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ぽかぽか春庭「林忠正展in 西洋美術館」

2019-06-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

 コレクター林忠正展

20190606
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(6)林忠正展 in 西洋美術館

 「コレクター」といえば、最初に思い浮かぶ人物は、映画『コレクター』の蝶や美女をコレクトするフレディです。集めたものを偏愛する、偏執的で孤独な人でした。フレディの印象が強すぎるせいでしょうけれど、ものを集めることに情熱を注ぎこむ人、わたしにはわからない面もあります。

 私も、こどものころは当時こども界で流行していた切手集めに熱中し、毎月記念切手を買うために郵便局へ行ったものでした。
 私の場合、10円の切手が将来倍の20円になると聞いて、大儲けかも、と郵便局にはせ参じたのです。たしかに、50年後の現在では10円切手10枚のシートは倍額の200円にはなっているのですが、100円儲けてどうする。100円だとコンビニのコーヒーは飲めるが、喫茶店のコーヒーは飲めないんだぞ、と子供時代の私には言ってやりたい。切手アルバム、記念品としてとっておきますけれど。

 ドキュメンタリー『ハーブ&ドロシー』は、現代美術収集家夫妻を追った記録映画です。監督:佐々木芽生
 夫のハーブは郵便局員、妻のドロシーは図書館司書。ふたりは、ドロシーの司書の給与で生活し、ハーブの給与を50年以上にわたって現代美術を収集する資金としました。
 かつかつの暮らしを続けながら集め続けた現代美術の成果は、アメリカのナショナル・ギャラリーに「ヴォ―ゲル夫妻コレクション」として5000点が寄贈されました。
 こういうコレクターなら、ものを集める情熱も、納得です。

 2017年のボストン美術館展は、コレクターに焦点をあてた、展示がなされていました。 2017年9月に2度観覧。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/4a00597e4cba037095def31e9fc26b04
 
 ボストン美術館展で、私はコレクターの名をひとりも覚えることはありませんでした。それくらい、美術展においてもコレクターは地味な存在。

 だから、西洋美術館が林忠正展を開催することを知っても、最初は積極的に見にいこうとは思っていませんでした。3月9日に見たのは、東京都美術館で映画『山中常盤』を見た帰り道。土曜日は夜8時まで開館しているし土曜日の西美は「だれでも無料」だから。林忠正展は、常設展示の企画室で開催されましたから、無料が好きな私、見逃さず。

 絵を見るのが好きな人の中でも、林忠正を知る人は少ない。私が彼の名を知ったのは、明治初期に西欧で盛んに開催された万国博覧会に興味を持ち、ジャポニスムの影響を調べてきたから。
 ジャポニスム。例えば、ダンス表現におけるロイ・フラー(Loie Fuller1862―1928)と川上貞奴の関係。ダンサーのフラーは貞奴のフランス公演に自身の劇場を提供し、マネージャーとして付き添いました。貞奴が「ニッポンの舞姫」として英国女王に謁見するまでに成功したのは、フラーのマネージングのおかげです。

 絵画におけるジャポニスムにとって、林忠正(1853-1906)は欠くことのできない人物です。でも、コレクターに焦点を当てた展覧会が開かれるとは思いもよらず。

 林忠正は、越中(富山)の高岡に蘭方医の息子として生まれ、1871年に上京、開成学校(3年後に東京大学と改称)でフランス語を学びます。1878(明治11)年)、パリの万国博覧会に参加する「起立工商会社」通訳として渡仏。当時の国策でもあった日本の工芸品や絵画を西欧に売りさばく仕事に専念するため、フランスに店を構え、美術商として生涯を送りました。

 「起立工商会社」の工芸品、藝大名品展で見てきました。明治時代の輸出品として、絹とお茶のほかこれといった産物がなかった日本は、精巧な工芸品を売って外貨を稼ぐしかありませんでした。
 林は西欧に日本の美術品を紹介しつつ、研究者を助け、ジャポニスムの中心人物となりました。
 また、絵画を輸入して日本に本格的な西洋美術館を建てようとしたのですが、志果たせず、52歳でなくなりました。
 彼の志は松方コレクションを中心とする現在の西洋美術館に受け継がれています。

 林忠正の展示資料は、ほとんどが孫の夫人木々康子の所蔵品です。木々は義理の祖父にあたる林忠正研究の第一人者で評伝『蒼龍の系譜』1976や『陽が昇るとき』1984、『林忠正』2009や、研究書『林忠正とその時代―世紀末のパリと日本美術』1987』を表しています。

 林忠正展出品目録の表紙


 林は、明治期に「西洋絵画こそ価値があり、日本の浮世絵は庶民の卑しい絵」とされていた時代に、西欧で価値が高まった浮世絵を売りまくりました。幕末明治初期には、お茶輸出の包み紙として扱われた浮世絵。林らの努力により、浮世絵の価値が認められるようになりました。
 また、浮世絵に大きな影響を受けた印象派の画家たちに、浮世絵を渡す代わりに代金代わりに、まだ売れてない印象派の絵画を受け取り、日本での西洋美術館建設を志しました。

 林は、売れないまま貧困のうちに亡くなったシスレーの遺族の世話をしています。しかし、日本では黒田清輝などの古典派を学んで帰朝した「古典&印象の折衷派」が洋画壇を席捲しており、林の死後、せっかくのコレクションはアメリカのコレクターなどに売却され、日本に残されませんでした。黒田も師匠の古典派コランばっかり称揚せず、少しは印象派に目を開いてくれていたらよかったのに。

 ほとんどが売り立てで散逸した林のコレクションのうち、ポール・ルヌワールによるデッサンがまとまって残されました。遺族によって東京国立博物館に寄贈されたものが展示されていました。
 展示目録の画家名はルヌアールとなっていて、私は当時のフランス語訳ではルノアールのことをルヌアールと表記していたのかと思って展示を見ました。

 林が残したのはポール・ルヌアール(Paul Renouard 1845-1924)であって、ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Augustê Renoir 1841-1919)とは別人。
 わはは、美術好きだけどそんなに詳しくない春庭。ルヌアールの作品を見て「ルノアールの初期作品かな。私がこれまで見た作風とはちょい違う。きっと売れる前のルノアールなんだ」と思って見ていたんです。 
 まぎらわしい名前だわねぇ、まったく。
 いやいや、名前が悪いわけじゃなく、ルヌアールとルノアールが区別できなかった私が悪いだけですけど。

 展示の多くは、林家に残された手紙や古写真です。貴重なものと思いますが、手紙はひとつひとつ読む時間はないのでささっと見て回り、土曜日閉館の8時までに十分に会場をめぐぐることができました。

 コレクターに光が当たることは少ない美術展で、このように明治期の日本と西欧を行き来して双方の芸術に多大な力をふるった林忠正について、たくさんの資料が展示され、ジャポニスム研究にとっても、日本と西欧の交流史研究にとっても、貴重なことでした。

<おわり>
コメント (2)
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