20200926
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた<再録千の風になって(2)引用ルール・祝婚歌と千の風その2
「引用とインスパイア」再録の2回目です。
~~~~~~~~~~~~~~
(承前)
2008/10/03
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>著作権と翻訳とインスパイア(3)悲しみは雪のように
春庭は、「商業利用でない個人サイト、ブログなどに掲載するのは、引用の範囲のこととして許されるべきだ」と考えています。 好きな歌手の歌を、ブログに引用したとき、「著作権料払え」というより、「ネットで宣伝してもらっている」くらいの気持ちになってくれるとうれしいのですが。
新井満さんのページには、先に記した注意書きがありますので、Jasracが「金払え」と、言ってきたときは、新井満訳詞は削除します。
人口に膾炙した詩、民謡のように歌い継がれる曲、世界の宝物のような歌は、「万人のために存在する」という考え方は、ゆるされないでしょうか。
合唱曲に使われた吉野弘の詩のなかで、『雪の日』にという作品があります。(高田三郎作曲)
この曲に「インスパイア」された浜田省吾は『悲しみは雪のように』という曲を書き上げました。
浜田省吾は、「CLUB SNOWBOUND」(1985年)というアルバムに、インスパイアを受けた「雪の日に」の全文を掲載しています。
浜田が、掲載許可をもとめて、吉野弘あてに手紙を書いたところ、直筆の許可返信をもらったそうです。
You Tubeより 浜田省吾「悲しみは雪のように」
http://www.youtube.com/watch?v=lmYPM-CaZeU
浜田にインスパイアを与えた、吉野弘の詩、『雪の日に』
吉野弘 作
━━誠実でありたい。
そんなねがいを
どこから手にいれた。
それは すでに
欺くことでしかないのに。
それが突然わかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。
雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけねばならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。
誠実が 誠実を
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手には負えなくなってしまったかの
ように
雪は今日も降っている。
雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。
=============
吉野の詩にインスパイアされて、浜田省吾があらたに詩を書き、作曲する。
浜田の曲をきいたリスナーは、アルバムの中に転載された吉野の『雪の日に』を読む。 吉野のほかの詩も読んでみようかな、という気持ちになる。
作品が、このように心に響きあい、あらたな作品を生みだしていく。これが「インスパイア」の喜びだろうと、思います。
「オレの詩をサイトに掲載するなら金を払え」と要求して、いくらのお金が入ってくるのかわかりませんけれど、自分の詩に触発されて新しい歌を作った歌手のアルバムに、「自由に詩を引用していいですよ」と返信を与える老詩人の気骨と優しさこそ、真の詩人の魂だと感じ入りました。
<つづく>
2008/10/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>千の風になって(1)わたしは実りの穂を照らす
2007,2008年、今後の「日本葬送文化史」にとって、画期的となるかもしれない歌が全国に流れました。
なぜ、画期的な歌なのかというと。
これまで「石のお墓を建てる必要はない」と思っていても「残された家族のため」とか「墓を守るのが家族の使命」というしがらみによって言い出せなかったことを、堂々と言い出せるようになった。
もともと、日本の墓制度は、家ごと一族ごとの墓を作らない人々のほうが多数派でした。 寺に檀家制度をつくり、家ごとの墓を作らせるようになったのは、江戸幕府の政策によります。領民を管理する方法として、寺と墓を利用したのです。
平安鎌倉から室町期にかけて、「野辺おくり」とは、文字通り山や野辺に一定の「死者のための地域」を設け、そこにただ亡骸を埋める、それが「野辺おくり」でした。家族ごとの地域など決まっていません。
たとえば、京都の人だったら、鳥辺野(とりべの)に亡骸を運び、鳥辺野のどこでも、埋めておわり。
