20190629
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>本朝七十二侯小満(4)蚕起食桑
二十四節気ですと、1年を24に区切って季節を表しています。5月には立夏と小満のふたつの季節があります。6月には芒種と夏至。
さらに、二十四節気をそれぞれ5日ずつ、1年を72に分けて季節を分類したものが七十二侯。中国から伝わったものですが、江戸中期の天文学者渋川春海らが改訂し、日本の季節と合わせた「本朝七十二侯」をまとめました。
二十四節気の小満。七十二侯小満初侯は「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」です。
中国の七十二侯では、初侯は「苦菜秀にがながよく茂る」ですから、これも渋川春海が本朝七十二侯を制定するにあたって、日本の風土をよく調べて決めたのだろうと思います。
中国では紀元前3000年の大昔の遺跡からも、絹が出土しています。しかし、中国は養蚕技術を国外に持ち出すことを各王朝が固く禁止し、ことに秦の始皇帝は厳しく管理を行いました。しかし、日本へは、すでに弥生時代に養蚕技術がもちこまれていました。紀元前200年ころの遺跡から絹が出土しています。この絹は、中国製とは織り方が異なるので、日本でも養蚕がすでに行われ、絹織物が生産されていたと考えられます。
桑を食むおこさま。(以下画像借り物)
AD195年には百済から蚕種がもたらされされたことが記録されており、283年には渡来人、秦氏が養蚕と絹織物の技術をもって朝廷に仕えました。昨年、京都に滞在したとき、最終日程で松尾大社に参拝しました。秦氏が酒造り、土木、など新技術を日本に伝え、一種の文化大革命を起こしていたことをより深く知ることができました。養蚕においても、画期的な新技術がもたらされたことと思います。
「日本書紀」の雄略天皇(5世紀後半)の巻に,「雄略天皇は后妃に自ら桑を摘ませ,養蚕を勧めようと思われ,国内の蚕を集めさせた」という記載があります。今から約1500年前に,天皇家が養蚕に関わっていたことがわかります。雄略天皇の記事が伝説の範囲であるとしても、古代より天皇家は養蚕に携わり、衰退期はあっても、明治時代の昭憲皇后、大正の貞明皇后、昭和の香淳皇后が養蚕を伝統として伝えてきました。
ことに平成時代、美智子皇后(現・上皇后)は、養蚕に思いが深く、市場では生産されなくなった小石丸という蚕種を育て、正倉院御物の修復用絹糸として唯一のものとして利用されたことが知られています。(その後、小石丸を復活している養蚕農家も出てきました)
蚕は5齢の脱皮が終わると上蔟します。上蔟とは、熟蚕(成熟した蚕)を集めて藁製の蔟(まぶし)に移すこと。蚕は48時間糸を吐き続け、さなぎになるために繭を作ります。
ときに、繭の中にいる蚕が糸を吐く動作を中断することもあります。
美智子上皇后の御歌
時折に糸吐かずをり薄き繭の中なる蚕疲れしならむ
繭の中で蚕が疲れているのではないかと気遣う、なんと繊細な心をお持ちの方であろうか。
江戸時代には、養蚕は藩の財政改革のために日本各地で奨励されました。養蚕技術の改革もあり、幕末には、日本から西欧への主要輸出産業のひとつになりました。
群馬県では江戸時代から、養蚕を担う働き手として女性が活躍し、夫は「うちのかかあは天下一」と、自慢し合いました。
明治5年に富岡製糸場が創業したあとも、農家の女性たちは、繭から糸を繰り出す技術(座繰り繰糸)技術向上をめざしました。また、永井いと(1836-1904)らが永井流養蚕法伝習所を設立し、養蚕技術の普及につとめました。
いとの指導のひとつに「農家の財布の紐はかかあが握るべし」という教えがあります。繭や絹糸を業者に販売する場も女性がとりしきり、女性が現金収入を得ていた風土が生み出したことばです。「かかあ天下」というのは、夫が妻を誉めるという以上に、女性が仕事を持ち現金収入を持つという風土によることばなのです。
群馬県は最近の統計でも、全国の養蚕農家数の4割、生産数の3割を占める養蚕県ですが、出荷数も養蚕農家も、年ごとに減っています。後継者不足はどの農業も同じ。
最盛期1930年代日本の繭生産量は、40万トン、世界一の量でした。しかし、現在の国内繭出荷量は、農水省2015年の統計で、年間130トン。養蚕農家の数は、2016年に349軒。
