20150926
ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ヤンゴン日記9月(8)ダラ地区一日旅行
日本語教室で受講を続けていた女性教師達の中に、ヤンゴン大学ビルマ文学科の出身者ではあるけれど、当大学のビルマ文学科教員ではない人が一人混ざっていました。彼女は、通信制大学の准教授で、学科長から他大学教員ではあるけれど、日本語授業に参加を許可するから、そのかわりとして、「日本人の先生は、生活がいろいろ不自由だから、お世話をするように」という命を受けていました。
オン先生、日本語の口答でのやりとりは苦手でしたが、文字表記は正確でした。
前任者がインフルエンザで1週間寝込んだ、というときも、学科長に申し渡されたとおり、オン先生が病院に連れて行くなど、献身的にお世話をしました。私も万が一病気になったときは、彼女に電話しようと思っていたのですが、幸いなことに、私の下痢と足の湿疹は自己治癒力のみで治しました。
私は病気にならずにすんだので、かわりに彼女に町歩きのお世話をしてもらうことにしました。(道ばたで売っていたとうもろこしに当たってしまったのは、そのあと)
彼女に頼んだのが、ヤンゴンの中の田舎、ヤンゴン川の対岸にある「ダラ」という地区と、隣の行政区トヮンティ村へのミニトリップです。
土日は彼女も休みたいだろうから、私が土曜日2回出勤した代休として9月17日水曜日に休みをもらい、日帰り旅行の案内をお願いしました。
地図で見ると、ヤンゴンの向い側デルタ地帯低地に、ダラ地区が広がっています。
ダラは、ヤンゴン川に橋がかけられて、交通が便利になれば、大発展するだろうと予測される土地です。ヤンゴンと、川を隔ててすぐ向かい側にありながら、現在のところ、渡し船とフェリー以外に交通手段がなく、地域内の道路も、ヤンゴン市内以上に未発達な地域です。東京でいえば、1960年代以前のお台場、というところでしょうか。
フェリーと船着き場は、日本のJICAがお金を出して整備しました。フェリーには「チェリー」という名がつけられています。ダラ地区の開発には、日本が大いにかかわっているのだそうです。でも、今のところ、ダラもただの沼地に穴ぼこだらけの道や掘っ立て小屋のような家が並んでいるだけ。
日本人留学生がひとりいっしょに行くことになりました。日本語授業のTAをつとめてくれた留学生ふたりに声をかけて、これまでのTA仕事に対するお礼の意味もこめて、ミニ旅行に誘ったのです。しかし、試験前の時期なので、朝方、男子留学生から「すみません、試験準備が間に合いません」という電話がかかってきました。
当地の試験は、教科書を丸暗記して、一字一句たがえることなくそれを試験用紙に書き写す、というものですから、時間との勝負。学生達は、手書きで教科書をノートに写し、大きな声で暗誦しながら暗記していくのです。
女子留学生のほうは、ノートに手書きしたビルマ文字の「暗記必須ページ」を持ってタクシーに乗り込みました。タクシーの中でぶつぶつと筆記してきたページを暗誦する彼女の声を聞きながら、フェリーの渡し場、パンソダン港に到着しました。
私は事前に、フェリーの値段を知っていました。地元民は片道100チャット10円。外国人は5000チャット500円。えらい違いです。ネットの旅行記に、「船も船着き場も日本のお金で作ったものなのに、他の外国人と同じ高額料金を日本人からもとるのはけしからん」と、書いてありました。私もそう思います。JICAの資金って、結局我々の税金が投入されているんでしょ?日本人はすでに税金で支払っているのだから、無料にすればいいのに。同じ日本人でも、ロンジーを着てゴム草を履き、ビルマ語話している留学生は往復20円で、ジーンズにスニーカー、リュックサック背負っている私は往復1000円。納得できぬ。服装差別だ。って、ビルマ語話せるようになればいいだけなんだけれど。
パンソダン港からフェリー乗船。
往復10000チャットのフェリー券を握りしめて、対岸へ。タクシーチャーターが、一日だと4~5万チャット、5千円ほど、と出ていたので高いけれど、3人で回って一日タクシーに乗るなら、それも仕方がないかな、と思っていました。
しかし、オン先生と留学生は、ダラに数多いバイクタクシーを選びました。オートバイの後ろ座席に客を乗せて走るバイクタクシー。ヤンゴン市内には乗り入れが禁止されているので、日本人にとって珍しいだろうと、選んでくださったのだろうと思います。
