサムでもなく出世することもないとりえのない男だが、美人の妻と結婚できたことが唯一の「人生の勝利」だった。しかし、妻は失恋の痛みを忘れるためだけに結婚したので、今は一人息子を連れて、ピニョンとは離婚している。息子はダメ父を完全に無視し、バカにしていて、離婚後も定期的に面会するという約束は息子によって破られ続き。
全社員記念撮影があった日、ピニョンは人員整理のために突然、解雇されるらしいことを知る。ピニョンにとって、息子に養育費を送るだけが人生の支えなので、解雇されたら生きていく意味もない。マンションのベランダから身投げしようとして、隣に越してきた老人に止められる。老人は、20年以上昔ゲイを理由に解雇された思い出をもつ。
老人の入れ知恵で、ピニョンは「ゲイ・カムアウト」する。コンドーム会社にとって「ゲイを差別し解雇した」ということが世間に知れたら、決定的なダメージを受けてしまう。そこで解雇は撤回。
ピニョンはいくら解雇回避のための方便とはいえ、ゲイのふりをするのは苦痛だ。「ほんとうの自分ではない」から。
しかし、会社の意向でゲイパレードに参加するはめに。ピンクのコンドームを頭にかぶり、山車の上から手をふる。周囲の人は、平凡で何のとりえもないと見なしていたピニョンが突然「特別な存在」になったので、さまざまに反応する。
息子は「自分の妻にも愛想を尽かされ、離婚させられたダメ父」と思ってバカにしていた父が、「ほんとうの自分を臆さず世間にさらし、誇りをもって山車から手をふるゲイ」であったと見直す。
ラグビー部の監督をつとめている上司、経理課の女性上司。皆、ピニョンへの視線を変化させる。ピニョンは生まれて初めて「他者から注目を集め尊敬さえされる」という経験をする。
この経験がピニョンを変化させる。うじうじと未練を持ち続けてきた元妻に対して、決然とほんとうの別れを告げる。自分の成功のせいで、経理課から解雇されることになった女性上司をかばって、彼女の解雇撤回を勝ち取る。そのおかげで、彼女はピニョンをみなおし、愛するようになる。というハッピーエンド。
さて、他者の視線の変化に反応して、自信をとりもどし、「なんの取り柄もないダメ父ダメ社員」から変容できたピニョン。
無論、人は他者との関わりの中で、アイデンティティを築き上げるのだから、「みんなの見方が変わったのでピニョンが変化した」と見ることも可能である。が、私はそれ以上にピニョンにとって重要だったのはゲイパレードで受けた大衆からの視線と思う。
たぶん、ピニョンはそれまでの人生で、これほど多くの人に注目された経験、多くの人の視線を受けたことがなかったのではないか。
ゲイとして、頭にコンドームの帽子をかぶって山車に乗ることを、「恥ずかしいこと」と、思っていたピニョン。しかし、息子の評価が変化したことからわかるように、「大勢の視線を集めることができる者」は、現代ではそれだけで「価値もつもの」として、特権的な存在になりうるのだ。注目されうる自分の存在を自覚できるかどうかは、アイデンティティ変容にとって大きい。とくに、一度もその経験をもたなかった者にとって。
また、もうひとつの変容の契機は、駐車場でおそわれて怪我をしたこと。犯人は「ゲイを嫌悪する人たちの誰か」と、見なされる。「自分を正当な理由なく排斥しようとする敵」から、肉体的な攻撃を受けたとき、彼の意識は変化する。
それが、理由なく解雇されることになった女性上司のために、体をはって解雇撤回を申し込むエネルギーを生む意識なのだ。
ピニョンの怪我は、彼の意識の変化にとって、精神的スティグマとなった。スティグマを負うピニョンは、またもや他者から聖別され、「他者とは異なる自分」を確認することができるようになったのである。
そしてさらにもうひとつ。ピニョンは、「ゲイ」のふりをすることが最初はイヤだった。彼自身がゲイに対して「普通じゃない人」と、いう認識を持ち、「差別されてきた側」の人に自分を「落とす」ことがいやだったからだ。
しかし、自殺しようとした彼を助け、解雇撤回の知恵を授けてくれた隣の老人自身がゲイであることがわかり、ゲイパレードに参加したことで、変わってくる。
「かってはフツーとは違う人たち」と思っていたゲイの側に自分を置いてみてはじめて、差別の視線を受けることの意味が体感できてきたのではないか。
山車の上で手をふるピニョンは、初めて人の注目をあびたための「はにかみ」を浮かべているが、卑屈になったり、恥をしのんでいたりはしていない。「差別を受ける側」に身をおいたために獲得した何ものかが、ピニョンを変化させたのではないだろうか。
「なんの取り柄もないもの」の、もうひとつの個体が隣のネコ。隣の老人が飼っている子猫。これという特徴のない、「灰色で、髭があってニャアと鳴く子猫」である。その猫がいなくなり、ピニョンは老人のために探し出してきてやる。もしかしたら、ペットショップで買ったのかな。
ピニョンが老人に猫を渡したとき、いなくなった子猫が戻ってきて、「灰色でニャアと鳴く子猫」は二匹になる。一匹は「老人と個人的な関係を結んだために、老人にとっては特権的な地位をもつようになった特別な猫」である。もう一匹は「なんの特徴もないために、老人の猫と区別がつかない平凡な猫」である。たぶん、老人はこの二匹を差別することなく、今度は「特別な二匹」としてかわいがるだろう。
