春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「川合玉堂展」

2018-04-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180319
ぽかぽか春庭アート散歩>展覧会拾遺(2)川合玉堂展

 田植えの季節。
 田植えをこのように美しく爽やかに描いた絵、川合玉堂(かわいぎょくどう1873-1957)のこの絵が随一と思います。

 川合玉堂「早乙女」1945年


 何度か見ている玉堂の「早乙女」ですが、去年12月に山種美術館で見たのが一番最近の観覧です。
 昨年の美術館巡り。川合玉堂没後60年の記念展を山種美術館で見ました。(2017年10/28-12/24)
 会期最終日になって、「あらら、招待券無駄にしたらもったいない」と出かけたのです。

 玉堂。愛知県に生まれ、14歳から京都で四条円山派の絵を習い17歳で画壇に出ました。23歳で東京に移住し、橋本雅邦に師事しました。画業、いろいろありまして、1940(昭和15)年に文化勲章を受章。戦後は、疎開先の奥多摩にとどまって自然を愛し家族を愛し、絵を描き続けた晩年でした。

 と、書くと、画家としてなんと平穏平和な一生だったのかと思います。
 芸術家というのが、往々にし波乱万丈だったり恵まれない不幸な生涯をすごすというのを数多く見てきたので、玉堂の生涯は栄誉に包まれ金銭的な苦労もなかった一生のように思えます。

 生まれは筆墨紙商の長男ですから、好きな絵を描く紙にも水墨画の墨にも不自由したことはなく育ったろうし、帝室技芸員、香淳皇后の絵の先生。ずっと東京で暮らしたけれど、戦争色濃くなると、東京空襲など無縁の奥多摩青梅に疎開。そのまま晩年を過ごしました。こんなにも「不幸のタネ」に無縁の人もいるんだなあ、という感じ。

 早世したり薄幸だったりする画家だと、そうだよね、神様がすばらしい才能を与えてくれたかわりに、幸せには恵まれなかったよね、なんて言いながら作品を見て回るけれど、玉堂、どこをとっても、翳りなし。

山雨一過1943山種美術館蔵



 「彩雨」は竹橋近代美術館で何度も見たし、「早乙女」も山種美術館で見ました。見ていなかった作品でも、今回、おお、これははじめて見たという衝撃を受けるような作はなかったです。

彩雨1940東京近代美術館蔵


 全体的に「美しく穏やかに」の気分で見て回り、静かな美の豊かさを満喫。
 芸術家だって、おだやかな幸福な人生を歩むひとだっているわよね。
 
 「早乙女」、現実には、東京都下は大空襲で焼け野原、という時期の作です。疎開先青梅近辺で見た田んぼを描いたのか、記憶の中の田植えだったのかわかりませんが、奥多摩青梅で1945年にこの明るく豊かな田植え風景を描けるのは、よほどの胆力か、または「紅旗征戎吾ガ事二非ズ(by定家)」であったのか。

 玉堂は、1944(昭和19)年7月に東京西多摩郡御岳(みたけ)に疎開。同年9月には同じ西多摩の古里(こり)村白丸(しろまる)に移転。1945(昭和20)年に東京牛込若宮町の自宅が戦災で焼失しているので、東京空襲の被害に無関心であるはずはない。
 しかし、玉堂の「早乙女」には、空襲の悲惨も、自宅焼失の衝撃も影を落としておらず、腰を伸ばして空を見上げている乙女は、笑みを浮かべてさえいます。

 敗戦後、1945年の暮れには御岳の家を「偶庵(ぐうあん)」と名付けて、終生ここに住みました。
 焼け野原の東京や数十万人の焼死者への鎮魂の思いゆえの明るい田んぼなのか、再生しようとする日本への希望に満ちた田んぼなのか、早乙女の笑顔は育つ青苗の成長を確信しています。

 どうも、私は、一生幸福にすごした恵まれた画家には、点数厳しいみたい。つまりは、才能と幸福の両方とも得た人に対して「どっちにも恵まれなかったもんは、どうしてくれんのよ」といういじましい気持ちが働くみたいです。ひがみねたみそねみやっかみ大得意です。

 な~んてひがんでいないで、素直に「早乙女」の田植えに励む乙女のように笑顔になりましょう。
 奥多摩青梅よりもちょい手前の多摩で、日本語の苗植え付ける田植えに励んでおります。

<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする