20150906
ミンガラ春庭ニッポニアニッポン教師日誌>2015ヤンゴン教師日誌9月(1)サバイバル・ヤンゴン
当地の赴任者を探しているという話を聞いたとき「行きたい」と言ったのは、新しい国で新しい経験ができたら楽しいだろうと思ったからです。
幼稚園児のころから、「テラ・インコグニタ」見知らぬ土地へ行ってみたい、というのが、食欲よりも着飾りたい欲望よりも、私にとっては一番大事な要求だったのです。
好奇心のおもむくままに、見知らぬ土地へ行き、暮らしてみる、それによって私は生きてきたのです。
35年前のケニアでも、1994,2007,2009年の中国でも、私は楽しく暮らせたし、サバイバルは得意だと思い込んでいたのですが、老齢になってからのサバイバルは、かなり過酷でした。お腹は壊す、足は湿疹で真っ赤になる、仕事ははかどらない。泣きの一カ月がすぎました。
ミャンマー語を「ミンガラバー(こんにちは)」のひとことが言えるようになっただけで赴任してしまった日本語教師。実に不自由です。
東京では、国費留学生クラスで、英語を媒介語として使える便利さで、直接法(日本語を日本語だけで教えていく方法)と、英語を媒介語として使う間接法(日本人の先生が日本語を使って英語を教えている日本の中学高校の英語教育は、ほとんどがこの間接法です)のいいとこどりをする折衷法というやりかたで日本語を教えてきました。
単語説明は英語でほとんどが済んでしまうし、文法説明も直接法で導入した後、英語で補えるので、かなり楽をしていたのでした。
しかし、ミャンマー語をひとこともわからないまま着任した春庭は、楽ができなくなって、苦労することに。
中学生のとき、日本語がまったくできない英語母語話者の先生に、会話授業ではなく、文型授業を受けることになったら、どのように英語を理解したらよいか、とまどう中学生も多いのではないかと思います。
しかも、前任者は多人数の教室で効率的に授業を進める方法として、教科書にのっていることをパワーポイントスライドに写して授業を進めてきました。
10人~20人のクラスが前提であった国費留学生クラスでは、教科書や絵カード、文字カードなどのアナログ教材で十分間に合ったのですが、大人数のクラスでは、A6版の絵カードなど小さすぎて、うしろの席にはみえません。そのため、前任の若い先生は、教科書をすべてPDF化して、それをパワーポイントに取り込んで教材とし、プロジェクターでスクリーンに映写していました。
学期途中での教師交代であったので、できるだけ前任者の授業方法を受け継ぐ方が、学生にはとまどいが少ないだろうと判断し、私もパワーポイントスライドで教材を作ることになりました。
機械に弱い春庭、まず、PDF化ということにまごまごしてしまいました。若い前任者が「ここを押して、次は、ここ押してファイル名を変えて、、、、」と、すらすら説明してくれることが、さっぱりとこの老頭に入らず、「すみません、もう一度」と、おそるおそる言ううちにも、前任者は友人がいるというバンコクに旅行にでかけてしまいました。1週間後に彼女が事務所に顔を出すまで、実にストレスいっぱいの日々になりました。おなかこわしているし、授業ファイルはうまく作れないし、泣いていました。
彼女が事務室に顔をだしたので、機器の使用方法を文書化して残してほしいと頼みました。快くやってくれたので、ほっと一息。旅行に出かける前は、旅行社へ行ったり忙しそうにしている彼女に、「文書化しておいて」と、切り出せなかった気の弱い私でしたが、学期途中での仕事の引き継ぎ、きちん引き継ぎをしてから旅行に行くべきなのだ、と、彼女がいない間に気づいた、トロい老女です。でもね、旅行に出かける準備でうきうきしている若い女性に、「仕事優先」なんてこと言ったりしたら、「いじわるバーサン」と、思われはしないかなんて、気になりました。なんせ狭い業界なので、「あの人とはいっしょでは仕事しづらかった」という評判は、あっという間に業界をかけめぐるのです。
文書化してもらったおかげで、PDF化というのもできるようになりました。
彼女は、自分が作ったパワーポイントファイルは、すべて大学PCからもUSBファイルからも消し去って私用のUSBに移してしまっていたので、彼女の作ったファイルは使用できませんでした。
私は、自分で作った試験問題や練習問題など、すべて大学の共通ファイルに残してきました。引き継いだ先生がそれを利用するかどうかはともかく、教材は資料として残すのが教師の仕事の一部だと思っていました。彼女が「自分が作った教材は自分のもの」という考え方の持ち主であったことに、若いから私物観がちがうのだ、と、思いました。
各課の教材ファイルを最初からすべて作りなおすことになり、最初の一週間で3課~8課の教材を一度に作ったので、たいへんでした。