しかし、一日の最後に大雨の中1時間走り、背中のリュックも身体もずぶぬれにはなるし、バイク一人につき3万チャット。合計9万チャットを私が払ったし、タクシーよりは高くつきました。
留学生は「市内ではできないことなので、楽しかった」と言っていました。そりゃ、23歳の若さがあれば、私だってそう思いたいけれど、なにせ66歳、ずぶ濡れはつらかった。暑い土地だけれども、濡れた身体でバイクで走って風を受けるとかなり冷えたのでした。留学生は、このあとおなかがいたくなって下痢に。私は寒かったけれど、そこは身体にまとっている脂身が布団代わりですから、寒い思いをしただけです。
雨がなければ、田舎道を快適に走る。
ダラからトゥワンティ村のあたりは、インディカ米の産地。道の両側に水田が広がっています。ここらは3期作。1年に3回植え付け、3回刈り入れる。今の時期は8月に植えて12月に刈り入れをする分。最初の田植えは、沼地に直播き。次は苗床を作って田植えをするそうです。かなり粗放農業のように見受けました。日本のきめこまやかな水田の水管理、きっちり畝を作る田植え、草取りなど、緻密な作業は芸術です。
インディカ米の田んぼの中を走るバイクタクシー
そして、一日のうち、私が行きたいと思っていた手作りの工芸品工房には短時間しか滞在できず、私には「この白塗りお顔の仏様参りは、もう3年分くらいお参りしたから十分だ」と思えるのに、ミャンマーの人たちにとって、お寺参りこそが行くべき所と思うので、ダラ一日で4カ所のお寺を巡りました。自由に行きたいところに行くには、やはり一人旅が一番。案内される身では、ガイドに従うのみ。今回はお寺参りにあまんじました。
「私は曹洞宗。ZENブッディストだから、お寺には初詣とお盆のお墓参り、1年に2回行けば十分なの。それが、ヤンゴンに来て以来、お寺はもう7カ所お参りしたので、3年分はお参りがすんだ」と、言ったのですが、彼らの感覚では、7カ所くらいのお参りではまだまだ足りぬ、もっともっと御仏の前で功徳を積ませてやるのが親切と思うのです。
最後のお寺では、「もう、お参りしたくない」と、抵抗してみました。留学生は、「ミャンマーに来たらもミャンマー人のように、朝晩お寺にいかなければなりません」と、きっぱり。抵抗はムダにおわり、結局白塗りお顔の釈迦牟尼大仏にお参りしました。
まあ、ヤンゴンでは、お寺以外に観光名所も少ないのですけれど。
お寺に建築学的みどころとか、仏像に美術史的価値がある、というのなら私も見て回るのにやぶさかではない。しかし、「このお寺は千年前からある」とは言っても、それはお寺建立の由来書にそう書いてあるだけで、建物はいまどきのコンクリート柱を金色にぬりたくっただけ、というもの。モンスーンの被害がおおきいから、たいていの古いお寺は、風雨にふっとんでいる。仏像は、どれもこれも真っ白なお顔に金色の袈裟。おめめパッチリ唇は赤くぼってり。
たぶん、ミャンマー人が鎌倉や東大寺の仏像を見ても、「こんな地味な色合いの仏様で、袈裟も金色じゃないし、少しもありがたみがない」と思うのでしょう。逆に私はマネキン人形のように睫毛バッチリ白塗りお顔にはありがたみを感じなかった。来世を託すにしても、薬師寺の鑑真像とか、中尊寺の半跏思惟像あたりにお願いしたい。
当地の上座仏教では、僧侶は第一の知識人であり、他の人間とは一段異なる人間以上の存在です。掃除やら煮炊きやらは、下等な下々が行うこと。僧侶はひたすらパーリ語の学習と読経、瞑想を続けます。
お寺ではどこも境内に入ると、土足禁止。靴下も脱ぐよう指示されます。しかし、境内は、掃除されていないので、ひとまわりするうち、足の裏は真っ黒になります。禅寺のように、境内寺内を掃除することが修行、典座になって寺内の料理炊事を担当するのも修行、という制度、実によいものだ、と思えるようになりました。昔は、掃除がどうして修行なんだ、と、学校の清掃させられるのが大嫌いでしたけれど。
ダラで最初に行ったお寺の門。
当地では、僧侶は、傘など自分の持ち物や経典にのみ触れることができる。それ以外の物に触れることは禁忌であり、箒や雑巾なんぞにふれたら、身が汚れます。水がこぼれたのを雑巾で拭きたい、と思ったら、寺で召し使われている少年などに、命じるだけ。
