20191026
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌(7)イランのナオミ
春庭の日本語教室だよりを再録しています。
~~~~~~~~~
2005/11/27 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>留学生それぞれの事情(3)イランのナオミ
「はじめての経験」を言う練習、「○○歳のとき、はじめて~」という文を作ったときのこと。
私が例に出した文。「私は30歳のとき、はじめて飛行機に乗りました」と、自分の体験を例文として出した。
インドネシアの離島で育った学生。
彼は、「私は10歳のとき、はじめて靴をはきました」と言った。
こどものころは、靴もなく、裸足ですごしていたと言う。
森の中を裸足で走り回った子ども時代。島に昆虫の調査に来た日本人生物学者を案内したことから、彼の運が開けた。
熱帯生物の研究所助手として長年働きながら、学校へ通わせて貰った。陰ひなたのない几帳面な仕事ぶりのごほうびに、日本の奨学金がもらえることになった。
大学院で一生懸命勉学を続け、きっと彼は母国でよい研究者になることだろう。
「25歳のとき、はじめて男性の手をにぎりました」という作文を書いたのは、イラン女性、ナオミ。
ナオミは私立大学の学部学生。日本語1級試験にすでに合格し、日本文学を専攻したいと願っている。
ナオミは、作文の中で、25歳をすぎて、はじめて男性の手を握ったときの気持ちを書いた。
桜吹雪の中を彼と手をつないで歩いた思い出をつづり、微妙な恋心を感性豊かな表現で描いていた。彼女は、日本語で小説を書くことをめざしている。
日本語の語彙的文法的まちがいはいくつかあったが、心打たれるとてもよい文章だった。
男女の恋愛についても、私たちには想像もできなくなっている様々なモラルが、世界には存在する。
未婚の彼女が男性と手をつないで歩いた、なんてことがわかったら、どれほど家族を悲しませるかと思うと、恋する思いと、家族への思いにゆれる。
厳格なしきたりを守るモスレム(イスラム教徒)の家庭では、いまだに結婚するその日まで、男性に顔も見せないという地域もあるし、日本に留学中もスカーフできっちり髪をかくしている女性も多い。
1980年から1988年までつづいたイランイラク戦争で、ナオミの一家は砲撃を受けた。父親が町で経営していた店が破壊され、一家は困窮した。
ナオミの故郷、冬は雪が降りつもる。それまでは自宅の雪かきは、人をやとってしていたが、その冬の雪かきは父親が自分でやるしかなかった。人をやとう余裕はもうなかったからだ。
ナオミは、ブーツに穴があいたことを父に言えなかった。言ったら父はどんな無理をしても新しいブーツを買ってくるだろう。父親に無理をさせるくらいなら、足底から伝わる冷たさを我慢しているほうがマシだった。ナミは一冬、足の冷たさとともにすごした。
彼女は必死に勉強し、あこがれの日本にやってきた。叔父が日本で商売をしていたからだ。
しかし、不景気が続き叔父の商売も傾いてしまった。
あてにしていた援助が受けられなくなったナミ、泣きながら「今年はなんとかなったけれど、来年の授業料が払えない。どうしたらいいの」と、相談してきた。
<つづく>
2005/11/28 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>留学生それぞれの事情(4)ナオミのアルバイト
ナオミは20歳のときイランから日本へやってきた。叔父さん一家の援助によって、日本語学校で日本語を習得した。
運良くペルシャ語通訳のアルバイトを見つけ、1年間のアルバイトで大学入学金を貯めた。ナおミは23歳でようやく大学に入学できた。
ペルシャ語の通訳や翻訳のアルバイトが打ち切りになったあと、次の仕事はみつからなかった。英語通訳の需要は多いが、ペルシャ語では通訳の機会も少ない。
しかし、中国や韓国の女子学生が気楽にやっているレストランやファストフードでのアルバイトは、彼女には抵抗がある。
イスラム教徒のなかでも戒律が厳しい宗派の彼女の一家。喫茶店やレストランであっても、接客する仕事につくと、家族親族が「結婚前の女性にふさわしい仕事ではない」と思うかも知れない。
家族は、彼女がもっとも大切にしている存在。家族を悲しませるようなことは、どんな小さなことも自分自身に許せない。