「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と、脳天気に『一つの花』を歌っている人たちのための、バーチャルシネマ。まったく同じにみえる子猫がどんどん増えていって、部屋中ぎゅうぎゅう詰めになる中で、途方にくれる老人の姿、というシーンを加えたら、私のこの映画への評価はもっと高くなったかもしれない。
「平凡でなんのとりえもなく、特徴もないけれど、私と特別な関係を結んだためにオンリーワン、またはオンリーツー」の価値を持った存在になることができる。さて、まったく同じものが千,一万、百万とあったら、それはオンリー・ミリオンとして認識できるのか。
まあ、老人の孤独を癒すにはせいぜい2匹がいいとこかも。
妹スモモは10匹くらい飼っている。作家笙野頼子は、20匹くらい、ダンサー長嶺ヤス子は30匹くらい飼っているらしい。もっと増えたかな。
トリビアリズム感想。会社の同僚上司に「さえない存在感ゼロの経理係」と思われ、自分でもそれを納得していた映画の冒頭。会社の記念写真をとるときに、ピニョンは画面からはみ出し、自ら気弱そうにカメラワークからはずれる。ラストシーンで、またもや画面からはずれそうになったとき、ピニョンは力ずくでカメラに入る位置を獲得する。このときカメラワークからはずれてしまったのは、ピニョンを「ですぎたまねをする奴」と嫌って駐車場で襲撃してきたゲイ嫌いのふたりである。
さて、この「全社員による記念撮影」のシーンで「えっ?フランスの会社でも、こんな記念撮影するのかな。日本の会社みたい」と思った。そしたら、やっぱりね。このコンドーム会社は日本の相模ゴム工業のフランス子会社の工場を使って撮影したのだと。
「工場視察」に来て、ピニョンと女性上司の「二人で協力して製品検査実施中!」の現場を視察してしまう「アジア人顔の視察団」は、日本人から見ると日本人ぽくなかったから、中国か韓国人の視察団かと思ったが、あれは「フランス人からみた日本人像」だったのだとわかった。
日本の子会社という前提があるから、「全社員記念撮影」というパロディが効いてくるのだろう。あんなふうに全員で並んで、どいつも同じようにしか見えない記念撮影。なんのとりえもなく、他の社員から区別することもできない顔だったピニョンの記念写真。映画のラストでは、私たちはピニョンを区別できる。「特別な顔」として。
現実問題として、日本でゲイをカムアウトしたら、「ゲイだから」という理由は徹底的に隠されたまま、他の理由をつけてなんとか上手にリストラする方策がとられるだろう。
この映画のように、ゲイを差別することが直接企業イメージを下げてしまうコンドーム会社ではなく、フランスの鉄鋼会社とか他の企業だったら、ゲイ差別がイメージダウンになることを利用した解雇撤回闘争が成立するのだろうか。知りたい。
本日のねたみ:私の「マツモトキヨシお買い物予定」のリストに入ってない製品
2003/03/21 金 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>『メルシィ人生Le placard』
午後、ヒメと『マドモアゼル』と『メルシィ人生Le placard』を見た。
『メルシィ人生 ル・プラカール』は、フランスらしい「エスプリのきいた人生讃歌」ってとこ。笑えた。
プラカールには、日本語カタカナ語でいうプラカードの意味の他に、フランス語では戸棚の意味もあると、私がもっている「大学1年の仏和辞典」には出ているんだけど、もっと大きな辞書でひいたら、プラカールの持つ隠語の意味とかでているんだろうか。ゲイを意味する隠語とか。
この映画が伝達する重要事項。アイデンティティ形成には「他人の視線」が影響するものであり、他人の視線を受けることで、自己像は変容する。
あらすじ。ピニョンはフランスのコンドーム製造販売会社経理課平社員。ハンサムでもなく出世することもないとりえのない男だが、美人の妻と結婚できたことが唯一の「人生の勝利」だった。しかし、妻は失恋の痛みを忘れるためだけに結婚したので、今は一人息子を連れて、ピニョンとは離婚している。息子はダメ父を完全に無視し、バカにしていて、離婚後も定期的に面会するという約束は息子によって破られ続き。
全社員記念撮影があった日、ピニョンは人員整理のために突然、解雇されるらしいことを知る。ピニョンにとって、息子に養育費を送るだけが人生の支えなので、解雇されたら生きていく意味もない。マンションのベランダから身投げしようとして、隣に越してきた老人に止められる。老人は、20年以上昔ゲイを理由に解雇された思い出をもつ。
老人の入れ知恵で、ピニョンは「ゲイ・カムアウト」する。コンドーム会社にとって「ゲイを差別し解雇した」ということが世間に知れたら、決定的なダメージを受けてしまう。そこで解雇は撤回。
ピニョンはいくら解雇回避のための方便とはいえ、ゲイのふりをするのは苦痛だ。「ほんとうの自分ではない」から。
しかし、会社の意向でゲイパレードに参加するはめに。ピンクのコンドームを頭にかぶり、山車の上から手をふる。周囲の人は、平凡で何のとりえもないと見なしていたピニョンが突然「特別な存在」になったので、さまざまに反応する。