往時の一面桑畑、という光景を知る者にとっては、2016年には全国の養蚕農家数は349戸という養蚕の衰退は、残念なことですが、これも時代の変化でしょう。
かっては一面の桑畑が広がっていた上州。
上州の広い桑畑画像みつからず、↓は、九州の桑畑写真をお借りしました。
群馬県の地図、私が子供のころは、上州の地図に広がっていたこのマーク。
桑畑の地図記号です。今は、このマークで示さなければならないほど桑畑が一面に広がっている土地はないみたい。で、古戦場、牧場、塩田などとともに、2万5千分の一地図からは消えています。
しかし、「上州安中座繰製糸所・蚕絲館」のように、上質の絹生産すべく養蚕を続けている人もいます。手作業の養蚕製糸は、手間がかかる割に収入は少ないですが、志ある人が養蚕を続けているのは、うれしいことです。
蚕絲館は、和歌山出身の東宣江さんが運営しています。染色を学んでいた東さんが、2005年から15年、群馬の地で養蚕製糸を行っている製糸所、養蚕ワークショップもやっているということなので、次回安中に行ったら見学したいです。
私が女子高クラスメートやっちゃんの案内で、群馬県の養蚕製糸産業の地を巡ったのは、2015年のこと。
絹産業近代化遺産・田島弥平旧宅
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/dc5b551d9336aecb4c68a20b5b982a13
絹産業近代化遺産・田島武平家&高山社跡
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/2423bb063b25dd82d7617e075cc404e8
目的地であった富岡製糸場にはまだいけていないので、そのうち、またやっちゃんと。
絹をとるための蚕。「はるご」「なつご」と「あきご」の3回。一般的農家では、はるごとあきごの2回、養蚕が行われます。
渋川春海が小満の初侯に「蚕起食桑」をあてたのは、もっとも良質の絹がとれる「はるご」が桑を食べ始める時期が新暦の5月初旬であったからです。
母の実家が、1950年代までは養蚕をしていました。おばあちゃんの家に行くと、家の中で蚕が飼われているのを見ることができました。養蚕を日常作業として見ることができた最後の世代です。おばあちゃんが亡くなると、鉄道員をしていた叔父の奥さんは、重労働であった養蚕をやめました。
蚕が桑をはむ音は、さわさわと静かな音の中にも盛んな生命力を感じさせる、私にとって「生涯で味わったよい音」のひとつです。
さて、蚕は、他の家畜と大いに異なる点があります。馬や牛は、草があるところに放たれれば、野生化して生きていくことができ、子孫も増やします。
しかし、蚕は完全に人間の手による飼育下で開発した生き物であり、自然下では生き伸びることができないのです。蚕を桑畑に放して、桑の葉の上にのせてやったとしても、桑の枝を移動できず、一枚の葉っぱを食べつくせば、他の桑の葉を食べることができないので、数日後には全滅。人間が手厚く保護をしてやらなければ、生きることができない昆虫なのです。
養蚕という産業は、自然相手の仕事のように見えて、実は人工の農業です。野菜工場で人工的に水耕や人工照明によってトマトやレタスを育てるのと似ています。
「蚕起食桑」という季節のことば。実は自然を描写したのではなく、人間の営みを表した季節の語です。「麦秋至」も、人が野生の麦を改良しながら五穀として大切にしてきた麦を人の手が収穫するとき。
人は自然の中にいたいと願うことが多いですが、その「自然」の多くは、「人が作り上げてきた自然」という部分も多いことを、養蚕のことから考えました。
自然とは、人がその中でリラックスしたり楽しみを得ることのできるヤワなものではありませんでした。自然を相手に闘い続けなければならない、というのが現生人類5万年の営みであり、「自然を楽しむ」なんてことが庶民にできるようになったのは、たかだかここ100年ほどのことじゃないかと思います。
二十四節気の小満。小満を3侯に分けた本朝七十二侯の「蚕起食桑」「紅花栄」「麦秋至」について、思いめぐらしました。
