横浜カップヌードル記念館
20190615
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記横浜行楽(2)真実のまんぷくでおなかいっぱい in カップヌードル記念館
横浜は近いから、たいていの名所には行ったことがあります。でも、安藤百福発明記念館には、「カップヌードル?ま、いいや」とパスしてきました。立身出世し叙勲もされた名士の記念館となると敬遠したいへそ曲がり。
しかし、万葉倶楽部からは道路ひとつ隔てただけのお隣さんなので、移動せずに観光できるという地の利。入館料500円。平日だからすいているかと思ったら、社会科見学の小中学生、アジアからの観光客でにぎわっていました。
私がほぼ毎日見ていた『まんぷく』を、娘息子は見ていないから、安藤百福(1910-2007)のことを知りません。
百福さんが台湾出身であることや、ドラマの福子さんと結婚する前に、台湾での結婚で子供が生まれていたことなどは、いっさいドラマには出てきませんでした。
朝ドラですからさまざまな制約があり、実在の人物であってもドラマ的に変えられることは当然ですが、ウイスキーを作った竹鶴政孝の妻リタがスコットランド出身であることはそのまま描写されるのに、百福氏が台湾出身であることを出さないというのが、なにかひっかかる気がしていました。
しかし、日清食品の公式サイト「安藤百福クロニクル」にも、百福が台湾で生まれ育ったこと、最初の妻が2011年まで104歳の長寿を保って暮らしていたこと、台湾に今も百福の娘呉美和が生存していることなどは、出てきません。
百福は生まれたときは日本統治下の日本人であり、1945年からは中華民国籍になりましたが、1966年に日本国籍を取得しています。
しかし、それを日清食品が出していないっていうのは、何か大人の事情があるのかもしれません。
百福の最初の台湾人妻は1928年、百福が18歳で結婚した正妻の黄綉梅(フアン・シウメイ1907-2011 104歳)長男・宏寿を生みました。宏寿は、日清食品2代目社長、のちに安藤姓(1930-2007)となりました。
百福の2番目の妻は呉美和の母で、台湾人女性の呉金鶯(ウー・ジンイン1919-1971)。
呉金鶯は奈良女子高等師範保母養成科に在学中、百福と出会い2男1女を生み、さらに台湾から日本に呼び寄せた長男宏寿の世話も引き受けた人です。
呉美和(1942~)は、金鶯の娘として、たびたび安藤百福の娘としての存在主張をしていますが、安藤家は安藤姓になった宏寿のみを家族と認定しています。
百福は、20代で頭角をあらわし、メリヤスを扱う繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」「日東商會」を台北と大阪で起業し、簡易住宅や幻灯機の製造販売も行う若手起業家でした。
台湾日本を行き来する百福。正妻黄綉梅は台湾で、呉金鶯は大阪で呉百福とすごすことで、ふたりの妻は納得していました。1970年代まで、台湾の民俗社会では一夫多妻は法的にも認められていたとのことです。
しかし、百福が、関西財界の社交場「大阪倶楽部」で受付嬢をしていた安藤仁子(まさこ1917-2010)と付き合い始めたころ、呉金鶯は離婚を申し出て台湾に戻ってしまいました。百福は手切れ金を持たせて、子どもたちの養育費仕送りもしていた、ということです。
台湾では正妻とも仲よくできたという呉金鶯も、日本での1夫2妻は耐えられなかったのかもしれません。双極性障害(躁うつ病)により52歳で死去。
美和は仕送りのおかげでか、がんばって学費をかせいだのか、国立台湾美術学校(現・台湾芸術大学)を卒業しました。
美和は、安藤百福の死後遺産を受け取ったものの、どうやらそれをだまし取られたらしい。現在の安藤家は、呉美和との関わりを断っているらしいので、遺産をめぐって悶着があるのかも。金持ちの家の内紛は、貧乏人には興味津々のラーメンの味。家政婦じゃないけど見た。