息子は「自分の妻にも愛想を尽かされ、離婚させられたダメ父」と思ってバカにしていた父が、「ほんとうの自分を臆さず世間にさらし、誇りをもって山車から手をふるゲイ」であったと見直す。
ラグビー部の監督をつとめている上司、経理課の女性上司。皆、ピニョンへの視線を変化させる。ピニョンは生まれて初めて「他者から注目を集め尊敬さえされる」という経験をする。
この経験がピニョンを変化させる。うじうじと未練を持ち続けてきた元妻に対して、決然とほんとうの別れを告げる。自分の成功のせいで、経理課から解雇されることになった女性上司をかばって、彼女の解雇撤回を勝ち取る。そのおかげで、彼女はピニョンをみなおし、愛するようになる。というハッピーエンド。
さて、他者の視線の変化に反応して、自信をとりもどし、「なんの取り柄もないダメ父ダメ社員」から変容できたピニョン。
無論、人は他者との関わりの中で、アイデンティティを築き上げるのだから、「みんなの見方が変わったのでピニョンが変化した」と見ることも可能である。が、私はそれ以上にピニョンにとって重要だったのはゲイパレードで受けた大衆からの視線と思う。
たぶん、ピニョンはそれまでの人生で、これほど多くの人に注目された経験、多くの人の視線を受けたことがなかったのではないか。
ゲイとして、頭にコンドームの帽子をかぶって山車に乗ることを、「恥ずかしいこと」と、思っていたピニョン。しかし、息子の評価が変化したことからわかるように、「大勢の視線を集めることができる者」は、現代ではそれだけで「価値もつもの」として、特権的な存在になりうるのだ。注目されうる自分の存在を自覚できるかどうかは、アイデンティティ変容にとって大きい。とくに、一度もその経験をもたなかった者にとって。
また、もうひとつの変容の契機は、駐車場でおそわれて怪我をしたこと。犯人は「ゲイを嫌悪する人たちの誰か」と、見なされる。「自分を正当な理由なく排斥しようとする敵」から、肉体的な攻撃を受けたとき、彼の意識は変化する。
それが、理由なく解雇されることになった女性上司のために、体をはって解雇撤回を申し込むエネルギーを生む意識なのだ。
ピニョンの怪我は、彼の意識の変化にとって、精神的スティグマとなった。スティグマを負うピニョンは、またもや他者から聖別され、「他者とは異なる自分」を確認することができるようになったのである。
そしてさらにもうひとつ。ピニョンは、「ゲイ」のふりをすることが最初はイヤだった。彼自身がゲイに対して「普通じゃない人」と、いう認識を持ち、「差別されてきた側」の人に自分を「落とす」ことがいやだったからだ。
しかし、自殺しようとした彼を助け、解雇撤回の知恵を授けてくれた隣の老人自身がゲイであることがわかり、ゲイパレードに参加したことで、変わってくる。
「かってはフツーとは違う人たち」と思っていたゲイの側に自分を置いてみてはじめて、差別の視線を受けることの意味が体感できてきたのではないか。
山車の上で手をふるピニョンは、初めて人の注目をあびたための「はにかみ」を浮かべているが、卑屈になったり、恥をしのんでいたりはしていない。「差別を受ける側」に身をおいたために獲得した何ものかが、ピニョンを変化させたのではないだろうか。
「なんの取り柄もないもの」の、もうひとつの個体が隣のネコ。隣の老人が飼っている子猫。これという特徴のない、「灰色で、髭があってニャアと鳴く子猫」である。その猫がいなくなり、ピニョンは老人のために探し出してきてやる。もしかしたら、ペットショップで買ったのかな。
ピニョンが老人に猫を渡したとき、いなくなった子猫が戻ってきて、「灰色でニャアと鳴く子猫」は二匹になる。一匹は「老人と個人的な関係を結んだために、老人にとっては特権的な地位をもつようになった特別な猫」である。もう一匹は「なんの特徴もないために、老人の猫と区別がつかない平凡な猫」である。たぶん、老人はこの二匹を差別することなく、今度は「特別な二匹」としてかわいがるだろう。
「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と、脳天気に『一つの花』を歌っている人たちのための、バーチャルシネマ。まったく同じにみえる子猫がどんどん増えていって、部屋中ぎゅうぎゅう詰めになる中で、途方にくれる老人の姿、というシーンを加えたら、私のこの映画への評価はもっと高くなったかもしれない。
「平凡でなんのとりえもなく、特徴もないけれど、私と特別な関係を結んだためにオンリーワン、またはオンリーツー」の価値を持った存在になることができる。さて、まったく同じものが千,一万、百万とあったら、それはオンリー・ミリオンとして認識できるのか。
まあ、老人の孤独を癒すにはせいぜい2匹がいいとこかも。
妹スモモは10匹くらい飼っている。作家笙野頼子は、20匹くらい、ダンサー長嶺ヤス子は30匹くらい飼っているらしい。もっと増えたかな。
トリビアリズム感想。会社の同僚上司に「さえない存在感ゼロの経理係」と思われ、自分でもそれを納得していた映画の冒頭。会社の記念写真をとるときに、ピニョンは画面からはみ出し、自ら気弱そうにカメラワークからはずれる。ラストシーンで、またもや画面からはずれそうになったとき、ピニョンは力ずくでカメラに入る位置を獲得する。このときカメラワークからはずれてしまったのは、ピニョンを「ですぎたまねをする奴」と嫌って駐車場で襲撃してきたゲイ嫌いのふたりである。