虫が多い当地ですから、廊下には芋虫ムカデヤスデなどが這っているので、注意するよう言われます。「刺されるから注意」ではない。寺内で虫を踏んづけて殺生してしまうと、功徳がなくなるから。
ダラで最初にお参りしたお寺でも、大きな毛虫が悠々這っていたので、避けて通りました。まあ、踏んづけてしまって、私の来世が毛虫以下ってことになっても、私は、毛虫になったら毛虫としての一生をまっとうするだけなので、特別功徳が減るって気もしないのですが。
当地の人々にとって、お寺とは第一に祈りをささげる場所。祈って祈って、僧侶に寄進をして、来世にはよりステージが高い人間に生まれ変われることを願うのです。
現世利益などを願ってはいけません。現世利益用には、「ナッ」という土着神がいます。日本のように土着神と仏が習合することなく、「ナッ」は「ナッ」で、別物として、現世利益を担って大いに信仰を集めています。
お寺の壁が黒ずんで汚れていても、屋根がさび付いていても、そんなことは誰も気にしない。大切なのは、祈りを捧げる場があること、僧侶の説教が聞けること。ヤンゴンでお参りしたお寺のうち、まあまあ掃除がされていると思えたのは、外国人観光客の多いシュエダゴンパゴダだけでした。それでもひとまわりすれば、足の裏まっくろでしたが。
ダラで最初にお参りしたのは、このお寺を最初に建立したお坊さんの遺体がそのまま仏像になっているというお寺。その遺体は寝姿となって、仏塔のわきに納められていました。
留学生にこのお坊さんの寝姿の前にある説明文を翻訳して説明してもらいました。お坊さんが亡くなったあと、目を閉じていたのに、ある時点でカッと目をお開きになった。そこで、その遺体をそのまま仏として拝むことにしたのだと。
私はそれを聞いて、それって死後硬直のひとつのあらわれじゃないの?と、思いました。現今の日本では、人が亡くなったあと、納棺師が閉眼閉口のあと始末をします。ときに「この新仏は、どうしても口が閉まらない」とかいうご遺体もある由。
死んだ後に坊さんの目が開いちゃったとしても、まあ、そういうこともあるだろうと思う私、不信心、不敬な解釈でごめんなさい。
最初は、このあと、3カ所もお寺参りするとは知らずに、わりにゆっくりと、この「死んだ後、目を開いちゃったありがたいお坊さん」なんぞを見ていたのでした。
<つづく>
ミンガラ春庭ミャンマー便り>2015ヤンゴン日記9月(8)ダラ地区一日旅行
日本語教室で受講を続けていた女性教師達の中に、ヤンゴン大学ビルマ文学科の出身者ではあるけれど、当大学のビルマ文学科教員ではない人が一人混ざっていました。彼女は、通信制大学の准教授で、学科長から他大学教員ではあるけれど、日本語授業に参加を許可するから、そのかわりとして、「日本人の先生は、生活がいろいろ不自由だから、お世話をするように」という命を受けていました。
オン先生、日本語の口答でのやりとりは苦手でしたが、文字表記は正確でした。
前任者がインフルエンザで1週間寝込んだ、というときも、学科長に申し渡されたとおり、オン先生が病院に連れて行くなど、献身的にお世話をしました。私も万が一病気になったときは、彼女に電話しようと思っていたのですが、幸いなことに、私の下痢と足の湿疹は自己治癒力のみで治しました。
私は病気にならずにすんだので、かわりに彼女に町歩きのお世話をしてもらうことにしました。(道ばたで売っていたとうもろこしに当たってしまったのは、そのあと)
彼女に頼んだのが、ヤンゴンの中の田舎、ヤンゴン川の対岸にある「ダラ」という地区と、隣の行政区トヮンティ村へのミニトリップです。
土日は彼女も休みたいだろうから、私が土曜日2回出勤した代休として9月17日水曜日に休みをもらい、日帰り旅行の案内をお願いしました。
地図で見ると、ヤンゴンの向い側デルタ地帯低地に、ダラ地区が広がっています。
ダラは、ヤンゴン川に橋がかけられて、交通が便利になれば、大発展するだろうと予測される土地です。ヤンゴンと、川を隔ててすぐ向かい側にありながら、現在のところ、渡し船とフェリー以外に交通手段がなく、地域内の道路も、ヤンゴン市内以上に未発達な地域です。東京でいえば、1960年代以前のお台場、というところでしょうか。
フェリーと船着き場は、日本のJICAがお金を出して整備しました。フェリーには「チェリー」という名がつけられています。ダラ地区の開発には、日本が大いにかかわっているのだそうです。でも、今のところ、ダラもただの沼地に穴ぼこだらけの道や掘っ立て小屋のような家が並んでいるだけ。
