
20220625
ぽかぽか春庭アート散歩>2022アート散歩(4)吉阪隆正展 in 東京現代美術館
ミーハー春庭は、アートのなかでも建築や工芸方面のアンテナが弱いです。
3月から開催されていた「吉阪隆正展」も、会場が現代美術館であったし、建築への感受性が弱かったために、「目には入れど見ておらず」の状態でした。
会期:2022年3月19日(土)-6月19日(日)
「こりゃ、見ておかなくちゃ」と思ったのは、私の好きな芸能人ゴシップニュース欄を見てのこと。
鈴木京香が「都内一等地に建つ有名建築家の歴史的遺産と呼ばれる邸宅を購入した」という話題が、ネットニュース欄に出ました。
鈴木京香談話「ヴィラ・クゥクゥをご縁あって引き取らせていただき、竣工当時の姿にできるだけ戻すよう、修復工事を進めている最中です」 2021年5月に入手した「ヴィラ・クゥクゥ」と呼ばれる旧近藤等邸は、一時は解体の可能性さえあったそうです。
鈴木京香が購入保全に協力することにより取り壊しを免れ、建築当初の姿で現在地(渋谷区西原)の60坪の土地に存続するということです。
ヴィラ・クゥクゥは、吉阪隆正(1917-1980)が設計し1957年に建てられた個人住宅です。
吉阪は、西洋美術館が世界遺産になったことで知られるスイス出身の建築家ル・コルビュジエの弟子で、近代建築(モダニズム)を日本に広めた建築家のひとりです。
クゥクゥというのは、フランス語の郭公のことで、近藤夫人の呼び名であったそう。近藤等(1921-2015)は、フランス文学者、登山家、早稲田大学名誉教授。登山家としても活躍した吉阪隆正とは、山仲間であったことからの設計依頼でしょう。
鈴木京香が現代美術館の吉阪隆正展を観覧した、というニュースも写真とともにネットに出ていました。
鈴木京香の「お目が高い」のもあったでしょうが、ヴィラ・クゥクゥの購入を決めたのは、事実婚のパートナー長谷川博己の希望でもあったと思います。私は、芸能人のくっついた切れたのゴシップが好きなので、二人が事実婚としてパートナーであることは知っていましたが、長谷川博己の父が著名な建築評論家であったこと、ヴィラ・クゥクゥの話題が出るまで知りませんでした。「まんぷく」とか「デート」とか、長谷川博己出演のドラマけっこう見てきたのに。
長谷川堯は、大学時代の卒業論文でル・コルビュジエについて書いたといいます。また大学教授になってからも講義で、ル・コルビュジエを取り上げることがありました。ル・コルビジェが弟子吉阪隆正にどのような影響をあたえたかについても、きっと論文が執筆されていることと思います。
吉阪隆正展 会期3月19日-6月19日『ひげから地球へ、パノラみる』
現代美術館の口上
吉阪隆正は戦後復興期から1980年まで活躍した建築家です。「考現学」の創始者として知られる今和次郎や近代建築の巨匠ル・コルビュジエに師事し、人工土地※の上に住む住宅《吉阪自邸》、文部大臣芸術選奨(美術)を受賞した《ヴェネチア・ビエンナーレ日本館》、日本建築学会賞を受賞した《アテネ・フランセ》、東京都選定歴史的建造物に指定された《大学セミナー・ハウス 本館》などを手掛け、コンクリートによる彫塑的な造形を持った独特の建築で知られています。
“建築というものは、世界で相互理解するための一つの手がかりではないだろうか”―吉阪隆正の講演より
“建築というものは、世界で相互理解するための一つの手がかりではないだろうか”―吉阪隆正の講演より
一方で、建築だけにはおさまらない領域横断的な活動に取り組み、地球を駆け巡ったその行動力から、建築界随一のコスモポリタンと評されてきました。本展サブタイトル「ひげから地球へ、パノラみる」は、吉阪による造語を組み合わせたものであり、地域や時代を超えて見渡すことなどを意味する“パノラみる”と、自身の表象であり等身大のスケールとしての“ひげ”、そして個から地球規模への活動の広がり、という意味を込めました。本展は吉阪隆正の活動の全体像にふれる公立美術館では初の展覧会となります。
吉阪の建築は、戦後の焼け跡に自らの住まいとして建てたバラック住宅から始まりました。以降、個人住宅や学校・市役所といった公共建築、極地での生活を考えた山岳建築、地域計画にまで発展。そのスケールを等身大から地球規模へ拡大していきました。これらの建築の仕事は一人で行っていたわけではありません。設計アトリエであるU研究室(’63年に吉阪研究室から改称)を創設し、「不連続統一体(DISCONTINUOUS UNITY)」の考え方に集まった所員や、教鞭を執った大学院の学生らと共にディスカッションをしながら集団で建築を作り上げていきました。本展では30の建築とプロジェクトを紹介し、建築によって吉阪が目指したものとは何か、社会へのメッセージを紐解きます。その中でも地域計画のプロジェクト展示は初めてとなります。
吉阪隆正作品で私が知っていた建物は、日仏会館と八王子に建つ「大学セミナーハウス」だけでしたが、今回吉阪の幅広い活動を俯瞰することができました。
展示の一点を接写することは禁止ですが、展示の部屋全体を撮影することはフラッシュ禁止のほかは自由でした。
私の予想では、建築作品の図面などが多いのかと思っていましたが、思った以上に多彩な展示でした。
吉阪隆正 略年譜
1917年東京生まれ。’33年ジュネーヴ・エコール・アンテルナショナル卒業。’41年早稲田大学建築学科卒業。今和次郎に師事し、農村や民家の調査に参加。「生活学」や「住居学」の研究を行う。’50年に戦後第1回フランス政府給付留学生として渡仏し、ル・コルビュジエのアトリエに2年間勤務。設計実務に携わり、ドミノシステムの実践やモデュロールの理論など、モダニズム建築の流儀を現場で学ぶ。
’54年早稲田大学助教授、’59年に教授となる。’54年には設計アトリエである吉阪研究室(後にU研究室に改称)を設立し、本格的な建築設計を開始する。《吉阪自邸》(1955)、《浦邸》(1956)、《ヴェネチア・ビエンナーレ日本館》(1956)、《江津市庁舎》(1962)、《アテネ・フランセ》(1962)、《大学セミナー・ハウス》(1965-)などが代表作となる。世界各国の大学や会議に招聘されるなど国際的に活躍する一方、’70年には《21世紀の日本列島像》で内閣府総合賞を受賞するなど、新しい社会や環境、未来へ向けた集住とすがたを提言した。
「住居学汎論」「ある住居」「生活とかたち―有形学」など多数の著作があり、師であるコルビュジエの著作も数多く翻訳、日本での普及に努めた。山岳建築や地域計画を手がけ、「人間―環境」の往還を強く意識し、環境や地形、気候に抗わない設計を行なうなど、ポストモダニズムを超越した建築思想に回帰した。
’60年フランス学術文化勲章受章。日本建築学会会長、日本生活学会会長、日本山岳会理事、日本雪氷学会理事などを歴任。冒険家・アルピニストとしては’57年早稲田大学赤道アフリカ横断遠征隊を指揮し、キリマンジャロ登頂では女性隊員の登坂の歴史を開く。’60年早大アラスカ・マッキンレー遠征隊では隊長を務め、ヒマラヤK2遠征隊も組織した。
吉阪は召集令状を受け、応召。兵役の合間に、日記帳に自身の「生涯の仕事への決意」を書き留めています。展示を文字に起こしたものなので、改行が異なっています。