さて、この「全社員による記念撮影」のシーンで「えっ?フランスの会社でも、こんな記念撮影するのかな。日本の会社みたい」と思った。そしたら、やっぱりね。このコンドーム会社は日本の相模ゴム工業のフランス子会社の工場を使って撮影したのだと。
「工場視察」に来て、ピニョンと女性上司の「二人で協力して製品検査実施中!」の現場を視察してしまう「アジア人顔の視察団」は、日本人から見ると日本人ぽくなかったから、中国か韓国人の視察団かと思ったが、あれは「フランス人からみた日本人像」だったのだとわかった。
日本の子会社という前提があるから、「全社員記念撮影」というパロディが効いてくるのだろう。あんなふうに全員で並んで、どいつも同じようにしか見えない記念撮影。なんのとりえもなく、他の社員から区別することもできない顔だったピニョンの記念写真。映画のラストでは、私たちはピニョンを区別できる。「特別な顔」として。
現実問題として、日本でゲイをカムアウトしたら、「ゲイだから」という理由は徹底的に隠されたまま、他の理由をつけてなんとか上手にリストラする方策がとられるだろう。
この映画のように、ゲイを差別することが直接企業イメージを下げてしまうコンドーム会社ではなく、フランスの鉄鋼会社とか他の企業だったら、ゲイ差別がイメージダウンになることを利用した解雇撤回闘争が成立するのだろうか。知りたい。
本日のねたみ:私の「マツモトキヨシお買い物予定」のリストに入ってない製品
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20150322
それにしても、今よりずっと毎月なんかしら映画を見ていたなあと思います。ままならぬ現実から、映画館の暗がりに一種逃避をしていたのだろうと思います。
映画が続く2時間の間は、「嘆きの母」を忘れていられる。
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記3月(5)2003年の絶望書店
2003年の三色七味日記再録をつづけています。
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2003/03/19 水 晴れ
アンドロメダM31接続詞>絶望書店
午前中Aダンス。
絶望書店にいきついてしまい、朝からずっとネット読書。小谷野もてない氏と絶望主人の「遊女の平均寿命」論争ではだんぜん絶望氏の勝ち。ここでももてない氏は無惨な姿をさらしてしまっている。
絶望主人の「投げ込み寺過去帳からみた遊女の寿命」「新聞検索による少年犯罪」「ネット古本商売のファウンデーション」どれも感服。書き手の自己満足だけでなく、読み手に与えるものがある。
それに対して、もてない氏は「歴史や文学について、書きたいことがあるなら、論文にして発表しろ。論文として認められないなら、何か言ったことにはならないのだ」と、わめいている。紀要論文だの学会発表だけが、学者にのしあがるためのステップである、という認識以外に考え方を知らない学者業界人。
でも、小谷野って、まわりの人に学者として認めて貰えているんだろうか。肩書きが「東大非常勤講師」しかなくなって、「田中優子とか佐伯順子の悪口言ったために、就職口がだめになった」と嘆きを入れていた。おもしろい。
ネットというものがあるからには、トンデモ学問を含めて、これからは「学問インフレーション」の時代。みんな、自分の学説を紀要だの学会だのという狭い業界内ではいずり回ることなく、どしどし学説発表したらいい。「学会誌にジャッジが必要」と同じコトしたいのなら、世界中の人がジャッジして、学説を評価してやればいい。最初はトンデモだけがはりきるだろうが。トンデモはおもしろいからいいや。
一方、絶望書店の方は、肝が据わっている。「当店唯一新刊書の販売」をしている『文化ファシズム』は「この妄想を買え」という惹句つき。ほめ殺しコピーなのかと思ったら、ほんとうに妄想本なのだ。
久本福子のサイト、妄想に充ち満ちていて、すごすぎ。「創価学会と朝日新聞と西武」にあやつられた柄谷行人と浅田彰は、久本の論文を盗用する、熊野大学の講習料は高すぎでボッタクる、という大悪人。
もう、トンデモの世界観満開。久本の夫が経営していた葦書房はこの陰謀によって乗っ取られ、中上健二、李良枝はじめ、太地喜和子などは皆、陰謀によって不可解な早死にをとげたという。
電波系サイトというのがたくさんあることを知ってはいたが、用もなかったので、読むことはなかった。が、はじめてこのような「主観のなかにのみ生きている人」の書いた物を読めて、おもしろかった。この奇妙な本を、自分のネット古書店のトップで売ることにした店主の気骨は伝わる。
これを誤解して「変な本を売るへんな店主」と思う人もいるのではないかと心配だが。ネット読書をする人は、やたらに思いこみが強く、なんでも自分の思いこみにひきつけて、誤読が生き甲斐みたいな人がたくさんいるらしいとわかってきた。
SFをバックボーンにしているサイコドクターと、文楽をため込んでいる絶望書店。絶望書店の過去日記を全読したので、サイコドクターの過去日記全読をはじめたが、長いのでなかなか終わらない。