日本人留学生がひとりいっしょに行くことになりました。日本語授業のTAをつとめてくれた留学生ふたりに声をかけて、これまでのTA仕事に対するお礼の意味もこめて、ミニ旅行に誘ったのです。しかし、試験前の時期なので、朝方、男子留学生から「すみません、試験準備が間に合いません」という電話がかかってきました。
当地の試験は、教科書を丸暗記して、一字一句たがえることなくそれを試験用紙に書き写す、というものですから、時間との勝負。学生達は、手書きで教科書をノートに写し、大きな声で暗誦しながら暗記していくのです。
女子留学生のほうは、ノートに手書きしたビルマ文字の「暗記必須ページ」を持ってタクシーに乗り込みました。タクシーの中でぶつぶつと筆記してきたページを暗誦する彼女の声を聞きながら、フェリーの渡し場、パンソダン港に到着しました。
私は事前に、フェリーの値段を知っていました。地元民は片道100チャット10円。外国人は5000チャット500円。えらい違いです。ネットの旅行記に、「船も船着き場も日本のお金で作ったものなのに、他の外国人と同じ高額料金を日本人からもとるのはけしからん」と、書いてありました。私もそう思います。JICAの資金って、結局我々の税金が投入されているんでしょ?日本人はすでに税金で支払っているのだから、無料にすればいいのに。同じ日本人でも、ロンジーを着てゴム草を履き、ビルマ語話している留学生は往復20円で、ジーンズにスニーカー、リュックサック背負っている私は往復1000円。納得できぬ。服装差別だ。って、ビルマ語話せるようになればいいだけなんだけれど。
パンソダン港からフェリー乗船。
往復10000チャットのフェリー券を握りしめて、対岸へ。タクシーチャーターが、一日だと4~5万チャット、5千円ほど、と出ていたので高いけれど、3人で回って一日タクシーに乗るなら、それも仕方がないかな、と思っていました。
しかし、オン先生と留学生は、ダラに数多いバイクタクシーを選びました。オートバイの後ろ座席に客を乗せて走るバイクタクシー。ヤンゴン市内には乗り入れが禁止されているので、日本人にとって珍しいだろうと、選んでくださったのだろうと思います。
しかし、一日の最後に大雨の中1時間走り、背中のリュックも身体もずぶぬれにはなるし、バイク一人につき3万チャット。合計9万チャットを私が払ったし、タクシーよりは高くつきました。
留学生は「市内ではできないことなので、楽しかった」と言っていました。そりゃ、23歳の若さがあれば、私だってそう思いたいけれど、なにせ66歳、ずぶ濡れはつらかった。暑い土地だけれども、濡れた身体でバイクで走って風を受けるとかなり冷えたのでした。留学生は、このあとおなかがいたくなって下痢に。私は寒かったけれど、そこは身体にまとっている脂身が布団代わりですから、寒い思いをしただけです。
雨がなければ、田舎道を快適に走る。
ダラからトゥワンティ村のあたりは、インディカ米の産地。道の両側に水田が広がっています。ここらは3期作。1年に3回植え付け、3回刈り入れる。今の時期は8月に植えて12月に刈り入れをする分。最初の田植えは、沼地に直播き。次は苗床を作って田植えをするそうです。かなり粗放農業のように見受けました。日本のきめこまやかな水田の水管理、きっちり畝を作る田植え、草取りなど、緻密な作業は芸術です。
インディカ米の田んぼの中を走るバイクタクシー
そして、一日のうち、私が行きたいと思っていた手作りの工芸品工房には短時間しか滞在できず、私には「この白塗りお顔の仏様参りは、もう3年分くらいお参りしたから十分だ」と思えるのに、ミャンマーの人たちにとって、お寺参りこそが行くべき所と思うので、ダラ一日で4カ所のお寺を巡りました。自由に行きたいところに行くには、やはり一人旅が一番。案内される身では、ガイドに従うのみ。今回はお寺参りにあまんじました。
「私は曹洞宗。ZENブッディストだから、お寺には初詣とお盆のお墓参り、1年に2回行けば十分なの。それが、ヤンゴンに来て以来、お寺はもう7カ所お参りしたので、3年分はお参りがすんだ」と、言ったのですが、彼らの感覚では、7カ所くらいのお参りではまだまだ足りぬ、もっともっと御仏の前で功徳を積ませてやるのが親切と思うのです。