写真版のノートから、春庭筆写。間違っているところあったらご容赦。
「一生かかってやりたい仕事、否、一生で足りなければ子に受け継いでもやりたい仕事、それは何か。
世界中の人間がお互いに相手の異なった立場を理解し合へる様な状態に結びつけることである。
その時ほんとの平和が到り、人類は幸福に天極を地上に招くことが出来る。
その手段は頭のうちに地球の縮図を懐き得、且つ各地点の中心にそこの世界に自分を見出し得るような精神状態にあらしめることである。
自分前後左右の世界ほど親しいものはない。
別離の哀情けもそれに基づく。しからば世界中のどこをも自分の前後左右に感じ得られるとしたら、世界中は自分としたしいものである。
親しいとはいはずとして理解することである。
理解するところに争が生じ得られようか。」
招集された若い兵士が、夜のつかの間の自由時間に書き留めたであろう「一生かかってやりたい仕事」の、なんと清冽で凛とした決意表明であろうか。あしたは戦地で死ぬかもしれぬ身の、真実の叫び。
この従軍中の手帳に書き留めたことばを、吉阪はやり切ったと感じます。
実に多彩な仕事を成し遂げました。
吉阪はメビウスの輪に思いを寄せていました。メビウスの輪は、表も裏もなく、表がいつのまにか裏になり、裏が表になる不思議な輪っかです。上も下もない。吉阪が「世界中のどこをも自分の前後左右に感じ得られる」と書いている世界の形のひとつかもしれません。

吉阪邸の模型と、吉阪の写真、吉阪邸玄関に飾られていた虎(?)

吉阪邸入り口の虎とともに。

ポスターの建物は八王子の大学セミナー。

こののち、ヴィラクゥークゥーが鈴木長谷川邸として、長く受け継がれていきますように。
<おわり>