日記サイトは山のようにあるが、不特定多数を相手に文章を書く、という行為の「芸の差」は歴然としてある。この芸の差が「安定したおもしろみ」になる。別段、読者をおもしろがらせるために書いているのではなく、書きたいから書いているのだろうから、読みたい人だけ読めばいいのだけど。
精神科医師サイコドクターは、「今から大精神科医として出世するのと、SF小説史に残る大傑作を書く才能をもらうのとどちらがいい?って、神様に聞かれたらどうする」と問われたら「SF」と答えそうな雰囲気がある。というか、文学演劇にシンパシィがある文章と、そうでない文章を比べたら、私の好みは明らかで、絶望書店の過去日記は全部読めたし、サイコドクターの過去日記も、もうすぐ読了する。
本日のそねみ:妄想世界に生きることのできる幸福
2003/03/20 木 曇り
ニッポニアニッポン事情>開戦卒業式
90年湾岸戦争開始の日、私は日本語学校のクラスで、留学生たちが「開戦までカウントダウン」をするのを聞いていた。
今日のイラク攻撃開始、湾岸戦争以上に戦争はテレビの中にあり、私の生活はいつもの通りのぐうたらで、いつものとおりのしまりのない一日。小泉のしょうもない記者会見をテレビでみたくらいで、ミサイルも弾丸も、ただテレビのなかにある。テレビと新聞がなければ、いつもの一日。
でもね。この日記は一応22世紀まで子々孫々がつながって、我が子孫たちが読者となるという前提で書いている。もしかしてこの日が「だれかがボタン押しちゃった。あ~あ、押してみたかったのね」という日の始まりになるのか、と思うと、絶望というわけで、今日も絶望書店の黒薔薇と日記を読んで終わり。
ベランダから世間を眺むれば、本日も日本は平和なり。団地中学校卒業生が胸に造花つけ、手に卒業証書の紙筒もって中央広場で記念写真のとりあいっこ。団地とその周辺のご近所仲間に別れをつげ、これから君たちは偏差値で振り分けられたコーコーに行くのね。
息子の中学校卒業式。校長の告示はさっさと終わってよかったのに、学長代理の祝辞がやたらに長くて空疎。
在校生席では、ミニ軍事評論家やら、ミニ国際関係評論家やらが、各自空爆作戦論評を展開し、おしゃべりタイムができてよかったとか。
「先輩、高校へ行っても、僕たちのこと忘れないでください」とか言って、泣いてみようか、という在校生イベントは、結局だれもやらなかったというが、そりゃまあ全員進学の中高一貫校の中学卒業式で泣けるやつはえらい。
本日のうらみ:イラクの民は爆撃に泣く
2003/03/21 金 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>『メルシィ人生Le placard』
午後、娘と『マドモアゼル』と『メルシィ人生Le placard』を見た。
『メルシィ人生 ル・プラカール』は、フランスらしい「エスプリのきいた人生讃歌」ってとこ。笑えた。
プラカールには、日本語カタカナ語でいうプラカードの意味の他に、フランス語では戸棚の意味もあると、私がもっている「大学1年の仏和辞典」には出ているんだけど、もっと大きな辞書でひいたら、プラカールの持つ隠語の意味とかでているんだろうか。ゲイを意味する隠語とか。
この映画が伝達する重要事項。アイデンティティ形成には「他人の視線」が影響するものであり、他人の視線を受けることで、自己像は変容する。
あらすじ。ピニョンはフランスのコンドーム製造販売会社経理課平社員。ハンサムでもなく出世することもないとりえのない男だが、美人の妻と結婚できたことが唯一の「人生の勝利」だった。しかし、妻は失恋の痛みを忘れるためだけに結婚したので、今は一人息子を連れて、ピニョンとは離婚している。息子はダメ父を完全に無視し、バカにしていて、離婚後も定期的に面会するという約束は息子によって破られ続き。
全社員記念撮影があった日、ピニョンは人員整理のために突然、解雇されるらしいことを知る。ピニョンにとって、息子に養育費を送るだけが人生の支えなので、解雇されたら生きていく意味もない。マンションのベランダから身投げしようとして、隣に越してきた老人に止められる。老人は、20年以上昔ゲイを理由に解雇された思い出をもつ。
老人の入れ知恵で、ピニョンは「ゲイ・カムアウト」する。コンドーム会社にとって「ゲイを差別し解雇した」ということが世間に知れたら、決定的なダメージを受けてしまう。そこで解雇は撤回。
ピニョンはいくら解雇回避のための方便とはいえ、ゲイのふりをするのは苦痛だ。「ほんとうの自分ではない」から。
しかし、会社の意向でゲイパレードに参加するはめに。ピンクのコンドームを頭にかぶり、山車の上から手をふる。周囲の人は、平凡で何のとりえもないと見なしていたピニョンが突然「特別な存在」になったので、さまざまに反応する。
息子は「自分の妻にも愛想を尽かされ、離婚させられたダメ父」と思ってバカにしていた父が、「ほんとうの自分を臆さず世間にさらし、誇りをもって山車から手をふるゲイ」であったと見直す。
ラグビー部の監督をつとめている上司、経理課の女性上司。皆、ピニョンへの視線を変化させる。ピニョンは生まれて初めて「他者から注目を集め尊敬さえされる」という経験をする。
この経験がピニョンを変化させる。うじうじと未練を持ち続けてきた元妻に対して、決然とほんとうの別れを告げる。自分の成功のせいで、経理課から解雇されることになった女性上司をかばって、彼女の解雇撤回を勝ち取る。そのおかげで、彼女はピニョンをみなおし、愛するようになる。というハッピーエンド。