9月中に進むであろう授業範囲の教材ファイルを作り上げて、ほっとしたら、学科長から「日本へ行って研究留学する先生方のために、サバイバルジャパニーズのクラスを作ってほしい」という要請がきました。
派遣元大学の当プロジェクト立ち上げメンバーの先生が、共同研究のためにヤンゴン滞在中で、学科長と親しい。「先生がやりたくないとおっしゃれば、断ることもできるのですが」と、言われたとき、「断ります」という選択肢は、下っ端派遣教員の私には、ありません。はい、引き受けました。
文字教育はいらないので、とりあえず日本で生活できるだけの最低限の日本語が口にできるように5~6回ほどの授業で完成させよという課題。ムリです。簡単な日本語だけでいいのだから、教えるのも簡単だろうと考えての「新しいクラスを作れ」なのでしょうが、簡単なことばを教えるのは、簡単ではない。
実は、サバイバル言語というのは、教えるには非常にテクニックが必要です。
90分の授業のために、数時間の準備が必要。またまたパワーポイント教材の作り直し。ひらがなも覚える時間がないというので、すべてローマ字書きのファイルを作ることになります。
8月4日に当地に来て以来、大学と宿舎の往復だけで、大学でも宿舎でもひたすらパワーポイントスライド教材を作り続けて、大学近くのスーパーで買い物をしたのと、宿舎近くの市場で買い物をしたほかは、寝る時間以外はすべて仕事に費やしました。
時給換算にすると、ミャンマー人の現地給与よりも安い給与になります。
「お金は問題じゃないんだ、この国の日本語教育に寄与できれば満足」なんて言いながら、たっぷりの年金をもらいつつ、赴任してくる退職教員が、アジア各地にけっこうな数、います。中国で出会ったそんな日本語教師のひとりは、年金は日本に残る奥さんに渡し、自分は現地給与だけで生活している、と、言っていました。うらやまし。
私の場合、現地給与ではなく、派遣元大学からの支給ですが、当地赴任のために、日本の私立大学の後期授業をやらない、ということにしたので、10月11月には、無給となります。日本の留守宅の公団家賃も光熱費も必要、日本で教師をしているより、ずっと貧乏になっている我が家の経済状況なのです。
そんな思いまでして、テラ・インコグニタは、満足できたかか、、、、8月は泣いていましたが、9月はどうか、春庭の好奇心に幸いあれ。
9月担当の仏様、おとめ座を仕切っているどっかの神様、おとめ座生まれの老女をどうかよろしくお願いします。
<つづく>
ミンガラ春庭ニッポニアニッポン教師日誌>2015ヤンゴン教師日誌9月(1)サバイバル・ヤンゴン
当地の赴任者を探しているという話を聞いたとき「行きたい」と言ったのは、新しい国で新しい経験ができたら楽しいだろうと思ったからです。
幼稚園児のころから、「テラ・インコグニタ」見知らぬ土地へ行ってみたい、というのが、食欲よりも着飾りたい欲望よりも、私にとっては一番大事な要求だったのです。
好奇心のおもむくままに、見知らぬ土地へ行き、暮らしてみる、それによって私は生きてきたのです。
35年前のケニアでも、1994,2007,2009年の中国でも、私は楽しく暮らせたし、サバイバルは得意だと思い込んでいたのですが、老齢になってからのサバイバルは、かなり過酷でした。お腹は壊す、足は湿疹で真っ赤になる、仕事ははかどらない。泣きの一カ月がすぎました。
ミャンマー語を「ミンガラバー(こんにちは)」のひとことが言えるようになっただけで赴任してしまった日本語教師。実に不自由です。
東京では、国費留学生クラスで、英語を媒介語として使える便利さで、直接法(日本語を日本語だけで教えていく方法)と、英語を媒介語として使う間接法(日本人の先生が日本語を使って英語を教えている日本の中学高校の英語教育は、ほとんどがこの間接法です)のいいとこどりをする折衷法というやりかたで日本語を教えてきました。
単語説明は英語でほとんどが済んでしまうし、文法説明も直接法で導入した後、英語で補えるので、かなり楽をしていたのでした。
しかし、ミャンマー語をひとこともわからないまま着任した春庭は、楽ができなくなって、苦労することに。
中学生のとき、日本語がまったくできない英語母語話者の先生に、会話授業ではなく、文型授業を受けることになったら、どのように英語を理解したらよいか、とまどう中学生も多いのではないかと思います。
しかも、前任者は多人数の教室で効率的に授業を進める方法として、教科書にのっていることをパワーポイントスライドに写して授業を進めてきました。
10人~20人のクラスが前提であった国費留学生クラスでは、教科書や絵カード、文字カードなどのアナログ教材で十分間に合ったのですが、大人数のクラスでは、A6版の絵カードなど小さすぎて、うしろの席にはみえません。そのため、前任の若い先生は、教科書をすべてPDF化して、それをパワーポイントに取り込んで教材とし、プロジェクターでスクリーンに映写していました。