最後のお寺では、「もう、お参りしたくない」と、抵抗してみました。留学生は、「ミャンマーに来たらもミャンマー人のように、朝晩お寺にいかなければなりません」と、きっぱり。抵抗はムダにおわり、結局白塗りお顔の釈迦牟尼大仏にお参りしました。
まあ、ヤンゴンでは、お寺以外に観光名所も少ないのですけれど。
お寺に建築学的みどころとか、仏像に美術史的価値がある、というのなら私も見て回るのにやぶさかではない。しかし、「このお寺は千年前からある」とは言っても、それはお寺建立の由来書にそう書いてあるだけで、建物はいまどきのコンクリート柱を金色にぬりたくっただけ、というもの。モンスーンの被害がおおきいから、たいていの古いお寺は、風雨にふっとんでいる。仏像は、どれもこれも真っ白なお顔に金色の袈裟。おめめパッチリ唇は赤くぼってり。
たぶん、ミャンマー人が鎌倉や東大寺の仏像を見ても、「こんな地味な色合いの仏様で、袈裟も金色じゃないし、少しもありがたみがない」と思うのでしょう。逆に私はマネキン人形のように睫毛バッチリ白塗りお顔にはありがたみを感じなかった。来世を託すにしても、薬師寺の鑑真像とか、中尊寺の半跏思惟像あたりにお願いしたい。
当地の上座仏教では、僧侶は第一の知識人であり、他の人間とは一段異なる人間以上の存在です。掃除やら煮炊きやらは、下等な下々が行うこと。僧侶はひたすらパーリ語の学習と読経、瞑想を続けます。
お寺ではどこも境内に入ると、土足禁止。靴下も脱ぐよう指示されます。しかし、境内は、掃除されていないので、ひとまわりするうち、足の裏は真っ黒になります。禅寺のように、境内寺内を掃除することが修行、典座になって寺内の料理炊事を担当するのも修行、という制度、実によいものだ、と思えるようになりました。昔は、掃除がどうして修行なんだ、と、学校の清掃させられるのが大嫌いでしたけれど。
ダラで最初に行ったお寺の門。
当地では、僧侶は、傘など自分の持ち物や経典にのみ触れることができる。それ以外の物に触れることは禁忌であり、箒や雑巾なんぞにふれたら、身が汚れます。水がこぼれたのを雑巾で拭きたい、と思ったら、寺で召し使われている少年などに、命じるだけ。
虫が多い当地ですから、廊下には芋虫ムカデヤスデなどが這っているので、注意するよう言われます。「刺されるから注意」ではない。寺内で虫を踏んづけて殺生してしまうと、功徳がなくなるから。
ダラで最初にお参りしたお寺でも、大きな毛虫が悠々這っていたので、避けて通りました。まあ、踏んづけてしまって、私の来世が毛虫以下ってことになっても、私は、毛虫になったら毛虫としての一生をまっとうするだけなので、特別功徳が減るって気もしないのですが。
当地の人々にとって、お寺とは第一に祈りをささげる場所。祈って祈って、僧侶に寄進をして、来世にはよりステージが高い人間に生まれ変われることを願うのです。
現世利益などを願ってはいけません。現世利益用には、「ナッ」という土着神がいます。日本のように土着神と仏が習合することなく、「ナッ」は「ナッ」で、別物として、現世利益を担って大いに信仰を集めています。
お寺の壁が黒ずんで汚れていても、屋根がさび付いていても、そんなことは誰も気にしない。大切なのは、祈りを捧げる場があること、僧侶の説教が聞けること。ヤンゴンでお参りしたお寺のうち、まあまあ掃除がされていると思えたのは、外国人観光客の多いシュエダゴンパゴダだけでした。それでもひとまわりすれば、足の裏まっくろでしたが。
ダラで最初にお参りしたのは、このお寺を最初に建立したお坊さんの遺体がそのまま仏像になっているというお寺。その遺体は寝姿となって、仏塔のわきに納められていました。
留学生にこのお坊さんの寝姿の前にある説明文を翻訳して説明してもらいました。お坊さんが亡くなったあと、目を閉じていたのに、ある時点でカッと目をお開きになった。そこで、その遺体をそのまま仏として拝むことにしたのだと。
私はそれを聞いて、それって死後硬直のひとつのあらわれじゃないの?と、思いました。現今の日本では、人が亡くなったあと、納棺師が閉眼閉口のあと始末をします。ときに「この新仏は、どうしても口が閉まらない」とかいうご遺体もある由。
死んだ後に坊さんの目が開いちゃったとしても、まあ、そういうこともあるだろうと思う私、不信心、不敬な解釈でごめんなさい。
最初は、このあと、3カ所もお寺参りするとは知らずに、わりにゆっくりと、この「死んだ後、目を開いちゃったありがたいお坊さん」なんぞを見ていたのでした。
<つづく>