さて、他者の視線の変化に反応して、自信をとりもどし、「なんの取り柄もないダメ父ダメ社員」から変容できたピニョン。
無論、人は他者との関わりの中で、アイデンティティを築き上げるのだから、「みんなの見方が変わったのでピニョンが変化した」と見ることも可能である。が、私はそれ以上にピニョンにとって重要だったのはゲイパレードで受けた大衆からの視線と思う。
たぶん、ピニョンはそれまでの人生で、これほど多くの人に注目された経験、多くの人の視線を受けたことがなかったのではないか。
ゲイとして、頭にコンドームの帽子をかぶって山車に乗ることを、「恥ずかしいこと」と、思っていたピニョン。しかし、息子の評価が変化したことからわかるように、「大勢の視線を集めることができる者」は、現代ではそれだけで「価値もつもの」として、特権的な存在になりうるのだ。注目されうる自分の存在を自覚できるかどうかは、アイデンティティ変容にとって大きい。とくに、一度もその経験をもたなかった者にとって。
また、もうひとつの変容の契機は、駐車場でおそわれて怪我をしたこと。犯人は「ゲイを嫌悪する人たちの誰か」と、見なされる。「自分を正当な理由なく排斥しようとする敵」から、肉体的な攻撃を受けたとき、彼の意識は変化する。
それが、理由なく解雇されることになった女性上司のために、体をはって解雇撤回を申し込むエネルギーを生む意識なのだ。
ピニョンの怪我は、彼の意識の変化にとって、精神的スティグマとなった。スティグマを負うピニョンは、またもや他者から聖別され、「他者とは異なる自分」を確認することができるようになったのである。
そしてさらにもうひとつ。ピニョンは、「ゲイ」のふりをすることが最初はイヤだった。彼自身がゲイに対して「普通じゃない人」と、いう認識を持ち、「差別されてきた側」の人に自分を「落とす」ことがいやだったからだ。
しかし、自殺しようとした彼を助け、解雇撤回の知恵を授けてくれた隣の老人自身がゲイであることがわかり、ゲイパレードに参加したことで、変わってくる。
「かってはフツーとは違う人たち」と思っていたゲイの側に自分を置いてみてはじめて、差別の視線を受けることの意味が体感できてきたのではないか。
山車の上で手をふるピニョンは、初めて人の注目をあびたための「はにかみ」を浮かべているが、卑屈になったり、恥をしのんでいたりはしていない。「差別を受ける側」に身をおいたために獲得した何ものかが、ピニョンを変化させたのではないだろうか。
「なんの取り柄もないもの」の、もうひとつの個体が隣のネコ。隣の老人が飼っている子猫。これという特徴のない、「灰色で、髭があってニャアと鳴く子猫」である。その猫がいなくなり、ピニョンは老人のために探し出してきてやる。もしかしたら、ペットショップで買ったのかな。
ピニョンが老人に猫を渡したとき、いなくなった子猫が戻ってきて、「灰色でニャアと鳴く子猫」は二匹になる。一匹は「老人と個人的な関係を結んだために、老人にとっては特権的な地位をもつようになった特別な猫」である。もう一匹は「なんの特徴もないために、老人の猫と区別がつかない平凡な猫」である。たぶん、老人はこの二匹を差別することなく、今度は「特別な二匹」としてかわいがるだろう。
「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と、脳天気に『一つの花』を歌っている人たちのための、バーチャルシネマ。まったく同じにみえる子猫がどんどん増えていって、部屋中ぎゅうぎゅう詰めになる中で、途方にくれる老人の姿、というシーンを加えたら、私のこの映画への評価はもっと高くなったかもしれない。
「平凡でなんのとりえもなく、特徴もないけれど、私と特別な関係を結んだためにオンリーワン、またはオンリーツー」の価値を持った存在になることができる。さて、まったく同じものが千,一万、百万とあったら、それはオンリー・ミリオンとして認識できるのか。
まあ、老人の孤独を癒すにはせいぜい2匹がいいとこかも。
妹スモモは10匹くらい飼っている。作家笙野頼子は、20匹くらい、ダンサー長嶺ヤス子は30匹くらい飼っているらしい。もっと増えたかな。
トリビアリズム感想。会社の同僚上司に「さえない存在感ゼロの経理係」と思われ、自分でもそれを納得していた映画の冒頭。会社の記念写真をとるときに、ピニョンは画面からはみ出し、自ら気弱そうにカメラワークからはずれる。ラストシーンで、またもや画面からはずれそうになったとき、ピニョンは力ずくでカメラに入る位置を獲得する。このときカメラワークからはずれてしまったのは、ピニョンを「ですぎたまねをする奴」と嫌って駐車場で襲撃してきたゲイ嫌いのふたりである。
さて、この「全社員による記念撮影」のシーンで「えっ?フランスの会社でも、こんな記念撮影するのかな。日本の会社みたい」と思った。そしたら、やっぱりね。このコンドーム会社は日本の相模ゴム工業のフランス子会社の工場を使って撮影したのだと。
「工場視察」に来て、ピニョンと女性上司の「二人で協力して製品検査実施中!」の現場を視察してしまう「アジア人顔の視察団」は、日本人から見ると日本人ぽくなかったから、中国か韓国人の視察団かと思ったが、あれは「フランス人からみた日本人像」だったのだとわかった。
