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ぽかぽか春庭「ジョーカー」

2020-09-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200913
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>(3)ジョーカー

 トッド・フィリップス監督作品『ジョーカー』
 2019年秋の公開から、さまざまな論評が出ています。厳しい評価を出す人のなか「これじゃバットマンのスーパーヴィラン(超悪役)ジョーカーとしてふさわしくない」と感じた人がいたようです。もっと圧倒的な「悪」として描いてほしかった、など。

 私は、バットマンという「弱気を助け悪をくじく」ヒーローが活躍する話、アメリカンコミックスでもテレビドラマでも映画でも、一度も見たことがありませんでしたから、ジョーカーがどれほどの悪の化身かも知らなかった。映画の紹介に「バットマンの敵、ジョーカーのが誕生するまでの話」と出ていたので、そうか、バットマンの敵はジョーカーという名前なのか、と思った程度。

 そのため、単純に「なかなかの傑作映画」と思いました。むろん、主役ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスの演技は抜群でしたけれど、そのほか、アカデミー賞の作品賞監督賞脚色賞作曲賞など11部門ノミネートのうち、主演男優賞作曲賞のほかにもうちょっといけたんじゃないかな、と思ったのですが、パラサイトの快進撃があったので、分が悪かった。

 バットマンの物語の中で、ジョーカーの出自について「ジョーカーは、バットマンから逃げる途中に化学薬品の溶液に落ち、白い肌、赤い唇、緑の髪、裂けて常に笑みを湛えた口となった」という「ジョーカーオリジン譚」があり、いくつかの映画はこのオリジンを採用しています。しかし、トッド監督はこの説を採用していません。「少年ブルースの目の前で両親が射殺された」というバットマン(ブルース・ウェイン)の幼少期の出来事も、だれの犯行であるかもわからない。

 「ジョーカー自身記憶が混濁し、どの過去が正しいのか分からず、本人も分かろうとする気もない」と説明されているし、トッド監督の作ったジョーカーがバッドマンの敵のジョーカーとは明言されていない。
 私は、トッド映画のジョーカーはバットマンのジョーカーではない、という説に一票。
 以下、ラストまでのネタバレを含むあらすじ&感想です。 

 清掃局ストライキのためゴミだらけ鼠だらけになっているゴーサムシティ。貧富の格差はひどくなる一方。市長に立候補しようとしている富豪マーク・ウエインと対照的に、貧民街のボロアパートに住むアーサー・フレック。日雇いのピエロとして日銭を稼ぎ、認知症寝たきりの母を介護している。スタンダップコメディアンになるという夢を持っているが、才能があるとは思えない。感情が高ぶると突然ヒステリックに笑い続けるという精神疾患を持ち、市の補助金によるカウンセリングと投薬を受けている。

 荒れた市内で不良たちに襲われ、護身用として持たされた拳銃を子ども病院でのパフォーマンス中に落としたことで、唯一の仕事であったピエロ役も首になる。地下鉄の中で打ちひしがれているアーサーの前で、ウエイン社の社員3人が若い女性に絡み、止めようとしたアーサーも暴行を受ける。アーサーは2人を撃ち、残りのひとりも追い詰めて撃つ。

 若いころウエイン邸のメードをしていた母は、マーク・ウエインに手紙を出し続け、彼からの救護を望んでいる。アーサーは、母の病状を追求するうち、母と自分の事実にたどり着く。母には妄想癖があり、マーク・ウエインの子を宿した、と妄想していたために病院に入れられた。退院後もらい受けた養子アーサーが、母の同居の男に虐待を受けても放置していた。放置の理由は「何をされても笑っていて幸福そうだったから」。突然笑い声が止まらなくなる疾患も、虐待が原因だった。
 母は、大人になったアーサーをずっと「ハッピー」と呼ぶことにしている。

 アーサーのあこがれるコメディアン、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が司会を務める番組に「さらし者・笑いもの」にされるためにゲストとして呼ばれる。アーサーは、自分をばかにするマレーを射殺。
 市内では、地下鉄殺人事件は「格差社会のもとで起きた事件」として下層市民の蜂起を呼び起こし、街はパニックになる。アーサーは、パニック状態の町のなかで、ジョーカーとして踊る。

 一転。精神病院でカウンセリングを受けているアーサー。
 ギャグを書き留めたノートを見せるようにカウンセラーに言われたアーサーは、「私のジョークは、あなたにはわからない」とつぶやく。部屋を出ていくアーサーの足跡は、真っ赤。血なのか。廊下の奥でに看護人に捕まるまいと逃げ回るアーサー。

 描かれた出来事の中、アーサーの妄想であることが明示されているのは、同じアパートに住むシングルマザーソフィとデートするシーンのみで、あとはアーサーの妄想なのか事実なのか判然としません。
 監督インタビューで「最後のシーンの笑いだけが、アーサーの心から出た笑い」と述べているところから、このラストの病院カウンセリングシーン、病院シーンだけが事実で、あとは、アーサーがカウンセラーに話した妄想なのかとも考えられます。そして、その妄想は、「みなが狂っている社会」のなかでは真実なのかもしれません。

 ほとんどがアーサーの視点で描かれています。アーサーが写っていないとしても、そのシーンにいることがわかる。しかし、唯一、アーサーが存在しないシーンがあります。マーク・ウエイン夫妻が少年ブルースの目の前で殺されるシーン。ウエイン一家が、パニックになっている市街の暴動から逃れて路地に入ってしまったとき、アーサーはいっしょにいません。このとき殺人容疑者として警察官に連行されており、パトカーにいるからです。暴徒が警官を殺し、パトカーから出されてパニックの町のヒーローとして恍惚として踊っている。

 ウエイン夫妻の殺害者がバットマンの敵になるということではないのですから、ウエイン殺害現場にアーサーがいなくてもいいと思いますが、このシーンにだけアーサーが存在していないことはのちのちの意味付けに大きいかも。
 少年ブルースとアーサーのかかわりは、アーサーの妄想の中では「母違いの兄弟かと思ったけれど、書類の上では否定されている」という関係。年齢差は20歳ほどもあり、後年、同世代の敵同士として戦い合うには、アーサーがもうちょっと若くないと、ジョーカーはバットマンに太刀打ちできない。

 以上、バットマンをヒーローとして憧れてこなかった者から見ると。
 貧富格差の中で虐げられ続けた弱者が、一発逆転の「弱者のヒーロー」としてよみがえることを夢見た壮大なジョーク、スタンダップコメディアンとしては花開くことない才能の持ち主によるジョーク。アーサーが言うように「あなたにはこのジョークはわからないさ」

 自らの弱点、ちびデブブスハゲなどを自虐し、笑いをとることで成立しているのが漫才や漫談のひとつの型であるとして、壮大な自虐自分語りを見たと思う映画でした。
 この自虐が神の領域まで行くと。
 虐げられ続けた民衆が自分たちに寄り添ってくれた大工の息子を神の子としてあがめるところまでいくだろうに、アーサーは、州立病院の中で看護人に捕まるまいと、ドタバタコメディのように逃げ回ってthe end。

<つづく>
コメント (2)
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