自分にできるアルバイトが見つからない状況で、彼女は「男なみの力仕事」をして働くことを選んだ。接客アルバイトより力仕事のほうが、彼女にとっては気楽だ。
夏休みに彼女がしたアルバイトは、家のリフォームの下働き。改築リフォームする前に、壁を壊したり、床をはがしたり、部屋を解体する力仕事。改築といっても、基礎土台を残して、ほとんどを取り壊す。新築というと、書類提出などが大変になるので、書類上は改築としておいて、ほとんどを新しくする。
ナオミは、力いっぱい家の壁をぶち抜き、梁をはずす。
「生まれてはじめて、こんなに力のいる仕事をしました」と、ナミは話してくれた。
男性並みの体力が必要な仕事、キツイキタナイキケンの三キの仕事だったが、現場監督から指示を受け、現場で夏休み一ヶ月がんばった。あまりにきつかったから、大学との両立は体力的に無理と思った。
夏休みの終わりに、とても楽で割のいいバイトがみつかった。古物リサイクル売買の店。
リサイクルは、環境にもよいことと思って働くことにした。仕事は、経理担当の事務。
同国人の社長から渡される伝票の数字を、帳面につけていけばいいだけ。でも、5日間働いてやめた。
1日目、とても楽で日給も高く、ありがたいと思った。2日目、社長はとてもいい人だと思うし、正直な商売をしているのだと信じた。けれど、3日目に店にやってきた客同士の話を聞いていて、こわくなった。
店のすみで帳面の計算をしていた彼女に気づかないで話しているらしかった。
ひそひそ声の客同士の会話は、同国人の中に裏社会があることを感じさせるものだった。
社長はよい人だと信じたい。だが、裏の世界の人と関わりがあるかどうか、自分には判断ができない。
疑っては悪いけれど、不法なことに関わるようなことが万が一にもあるなら、どんなに割のいいアルバイトでも、続けるわけにはいかない。
<つづく>
2005/11/29 火
ニッポニアニッポン語教師日誌>留学生それぞれの事情(5)日本へとつづく道
4日目は、一日中悩み、5日目にやめると、社長に言った。大学の後期授業が始まり、両立できそうもないと言って。
夏休みに「生まれてはじめての力仕事」で、汗をかき、夏休みの終わりには「生まれて初めて、こんなに悩んだ」という悩み事を抱えたけれど、9月には元気な顔で授業に出て、発表もこなした。
来年の授業料分が稼ぎ出せなければ、授業料未納で除籍になるかもしれない。
借りられる奨学金はもういくつか受けているが、毎月の生活ににも足りない程度の金額だから、授業料の分に足りはしない、という彼女に対して、「奨学金として授業料の分を、個人的に貸すから、卒業後働いて返したらいい」と、私も、学科長の教授も、申し出た。
しかし、ナオミは、「公的な奨学金を受けることは、家族も納得したので受けているけれど、個人的なお金は、借りるわけにはいかない」という。
どのような家族との約束があるのか知らないが、「個人からのお金はを受け取れない」という彼女に、それ以上のことはできない。貸与でなく、「給費」するほど、私にも余裕がない。
私の娘も育英会奨学金でやりくりして大学に通い、卒業後返還することになっているのだ。
某石油産出国からやってきたお金持ちのお嬢様留学生には、十分な国費奨学金が与えられたが、彼女は、日本語を覚える気がなかった。「ほんとは、アメリカにいきたかったのに」と不平を言いつつ、奨学金をおこずかいにしながら「日本の日々」を旅行三昧ですごした。
一方、日本語で小説を書き、「留学生文学賞」に応募したい、と張りきっているナオミは、来年の授業料のあてもない。
後期の授業のテーマは、「日本と自国の交流史」というクラスでの発表である。
ナオミは「ペルシャ帝国の文物--シルクロードと正倉院」という発表をした。
はるばるシルクロードを通って、ペルシャの楽器やガラスの器が運ばれ、飛鳥奈良時代の日本へたどり着いた。長い道のりと長い時の流れのなかをたどったペルシャ伝来の宝物が、正倉院に納められている。
ペルシャの姫君が美しい瑠璃のグラスでワインを飲み、そのグラスが日本へ伝えられて、飛鳥や奈良の皇子たちの酒宴の席で輝いたのかもしれない。
私費留学生のナオミが留学生活を続けられるかどうか、「日本文学を学びたい」という希望が達せられるかどうか、まだわからない。
これからも彼女の歩む道のりは、厳しくはるかだろう。
しかし、厳しくとも、道はローマからペルシャを通り、日本まで続いてきた。
道は開けていくよ。きっと。