日本の子会社という前提があるから、「全社員記念撮影」というパロディが効いてくるのだろう。あんなふうに全員で並んで、どいつも同じようにしか見えない記念撮影。なんのとりえもなく、他の社員から区別することもできない顔だったピニョンの記念写真。映画のラストでは、私たちはピニョンを区別できる。「特別な顔」として。
現実問題として、日本でゲイをカムアウトしたら、「ゲイだから」という理由は徹底的に隠されたまま、他の理由をつけてなんとか上手にリストラする方策がとられるだろう。
この映画のように、ゲイを差別することが直接企業イメージを下げてしまうコンドーム会社ではなく、フランスの鉄鋼会社とか他の企業だったら、ゲイ差別がイメージダウンになることを利用した解雇撤回闘争が成立するのだろうか。知りたい。
本日のねたみ:私の「マツモトキヨシお買い物予定」のリストに入ってない製品
2003/03/21 金 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>『メルシィ人生Le placard』
午後、ヒメと『マドモアゼル』と『メルシィ人生Le placard』を見た。
『メルシィ人生 ル・プラカール』は、フランスらしい「エスプリのきいた人生讃歌」ってとこ。笑えた。
プラカールには、日本語カタカナ語でいうプラカードの意味の他に、フランス語では戸棚の意味もあると、私がもっている「大学1年の仏和辞典」には出ているんだけど、もっと大きな辞書でひいたら、プラカールの持つ隠語の意味とかでているんだろうか。ゲイを意味する隠語とか。
この映画が伝達する重要事項。アイデンティティ形成には「他人の視線」が影響するものであり、他人の視線を受けることで、自己像は変容する。
あらすじ。ピニョンはフランスのコンドーム製造販売会社経理課平社員。ハンサムでもなく出世することもないとりえのない男だが、美人の妻と結婚できたことが唯一の「人生の勝利」だった。しかし、妻は失恋の痛みを忘れるためだけに結婚したので、今は一人息子を連れて、ピニョンとは離婚している。息子はダメ父を完全に無視し、バカにしていて、離婚後も定期的に面会するという約束は息子によって破られ続き。
全社員記念撮影があった日、ピニョンは人員整理のために突然、解雇されるらしいことを知る。ピニョンにとって、息子に養育費を送るだけが人生の支えなので、解雇されたら生きていく意味もない。マンションのベランダから身投げしようとして、隣に越してきた老人に止められる。老人は、20年以上昔ゲイを理由に解雇された思い出をもつ。
老人の入れ知恵で、ピニョンは「ゲイ・カムアウト」する。コンドーム会社にとって「ゲイを差別し解雇した」ということが世間に知れたら、決定的なダメージを受けてしまう。そこで解雇は撤回。
ピニョンはいくら解雇回避のための方便とはいえ、ゲイのふりをするのは苦痛だ。「ほんとうの自分ではない」から。
しかし、会社の意向でゲイパレードに参加するはめに。ピンクのコンドームを頭にかぶり、山車の上から手をふる。周囲の人は、平凡で何のとりえもないと見なしていたピニョンが突然「特別な存在」になったので、さまざまに反応する。
息子は「自分の妻にも愛想を尽かされ、離婚させられたダメ父」と思ってバカにしていた父が、「ほんとうの自分を臆さず世間にさらし、誇りをもって山車から手をふるゲイ」であったと見直す。
ラグビー部の監督をつとめている上司、経理課の女性上司。皆、ピニョンへの視線を変化させる。ピニョンは生まれて初めて「他者から注目を集め尊敬さえされる」という経験をする。
この経験がピニョンを変化させる。うじうじと未練を持ち続けてきた元妻に対して、決然とほんとうの別れを告げる。自分の成功のせいで、経理課から解雇されることになった女性上司をかばって、彼女の解雇撤回を勝ち取る。そのおかげで、彼女はピニョンをみなおし、愛するようになる。というハッピーエンド。
さて、他者の視線の変化に反応して、自信をとりもどし、「なんの取り柄もないダメ父ダメ社員」から変容できたピニョン。
無論、人は他者との関わりの中で、アイデンティティを築き上げるのだから、「みんなの見方が変わったのでピニョンが変化した」と見ることも可能である。が、私はそれ以上にピニョンにとって重要だったのはゲイパレードで受けた大衆からの視線と思う。
たぶん、ピニョンはそれまでの人生で、これほど多くの人に注目された経験、多くの人の視線を受けたことがなかったのではないか。
ゲイとして、頭にコンドームの帽子をかぶって山車に乗ることを、「恥ずかしいこと」と、思っていたピニョン。しかし、息子の評価が変化したことからわかるように、「大勢の視線を集めることができる者」は、現代ではそれだけで「価値もつもの」として、特権的な存在になりうるのだ。注目されうる自分の存在を自覚できるかどうかは、アイデンティティ変容にとって大きい。とくに、一度もその経験をもたなかった者にとって。
また、もうひとつの変容の契機は、駐車場でおそわれて怪我をしたこと。犯人は「ゲイを嫌悪する人たちの誰か」と、見なされる。「自分を正当な理由なく排斥しようとする敵」から、肉体的な攻撃を受けたとき、彼の意識は変化する。