鳥辺野は、現在の京都東山区南部。阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野にいたる丘陵地。鳥辺山のふもと一帯は、平安期から墓地、葬送の地として知られてきました。
一般の人が家族の死者をひとところに埋葬し、石で墓のありかを示したりするようになったのは、江戸幕府の政策に従ったからです。
江戸270年プラス明治からの130年。合計400年の「家族墓制度」は、今や誰も疑いもしない形式になっています。
「家の墓を守る」とは、私の世代の結婚のさいも、強力な「シバリ」になっていました。 家の墓を守らねばならないから、よそにヨメに出すわけにはいかぬ、婿を取るのでなければ、結婚させない、などと言う親に逆らえず、好きな人との結婚をあきらめたという話をあちこちで聞いたものです。
「家の墓」といったところで、たかだか400年ほど続いただけ、天皇家の古墳や陵墓だって、せいぜい1500年くらいのもの。人類数百万年現生人類五万年の時間の流れに比べれば、たいした時間じゃありません。
「自分のための墓を建てなくてもよい」と、心の中で思っていた人が、それを主張できる「社会的風潮」が、ひとつの歌によって主張しやすい流れができました。
その歌の日本語のタイトルは「千の風になって」
『千の風になって』の原作者は、アメリカ、メリーランド州ボルティモアの主婦メアリー・E・フライ(Mary Elizabeth Frye)である」という説が有力ですが、確証はありません。
もとの詩は「無題ノンタイトル」でした。
アメリカで作者不詳のまま広まり、2006年末2007年末の2度、紅白歌合戦で秋川雅史が歌いました。
<つづく>
2008/10/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>千の風になって(2)私はやさしい秋の雨
メアリーの原詩は、現在流布している詩ともまた少し違うところがあります。 おそらく原詩がいろんな人に伝えられるうちに少しずつ形をかえ、今のようなものになった、正真正銘の「詠み人知らず」の歌と思っていいのでしょう。
前シリーズ「著作権と翻訳とインスパイア」に引用した新井満翻訳は、原詩の雰囲気を生かしてはいるけれど、日本語としてなめらかで歌いやすいように「超訳」になっています
「千の風」、春庭拙訳を出します。
春庭訳は、原作にかなり忠実に翻訳したつもりなので、歌うには不向きですが、原作の意味はくみ取れると思います。
Do not stand at my grave and weep, 私のお墓の前に立たないで、そして泣かないで
I am not there; I do not sleep. 私はそこにはいません、眠ってはいません。
I am a thousand winds that blow, 私はそよそよとそよぐ千の風となっています
I am the diamond glints on snow, 私は雪の上で、ダイヤのようにきらめいています
I am the sun on ripened grain, 私は実った穂の上を照らすお日様になっています
I am the gentle autumn rain. 私はやさしい秋の雨にもなります
When you awaken in the morning's hush あなたが朝の静寂の中で目覚めるとき
I am the swift uplifting rush 寡黙な小鳥たちがまあるく飛ぶ中で、私はすばやく高らかに
Of quiet birds in circling flight. あなたを起こしてあげましょう
I am the soft starlight at night. 夜にはやわらかな星のひかりにもなりましょう
Do not stand at my grave and cry, 私のお墓の前に立たないで、そして泣かないで
I am not there; I did not die. 私はそこにいません、死んでなどいないのです
英語の翻訳詩が、これほど広く日本人に受け入れられたこと、「洋モノ受容史」にとって、画期的なことだったと思います。
日本と韓国の交流史において、国交回復後も長い間庶民レベルの交流には、「わだかまり」があったのに、「冬のソナタ」の「ヨンさまのほほえみ」が一気に「しこり」をほぐした、という現象がおこりました。
政治家や文化人がどれだけ「両国の絆」などと声高に主張してもできなかったことを、冬ソナひとつが、柔らかで温かい交流をもたらした。
それと同じことを「千の風」がなしとげた。
「死後、墓石を必要としない人」は、これまでは隠れキリシタンのようにひっそりと「散骨葬」などを行ってきました。