<つづく>
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌(7)イランのナオミ
春庭の日本語教室だよりを再録しています。
~~~~~~~~~
2005/11/27 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>留学生それぞれの事情(3)イランのナオミ
「はじめての経験」を言う練習、「○○歳のとき、はじめて~」という文を作ったときのこと。
私が例に出した文。「私は30歳のとき、はじめて飛行機に乗りました」と、自分の体験を例文として出した。
インドネシアの離島で育った学生。
彼は、「私は10歳のとき、はじめて靴をはきました」と言った。
こどものころは、靴もなく、裸足ですごしていたと言う。
森の中を裸足で走り回った子ども時代。島に昆虫の調査に来た日本人生物学者を案内したことから、彼の運が開けた。
熱帯生物の研究所助手として長年働きながら、学校へ通わせて貰った。陰ひなたのない几帳面な仕事ぶりのごほうびに、日本の奨学金がもらえることになった。
大学院で一生懸命勉学を続け、きっと彼は母国でよい研究者になることだろう。
「25歳のとき、はじめて男性の手をにぎりました」という作文を書いたのは、イラン女性、ナオミ。
ナオミは私立大学の学部学生。日本語1級試験にすでに合格し、日本文学を専攻したいと願っている。
ナオミは、作文の中で、25歳をすぎて、はじめて男性の手を握ったときの気持ちを書いた。
桜吹雪の中を彼と手をつないで歩いた思い出をつづり、微妙な恋心を感性豊かな表現で描いていた。彼女は、日本語で小説を書くことをめざしている。
日本語の語彙的文法的まちがいはいくつかあったが、心打たれるとてもよい文章だった。
男女の恋愛についても、私たちには想像もできなくなっている様々なモラルが、世界には存在する。
未婚の彼女が男性と手をつないで歩いた、なんてことがわかったら、どれほど家族を悲しませるかと思うと、恋する思いと、家族への思いにゆれる。
厳格なしきたりを守るモスレム(イスラム教徒)の家庭では、いまだに結婚するその日まで、男性に顔も見せないという地域もあるし、日本に留学中もスカーフできっちり髪をかくしている女性も多い。
1980年から1988年までつづいたイランイラク戦争で、ナオミの一家は砲撃を受けた。父親が町で経営していた店が破壊され、一家は困窮した。
ナオミの故郷、冬は雪が降りつもる。それまでは自宅の雪かきは、人をやとってしていたが、その冬の雪かきは父親が自分でやるしかなかった。人をやとう余裕はもうなかったからだ。
ナオミは、ブーツに穴があいたことを父に言えなかった。言ったら父はどんな無理をしても新しいブーツを買ってくるだろう。父親に無理をさせるくらいなら、足底から伝わる冷たさを我慢しているほうがマシだった。ナミは一冬、足の冷たさとともにすごした。
彼女は必死に勉強し、あこがれの日本にやってきた。叔父が日本で商売をしていたからだ。
しかし、不景気が続き叔父の商売も傾いてしまった。
あてにしていた援助が受けられなくなったナミ、泣きながら「今年はなんとかなったけれど、来年の授業料が払えない。どうしたらいいの」と、相談してきた。
<つづく>
2005/11/28 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>留学生それぞれの事情(4)ナオミのアルバイト
ナオミは20歳のときイランから日本へやってきた。叔父さん一家の援助によって、日本語学校で日本語を習得した。
運良くペルシャ語通訳のアルバイトを見つけ、1年間のアルバイトで大学入学金を貯めた。ナおミは23歳でようやく大学に入学できた。
ペルシャ語の通訳や翻訳のアルバイトが打ち切りになったあと、次の仕事はみつからなかった。英語通訳の需要は多いが、ペルシャ語では通訳の機会も少ない。
しかし、中国や韓国の女子学生が気楽にやっているレストランやファストフードでのアルバイトは、彼女には抵抗がある。
イスラム教徒のなかでも戒律が厳しい宗派の彼女の一家。喫茶店やレストランであっても、接客する仕事につくと、家族親族が「結婚前の女性にふさわしい仕事ではない」と思うかも知れない。
家族は、彼女がもっとも大切にしている存在。家族を悲しませるようなことは、どんな小さなことも自分自身に許せない。