それが、理由なく解雇されることになった女性上司のために、体をはって解雇撤回を申し込むエネルギーを生む意識なのだ。
ピニョンの怪我は、彼の意識の変化にとって、精神的スティグマとなった。スティグマを負うピニョンは、またもや他者から聖別され、「他者とは異なる自分」を確認することができるようになったのである。
そしてさらにもうひとつ。ピニョンは、「ゲイ」のふりをすることが最初はイヤだった。彼自身がゲイに対して「普通じゃない人」と、いう認識を持ち、「差別されてきた側」の人に自分を「落とす」ことがいやだったからだ。
しかし、自殺しようとした彼を助け、解雇撤回の知恵を授けてくれた隣の老人自身がゲイであることがわかり、ゲイパレードに参加したことで、変わってくる。
「かってはフツーとは違う人たち」と思っていたゲイの側に自分を置いてみてはじめて、差別の視線を受けることの意味が体感できてきたのではないか。
山車の上で手をふるピニョンは、初めて人の注目をあびたための「はにかみ」を浮かべているが、卑屈になったり、恥をしのんでいたりはしていない。「差別を受ける側」に身をおいたために獲得した何ものかが、ピニョンを変化させたのではないだろうか。
「なんの取り柄もないもの」の、もうひとつの個体が隣のネコ。隣の老人が飼っている子猫。これという特徴のない、「灰色で、髭があってニャアと鳴く子猫」である。その猫がいなくなり、ピニョンは老人のために探し出してきてやる。もしかしたら、ペットショップで買ったのかな。
ピニョンが老人に猫を渡したとき、いなくなった子猫が戻ってきて、「灰色でニャアと鳴く子猫」は二匹になる。一匹は「老人と個人的な関係を結んだために、老人にとっては特権的な地位をもつようになった特別な猫」である。もう一匹は「なんの特徴もないために、老人の猫と区別がつかない平凡な猫」である。たぶん、老人はこの二匹を差別することなく、今度は「特別な二匹」としてかわいがるだろう。
「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と、脳天気に『一つの花』を歌っている人たちのための、バーチャルシネマ。まったく同じにみえる子猫がどんどん増えていって、部屋中ぎゅうぎゅう詰めになる中で、途方にくれる老人の姿、というシーンを加えたら、私のこの映画への評価はもっと高くなったかもしれない。
「平凡でなんのとりえもなく、特徴もないけれど、私と特別な関係を結んだためにオンリーワン、またはオンリーツー」の価値を持った存在になることができる。さて、まったく同じものが千,一万、百万とあったら、それはオンリー・ミリオンとして認識できるのか。
まあ、老人の孤独を癒すにはせいぜい2匹がいいとこかも。
妹スモモは10匹くらい飼っている。作家笙野頼子は、20匹くらい、ダンサー長嶺ヤス子は30匹くらい飼っているらしい。もっと増えたかな。
トリビアリズム感想。会社の同僚上司に「さえない存在感ゼロの経理係」と思われ、自分でもそれを納得していた映画の冒頭。会社の記念写真をとるときに、ピニョンは画面からはみ出し、自ら気弱そうにカメラワークからはずれる。ラストシーンで、またもや画面からはずれそうになったとき、ピニョンは力ずくでカメラに入る位置を獲得する。このときカメラワークからはずれてしまったのは、ピニョンを「ですぎたまねをする奴」と嫌って駐車場で襲撃してきたゲイ嫌いのふたりである。
さて、この「全社員による記念撮影」のシーンで「えっ?フランスの会社でも、こんな記念撮影するのかな。日本の会社みたい」と思った。そしたら、やっぱりね。このコンドーム会社は日本の相模ゴム工業のフランス子会社の工場を使って撮影したのだと。
「工場視察」に来て、ピニョンと女性上司の「二人で協力して製品検査実施中!」の現場を視察してしまう「アジア人顔の視察団」は、日本人から見ると日本人ぽくなかったから、中国か韓国人の視察団かと思ったが、あれは「フランス人からみた日本人像」だったのだとわかった。
日本の子会社という前提があるから、「全社員記念撮影」というパロディが効いてくるのだろう。あんなふうに全員で並んで、どいつも同じようにしか見えない記念撮影。なんのとりえもなく、他の社員から区別することもできない顔だったピニョンの記念写真。映画のラストでは、私たちはピニョンを区別できる。「特別な顔」として。
現実問題として、日本でゲイをカムアウトしたら、「ゲイだから」という理由は徹底的に隠されたまま、他の理由をつけてなんとか上手にリストラする方策がとられるだろう。
この映画のように、ゲイを差別することが直接企業イメージを下げてしまうコンドーム会社ではなく、フランスの鉄鋼会社とか他の企業だったら、ゲイ差別がイメージダウンになることを利用した解雇撤回闘争が成立するのだろうか。知りたい。
本日のねたみ:私の「マツモトキヨシお買い物予定」のリストに入ってない製品
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20150322
それにしても、今よりずっと毎月なんかしら映画を見ていたなあと思います。ままならぬ現実から、映画館の暗がりに一種逃避をしていたのだろうと思います。
映画が続く2時間の間は、「嘆きの母」を忘れていられる。
<つづく>