この『千の風になって』の歌から、しだいに、「自由な見送り」が広がるのではないか、と思います。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた<再録千の風になって(2)引用ルール・祝婚歌と千の風その2
「引用とインスパイア」再録の2回目です。
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(承前)
2008/10/03
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>著作権と翻訳とインスパイア(3)悲しみは雪のように
春庭は、「商業利用でない個人サイト、ブログなどに掲載するのは、引用の範囲のこととして許されるべきだ」と考えています。 好きな歌手の歌を、ブログに引用したとき、「著作権料払え」というより、「ネットで宣伝してもらっている」くらいの気持ちになってくれるとうれしいのですが。
新井満さんのページには、先に記した注意書きがありますので、Jasracが「金払え」と、言ってきたときは、新井満訳詞は削除します。
人口に膾炙した詩、民謡のように歌い継がれる曲、世界の宝物のような歌は、「万人のために存在する」という考え方は、ゆるされないでしょうか。
合唱曲に使われた吉野弘の詩のなかで、『雪の日』にという作品があります。(高田三郎作曲)
この曲に「インスパイア」された浜田省吾は『悲しみは雪のように』という曲を書き上げました。
浜田省吾は、「CLUB SNOWBOUND」(1985年)というアルバムに、インスパイアを受けた「雪の日に」の全文を掲載しています。
浜田が、掲載許可をもとめて、吉野弘あてに手紙を書いたところ、直筆の許可返信をもらったそうです。
You Tubeより 浜田省吾「悲しみは雪のように」
http://www.youtube.com/watch?v=lmYPM-CaZeU
浜田にインスパイアを与えた、吉野弘の詩、『雪の日に』
吉野弘 作
━━誠実でありたい。
そんなねがいを
どこから手にいれた。
それは すでに
欺くことでしかないのに。
それが突然わかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。
雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけねばならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。
誠実が 誠実を
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手には負えなくなってしまったかの
ように
雪は今日も降っている。
雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。
=============
吉野の詩にインスパイアされて、浜田省吾があらたに詩を書き、作曲する。
浜田の曲をきいたリスナーは、アルバムの中に転載された吉野の『雪の日に』を読む。 吉野のほかの詩も読んでみようかな、という気持ちになる。
作品が、このように心に響きあい、あらたな作品を生みだしていく。これが「インスパイア」の喜びだろうと、思います。
「オレの詩をサイトに掲載するなら金を払え」と要求して、いくらのお金が入ってくるのかわかりませんけれど、自分の詩に触発されて新しい歌を作った歌手のアルバムに、「自由に詩を引用していいですよ」と返信を与える老詩人の気骨と優しさこそ、真の詩人の魂だと感じ入りました。
<つづく>
2008/10/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>千の風になって(1)わたしは実りの穂を照らす
2007,2008年、今後の「日本葬送文化史」にとって、画期的となるかもしれない歌が全国に流れました。
なぜ、画期的な歌なのかというと。
これまで「石のお墓を建てる必要はない」と思っていても「残された家族のため」とか「墓を守るのが家族の使命」というしがらみによって言い出せなかったことを、堂々と言い出せるようになった。
もともと、日本の墓制度は、家ごと一族ごとの墓を作らない人々のほうが多数派でした。 寺に檀家制度をつくり、家ごとの墓を作らせるようになったのは、江戸幕府の政策によります。領民を管理する方法として、寺と墓を利用したのです。
平安鎌倉から室町期にかけて、「野辺おくり」とは、文字通り山や野辺に一定の「死者のための地域」を設け、そこにただ亡骸を埋める、それが「野辺おくり」でした。家族ごとの地域など決まっていません。
たとえば、京都の人だったら、鳥辺野(とりべの)に亡骸を運び、鳥辺野のどこでも、埋めておわり。