呉百福は、安藤仁子と結婚するために、正妻(大房)だった黄綉梅を戸籍上「妾(二房」と変えることによって安藤仁子と正式に結婚し、自分の姓も安藤に変えました。黄綉梅は2011年、104歳まで台湾で暮らしました。
安藤仁子は、『まんぷく』では福子のモデルになり、安藤サクラが演じた人物です。いつもおだやかに夫を支え続け、黄綉梅が生んだ長男宏寿も育てたという大阪のおっかさん。
横浜カップヌードル記念館では、福子人気にあやかって、一部屋は、仁子の生涯を伝えるコーナーになっていました。福々しい方で、84歳のときの録画だという夫を語るインタビューが流れていました。
カップヌードル記念館の目玉イベントは、「世界にたったひとつ、自分だけのカップヌードルを作れる」という催しです。
小中学校のこどもが学校行事として参加する場合は無料で、一般人は300円で参加できます。
私と娘息子は12時の回に参加。ヌードルのカップをじぶんの好きにデザインして、トッピングを4種類まで自由に選べる、という「自分だけのカップヌードル作り」
絵心ゼロの私のカップは、見事に「超まずそうなデザイン」になってしまいました。
選んだトッピングは、いんげん、肉、えび、かまぼこ。
朝ごはんは、万葉倶楽部のバイキングでお腹はちきれるまで食べたのに、お昼はお昼で食べるというので、4階のワールド麺ロードへ。アジアンテイストというか、戦後闇市的な雰囲気のランチコーナーです。
食べたことないものを、と、カザフスタンのラグマンという麺をチョイス。店の前の「ラグワンわ とってもおいしいをさしあげます」という微妙なアジアン日本語まで再現されている芸もなかなか。
アジアンテイストのトゥクトゥク。
体調十分でなく、テラスで海を眺めて休んでいたいという息子を残し、私と娘は「世界にひとつだけのわたしだけのチキンラーメン」作りに参加。ひとり500円。
娘と共同作業で粉にかん水を入れてこね、器械にかけて何度ものして、最後に細切り麺にしました。麺を油で揚げる作業は係員が行います。
面をいれる編み籠には、番号がついており、わたしのは2番。
揚がった麺を乾燥している間に、チキンラーメンのパッケージ作り。今度はおいしそうに見えるようにがんばったのですが、絵がへたであることは確定事項なので、、、、。
かぶっているひよこのバンダナと出来上がってラーメンはおみやげにもらえます。そのほか、娘はチキンラーメンパッケージ柄のハンドタオルやらコースターやらおみやげに買っていました。ラーメン作りが思った以上に楽しかったから、記念に、だって。
カップヌードル記念館の正式名称は、安藤百福発明記念館。コンセプトは、百福が工夫を重ねてチキンラーメンやカップヌードルを作った精神に学び、後進が創意工夫を続けていけるよう、百福の事績を伝える、というもの。
『まんぷく』の中で毎日画面に登場した「百福の研究小屋」が復元されていたので、のぞいてきました。テレビではもう少し広かったのは、撮影の都合でしょう。実際の小屋はテレビカメラ入れたら動けないほど狭かったので。
「20世紀21世紀の日本のすごい発明」というクイズ番組で、百福のカップ麺は堂々の一位になっていました。青色発光ダイオード、カラオケとか、味の素とか、いろいろある中、カップ麺が一位。いちばん身近なわかりやすい発明ということでしょうね。
魚群探知機とか、一般の人にはなじみがないし。
飯を炊く、麺をうってゆでる、などの毎日の調理。かっては「飯くわにゃならんから結婚した」という男性もいた社会でしたが、たしかにカップ麺をコンビニで買って帰ればとりあえずの腹ペコはおさまる。
百福さん、3人の妻との間に7人の子をなした人ですが、日本社会の「未婚のままでも生きていける」社会推進に貢献した、と言えるのかも。
娘息子が結婚しないのは、百福さんの発明あってこそ!
体調悪化の息子と息子を気遣う娘は先に帰宅することになったのですが、私は当初の予定通り、みなとみらい駅前の横浜美術館によることにしました。
ふたりは、家でカップ麺でも食べればいいから、心配しないことにして、、、、と思ったら、ふたりは、ちゃっかりレストランで食べて帰ったみたい。ほらね、母はなくとも、子は食べる。
<つづく>