学期途中での教師交代であったので、できるだけ前任者の授業方法を受け継ぐ方が、学生にはとまどいが少ないだろうと判断し、私もパワーポイントスライドで教材を作ることになりました。
機械に弱い春庭、まず、PDF化ということにまごまごしてしまいました。若い前任者が「ここを押して、次は、ここ押してファイル名を変えて、、、、」と、すらすら説明してくれることが、さっぱりとこの老頭に入らず、「すみません、もう一度」と、おそるおそる言ううちにも、前任者は友人がいるというバンコクに旅行にでかけてしまいました。1週間後に彼女が事務所に顔を出すまで、実にストレスいっぱいの日々になりました。おなかこわしているし、授業ファイルはうまく作れないし、泣いていました。
彼女が事務室に顔をだしたので、機器の使用方法を文書化して残してほしいと頼みました。快くやってくれたので、ほっと一息。旅行に出かける前は、旅行社へ行ったり忙しそうにしている彼女に、「文書化しておいて」と、切り出せなかった気の弱い私でしたが、学期途中での仕事の引き継ぎ、きちん引き継ぎをしてから旅行に行くべきなのだ、と、彼女がいない間に気づいた、トロい老女です。でもね、旅行に出かける準備でうきうきしている若い女性に、「仕事優先」なんてこと言ったりしたら、「いじわるバーサン」と、思われはしないかなんて、気になりました。なんせ狭い業界なので、「あの人とはいっしょでは仕事しづらかった」という評判は、あっという間に業界をかけめぐるのです。
文書化してもらったおかげで、PDF化というのもできるようになりました。
彼女は、自分が作ったパワーポイントファイルは、すべて大学PCからもUSBファイルからも消し去って私用のUSBに移してしまっていたので、彼女の作ったファイルは使用できませんでした。
私は、自分で作った試験問題や練習問題など、すべて大学の共通ファイルに残してきました。引き継いだ先生がそれを利用するかどうかはともかく、教材は資料として残すのが教師の仕事の一部だと思っていました。彼女が「自分が作った教材は自分のもの」という考え方の持ち主であったことに、若いから私物観がちがうのだ、と、思いました。
各課の教材ファイルを最初からすべて作りなおすことになり、最初の一週間で3課~8課の教材を一度に作ったので、たいへんでした。
9月中に進むであろう授業範囲の教材ファイルを作り上げて、ほっとしたら、学科長から「日本へ行って研究留学する先生方のために、サバイバルジャパニーズのクラスを作ってほしい」という要請がきました。
派遣元大学の当プロジェクト立ち上げメンバーの先生が、共同研究のためにヤンゴン滞在中で、学科長と親しい。「先生がやりたくないとおっしゃれば、断ることもできるのですが」と、言われたとき、「断ります」という選択肢は、下っ端派遣教員の私には、ありません。はい、引き受けました。
文字教育はいらないので、とりあえず日本で生活できるだけの最低限の日本語が口にできるように5~6回ほどの授業で完成させよという課題。ムリです。簡単な日本語だけでいいのだから、教えるのも簡単だろうと考えての「新しいクラスを作れ」なのでしょうが、簡単なことばを教えるのは、簡単ではない。
実は、サバイバル言語というのは、教えるには非常にテクニックが必要です。
90分の授業のために、数時間の準備が必要。またまたパワーポイント教材の作り直し。ひらがなも覚える時間がないというので、すべてローマ字書きのファイルを作ることになります。
8月4日に当地に来て以来、大学と宿舎の往復だけで、大学でも宿舎でもひたすらパワーポイントスライド教材を作り続けて、大学近くのスーパーで買い物をしたのと、宿舎近くの市場で買い物をしたほかは、寝る時間以外はすべて仕事に費やしました。
時給換算にすると、ミャンマー人の現地給与よりも安い給与になります。
「お金は問題じゃないんだ、この国の日本語教育に寄与できれば満足」なんて言いながら、たっぷりの年金をもらいつつ、赴任してくる退職教員が、アジア各地にけっこうな数、います。中国で出会ったそんな日本語教師のひとりは、年金は日本に残る奥さんに渡し、自分は現地給与だけで生活している、と、言っていました。うらやまし。
私の場合、現地給与ではなく、派遣元大学からの支給ですが、当地赴任のために、日本の私立大学の後期授業をやらない、ということにしたので、10月11月には、無給となります。日本の留守宅の公団家賃も光熱費も必要、日本で教師をしているより、ずっと貧乏になっている我が家の経済状況なのです。
そんな思いまでして、テラ・インコグニタは、満足できたかか、、、、8月は泣いていましたが、9月はどうか、春庭の好奇心に幸いあれ。
9月担当の仏様、おとめ座を仕切っているどっかの神様、おとめ座生まれの老女をどうかよろしくお願いします。
<つづく>