自分にできるアルバイトが見つからない状況で、彼女は「男なみの力仕事」をして働くことを選んだ。接客アルバイトより力仕事のほうが、彼女にとっては気楽だ。
夏休みに彼女がしたアルバイトは、家のリフォームの下働き。改築リフォームする前に、壁を壊したり、床をはがしたり、部屋を解体する力仕事。改築といっても、基礎土台を残して、ほとんどを取り壊す。新築というと、書類提出などが大変になるので、書類上は改築としておいて、ほとんどを新しくする。
ナオミは、力いっぱい家の壁をぶち抜き、梁をはずす。
「生まれてはじめて、こんなに力のいる仕事をしました」と、ナミは話してくれた。
男性並みの体力が必要な仕事、キツイキタナイキケンの三キの仕事だったが、現場監督から指示を受け、現場で夏休み一ヶ月がんばった。あまりにきつかったから、大学との両立は体力的に無理と思った。
夏休みの終わりに、とても楽で割のいいバイトがみつかった。古物リサイクル売買の店。
リサイクルは、環境にもよいことと思って働くことにした。仕事は、経理担当の事務。
同国人の社長から渡される伝票の数字を、帳面につけていけばいいだけ。でも、5日間働いてやめた。
1日目、とても楽で日給も高く、ありがたいと思った。2日目、社長はとてもいい人だと思うし、正直な商売をしているのだと信じた。けれど、3日目に店にやってきた客同士の話を聞いていて、こわくなった。
店のすみで帳面の計算をしていた彼女に気づかないで話しているらしかった。
ひそひそ声の客同士の会話は、同国人の中に裏社会があることを感じさせるものだった。
社長はよい人だと信じたい。だが、裏の世界の人と関わりがあるかどうか、自分には判断ができない。
疑っては悪いけれど、不法なことに関わるようなことが万が一にもあるなら、どんなに割のいいアルバイトでも、続けるわけにはいかない。
<つづく>
2005/11/29 火
ニッポニアニッポン語教師日誌>留学生それぞれの事情(5)日本へとつづく道
4日目は、一日中悩み、5日目にやめると、社長に言った。大学の後期授業が始まり、両立できそうもないと言って。
夏休みに「生まれてはじめての力仕事」で、汗をかき、夏休みの終わりには「生まれて初めて、こんなに悩んだ」という悩み事を抱えたけれど、9月には元気な顔で授業に出て、発表もこなした。
来年の授業料分が稼ぎ出せなければ、授業料未納で除籍になるかもしれない。
借りられる奨学金はもういくつか受けているが、毎月の生活ににも足りない程度の金額だから、授業料の分に足りはしない、という彼女に対して、「奨学金として授業料の分を、個人的に貸すから、卒業後働いて返したらいい」と、私も、学科長の教授も、申し出た。
しかし、ナオミは、「公的な奨学金を受けることは、家族も納得したので受けているけれど、個人的なお金は、借りるわけにはいかない」という。
どのような家族との約束があるのか知らないが、「個人からのお金はを受け取れない」という彼女に、それ以上のことはできない。貸与でなく、「給費」するほど、私にも余裕がない。
私の娘も育英会奨学金でやりくりして大学に通い、卒業後返還することになっているのだ。
某石油産出国からやってきたお金持ちのお嬢様留学生には、十分な国費奨学金が与えられたが、彼女は、日本語を覚える気がなかった。「ほんとは、アメリカにいきたかったのに」と不平を言いつつ、奨学金をおこずかいにしながら「日本の日々」を旅行三昧ですごした。
一方、日本語で小説を書き、「留学生文学賞」に応募したい、と張りきっているナオミは、来年の授業料のあてもない。
後期の授業のテーマは、「日本と自国の交流史」というクラスでの発表である。
ナオミは「ペルシャ帝国の文物--シルクロードと正倉院」という発表をした。
はるばるシルクロードを通って、ペルシャの楽器やガラスの器が運ばれ、飛鳥奈良時代の日本へたどり着いた。長い道のりと長い時の流れのなかをたどったペルシャ伝来の宝物が、正倉院に納められている。
ペルシャの姫君が美しい瑠璃のグラスでワインを飲み、そのグラスが日本へ伝えられて、飛鳥や奈良の皇子たちの酒宴の席で輝いたのかもしれない。
私費留学生のナオミが留学生活を続けられるかどうか、「日本文学を学びたい」という希望が達せられるかどうか、まだわからない。
これからも彼女の歩む道のりは、厳しくはるかだろう。
しかし、厳しくとも、道はローマからペルシャを通り、日本まで続いてきた。
道は開けていくよ。きっと。
<つづく>