俳句の季語とも違う、七十二侯の季節感。これからも折にふれて七十二侯のことばをめぐってみるのも楽しいと思います。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>本朝七十二侯小満(4)蚕起食桑
二十四節気ですと、1年を24に区切って季節を表しています。5月には立夏と小満のふたつの季節があります。6月には芒種と夏至。
さらに、二十四節気をそれぞれ5日ずつ、1年を72に分けて季節を分類したものが七十二侯。中国から伝わったものですが、江戸中期の天文学者渋川春海らが改訂し、日本の季節と合わせた「本朝七十二侯」をまとめました。
二十四節気の小満。七十二侯小満初侯は「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」です。
中国の七十二侯では、初侯は「苦菜秀にがながよく茂る」ですから、これも渋川春海が本朝七十二侯を制定するにあたって、日本の風土をよく調べて決めたのだろうと思います。
中国では紀元前3000年の大昔の遺跡からも、絹が出土しています。しかし、中国は養蚕技術を国外に持ち出すことを各王朝が固く禁止し、ことに秦の始皇帝は厳しく管理を行いました。しかし、日本へは、すでに弥生時代に養蚕技術がもちこまれていました。紀元前200年ころの遺跡から絹が出土しています。この絹は、中国製とは織り方が異なるので、日本でも養蚕がすでに行われ、絹織物が生産されていたと考えられます。
桑を食むおこさま。(以下画像借り物)
AD195年には百済から蚕種がもたらされされたことが記録されており、283年には渡来人、秦氏が養蚕と絹織物の技術をもって朝廷に仕えました。昨年、京都に滞在したとき、最終日程で松尾大社に参拝しました。秦氏が酒造り、土木、など新技術を日本に伝え、一種の文化大革命を起こしていたことをより深く知ることができました。養蚕においても、画期的な新技術がもたらされたことと思います。
「日本書紀」の雄略天皇(5世紀後半)の巻に,「雄略天皇は后妃に自ら桑を摘ませ,養蚕を勧めようと思われ,国内の蚕を集めさせた」という記載があります。今から約1500年前に,天皇家が養蚕に関わっていたことがわかります。雄略天皇の記事が伝説の範囲であるとしても、古代より天皇家は養蚕に携わり、衰退期はあっても、明治時代の昭憲皇后、大正の貞明皇后、昭和の香淳皇后が養蚕を伝統として伝えてきました。
ことに平成時代、美智子皇后(現・上皇后)は、養蚕に思いが深く、市場では生産されなくなった小石丸という蚕種を育て、正倉院御物の修復用絹糸として唯一のものとして利用されたことが知られています。(その後、小石丸を復活している養蚕農家も出てきました)
蚕は5齢の脱皮が終わると上蔟します。上蔟とは、熟蚕(成熟した蚕)を集めて藁製の蔟(まぶし)に移すこと。蚕は48時間糸を吐き続け、さなぎになるために繭を作ります。
ときに、繭の中にいる蚕が糸を吐く動作を中断することもあります。
美智子上皇后の御歌
時折に糸吐かずをり薄き繭の中なる蚕疲れしならむ
繭の中で蚕が疲れているのではないかと気遣う、なんと繊細な心をお持ちの方であろうか。
江戸時代には、養蚕は藩の財政改革のために日本各地で奨励されました。養蚕技術の改革もあり、幕末には、日本から西欧への主要輸出産業のひとつになりました。
群馬県では江戸時代から、養蚕を担う働き手として女性が活躍し、夫は「うちのかかあは天下一」と、自慢し合いました。
明治5年に富岡製糸場が創業したあとも、農家の女性たちは、繭から糸を繰り出す技術(座繰り繰糸)技術向上をめざしました。また、永井いと(1836-1904)らが永井流養蚕法伝習所を設立し、養蚕技術の普及につとめました。
いとの指導のひとつに「農家の財布の紐はかかあが握るべし」という教えがあります。繭や絹糸を業者に販売する場も女性がとりしきり、女性が現金収入を得ていた風土が生み出したことばです。「かかあ天下」というのは、夫が妻を誉めるという以上に、女性が仕事を持ち現金収入を持つという風土によることばなのです。
群馬県は最近の統計でも、全国の養蚕農家数の4割、生産数の3割を占める養蚕県ですが、出荷数も養蚕農家も、年ごとに減っています。後継者不足はどの農業も同じ。
最盛期1930年代日本の繭生産量は、40万トン、世界一の量でした。しかし、現在の国内繭出荷量は、農水省2015年の統計で、年間130トン。養蚕農家の数は、2016年に349軒。