鳥辺野は、現在の京都東山区南部。阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野にいたる丘陵地。鳥辺山のふもと一帯は、平安期から墓地、葬送の地として知られてきました。
一般の人が家族の死者をひとところに埋葬し、石で墓のありかを示したりするようになったのは、江戸幕府の政策に従ったからです。
江戸270年プラス明治からの130年。合計400年の「家族墓制度」は、今や誰も疑いもしない形式になっています。
「家の墓を守る」とは、私の世代の結婚のさいも、強力な「シバリ」になっていました。 家の墓を守らねばならないから、よそにヨメに出すわけにはいかぬ、婿を取るのでなければ、結婚させない、などと言う親に逆らえず、好きな人との結婚をあきらめたという話をあちこちで聞いたものです。
「家の墓」といったところで、たかだか400年ほど続いただけ、天皇家の古墳や陵墓だって、せいぜい1500年くらいのもの。人類数百万年現生人類五万年の時間の流れに比べれば、たいした時間じゃありません。
「自分のための墓を建てなくてもよい」と、心の中で思っていた人が、それを主張できる「社会的風潮」が、ひとつの歌によって主張しやすい流れができました。
その歌の日本語のタイトルは「千の風になって」
『千の風になって』の原作者は、アメリカ、メリーランド州ボルティモアの主婦メアリー・E・フライ(Mary Elizabeth Frye)である」という説が有力ですが、確証はありません。
もとの詩は「無題ノンタイトル」でした。
アメリカで作者不詳のまま広まり、2006年末2007年末の2度、紅白歌合戦で秋川雅史が歌いました。
<つづく>
2008/10/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>千の風になって(2)私はやさしい秋の雨
メアリーの原詩は、現在流布している詩ともまた少し違うところがあります。 おそらく原詩がいろんな人に伝えられるうちに少しずつ形をかえ、今のようなものになった、正真正銘の「詠み人知らず」の歌と思っていいのでしょう。
前シリーズ「著作権と翻訳とインスパイア」に引用した新井満翻訳は、原詩の雰囲気を生かしてはいるけれど、日本語としてなめらかで歌いやすいように「超訳」になっています
「千の風」、春庭拙訳を出します。
春庭訳は、原作にかなり忠実に翻訳したつもりなので、歌うには不向きですが、原作の意味はくみ取れると思います。
Do not stand at my grave and weep, 私のお墓の前に立たないで、そして泣かないで
I am not there; I do not sleep. 私はそこにはいません、眠ってはいません。
I am a thousand winds that blow, 私はそよそよとそよぐ千の風となっています
I am the diamond glints on snow, 私は雪の上で、ダイヤのようにきらめいています
I am the sun on ripened grain, 私は実った穂の上を照らすお日様になっています
I am the gentle autumn rain. 私はやさしい秋の雨にもなります
When you awaken in the morning's hush あなたが朝の静寂の中で目覚めるとき
I am the swift uplifting rush 寡黙な小鳥たちがまあるく飛ぶ中で、私はすばやく高らかに
Of quiet birds in circling flight. あなたを起こしてあげましょう
I am the soft starlight at night. 夜にはやわらかな星のひかりにもなりましょう
Do not stand at my grave and cry, 私のお墓の前に立たないで、そして泣かないで
I am not there; I did not die. 私はそこにいません、死んでなどいないのです
英語の翻訳詩が、これほど広く日本人に受け入れられたこと、「洋モノ受容史」にとって、画期的なことだったと思います。
日本と韓国の交流史において、国交回復後も長い間庶民レベルの交流には、「わだかまり」があったのに、「冬のソナタ」の「ヨンさまのほほえみ」が一気に「しこり」をほぐした、という現象がおこりました。
政治家や文化人がどれだけ「両国の絆」などと声高に主張してもできなかったことを、冬ソナひとつが、柔らかで温かい交流をもたらした。
それと同じことを「千の風」がなしとげた。
「死後、墓石を必要としない人」は、これまでは隠れキリシタンのようにひっそりと「散骨葬」などを行ってきました。
この『千の風になって』の歌から、しだいに、「自由な見送り」が広がるのではないか、と思います。
<つづく>