往時の一面桑畑、という光景を知る者にとっては、2016年には全国の養蚕農家数は349戸という養蚕の衰退は、残念なことですが、これも時代の変化でしょう。
かっては一面の桑畑が広がっていた上州。
上州の広い桑畑画像みつからず、↓は、九州の桑畑写真をお借りしました。
群馬県の地図、私が子供のころは、上州の地図に広がっていたこのマーク。
桑畑の地図記号です。今は、このマークで示さなければならないほど桑畑が一面に広がっている土地はないみたい。で、古戦場、牧場、塩田などとともに、2万5千分の一地図からは消えています。
しかし、「上州安中座繰製糸所・蚕絲館」のように、上質の絹生産すべく養蚕を続けている人もいます。手作業の養蚕製糸は、手間がかかる割に収入は少ないですが、志ある人が養蚕を続けているのは、うれしいことです。
蚕絲館は、和歌山出身の東宣江さんが運営しています。染色を学んでいた東さんが、2005年から15年、群馬の地で養蚕製糸を行っている製糸所、養蚕ワークショップもやっているということなので、次回安中に行ったら見学したいです。
私が女子高クラスメートやっちゃんの案内で、群馬県の養蚕製糸産業の地を巡ったのは、2015年のこと。
絹産業近代化遺産・田島弥平旧宅
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/dc5b551d9336aecb4c68a20b5b982a13
絹産業近代化遺産・田島武平家&高山社跡
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/2423bb063b25dd82d7617e075cc404e8
目的地であった富岡製糸場にはまだいけていないので、そのうち、またやっちゃんと。
絹をとるための蚕。「はるご」「なつご」と「あきご」の3回。一般的農家では、はるごとあきごの2回、養蚕が行われます。
渋川春海が小満の初侯に「蚕起食桑」をあてたのは、もっとも良質の絹がとれる「はるご」が桑を食べ始める時期が新暦の5月初旬であったからです。
母の実家が、1950年代までは養蚕をしていました。おばあちゃんの家に行くと、家の中で蚕が飼われているのを見ることができました。養蚕を日常作業として見ることができた最後の世代です。おばあちゃんが亡くなると、鉄道員をしていた叔父の奥さんは、重労働であった養蚕をやめました。
蚕が桑をはむ音は、さわさわと静かな音の中にも盛んな生命力を感じさせる、私にとって「生涯で味わったよい音」のひとつです。
さて、蚕は、他の家畜と大いに異なる点があります。馬や牛は、草があるところに放たれれば、野生化して生きていくことができ、子孫も増やします。
しかし、蚕は完全に人間の手による飼育下で開発した生き物であり、自然下では生き伸びることができないのです。蚕を桑畑に放して、桑の葉の上にのせてやったとしても、桑の枝を移動できず、一枚の葉っぱを食べつくせば、他の桑の葉を食べることができないので、数日後には全滅。人間が手厚く保護をしてやらなければ、生きることができない昆虫なのです。
養蚕という産業は、自然相手の仕事のように見えて、実は人工の農業です。野菜工場で人工的に水耕や人工照明によってトマトやレタスを育てるのと似ています。
「蚕起食桑」という季節のことば。実は自然を描写したのではなく、人間の営みを表した季節の語です。「麦秋至」も、人が野生の麦を改良しながら五穀として大切にしてきた麦を人の手が収穫するとき。
人は自然の中にいたいと願うことが多いですが、その「自然」の多くは、「人が作り上げてきた自然」という部分も多いことを、養蚕のことから考えました。
自然とは、人がその中でリラックスしたり楽しみを得ることのできるヤワなものではありませんでした。自然を相手に闘い続けなければならない、というのが現生人類5万年の営みであり、「自然を楽しむ」なんてことが庶民にできるようになったのは、たかだかここ100年ほどのことじゃないかと思います。
二十四節気の小満。小満を3侯に分けた本朝七十二侯の「蚕起食桑」「紅花栄」「麦秋至」について、思いめぐらしました。
俳句の季語とも違う、七十二侯の季節感。これからも折にふれて七十二侯のことばをめぐってみるのも楽しいと思います。
<つづく>