20230917
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩玄鳥去る(1)細川護立が愛した画家たち in 永青文庫
永青文庫は「ぐるっとパス」で入れるので、ときどき訪れます。熊本のお殿様細川護立侯爵が設立した永青文庫は、武家や茶道に関わる「武家の美」展示が多かったのですが、今回は珍しく洋画です。
永青文庫の口上
永青文庫の設立者・細川護立(もりたつ)(1883~1970)は、白隠(はくいん)・仙厓(せんがい)などの禅画、刀剣、近代絵画、東洋美術などを幅広く蒐集し、「美術の殿様」とも呼ばれました。本展で久しぶりに公開するポール・セザンヌ(1839~1906)の水彩画「登り道」は、文芸雑誌『白樺(しらかば)』に掲載されたのち、大正15年(1926)にヨーロッパ滞在中の護立がパリで自ら購入した思い出の作品です。1874年の第1回印象派展以前に描かれたセザンヌの初期作であり、日本にもたらされた最初期のセザンヌと考えられています。この「登り道」について、護立は後に「私がもっとも大切にしているもの」と語っています。
また護立は、学習院の同級生であった武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ)(1885~1976)らとの交友から『白樺』の活動を支援するほか、梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)(1888~1986)や安井曾太郎(やすいそうたろう)(1888~1955)など同時代の芸術家とも親交を結びました。永青文庫に残る書簡や逸話からは、彼らの親密な交友が見て取れます。本展では、そうした芸術家との交流によって細川家に集った洋画を中心に、永青文庫の近代絵画コレクションの一面をご紹介します。
また護立は、学習院の同級生であった武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ)(1885~1976)らとの交友から『白樺』の活動を支援するほか、梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)(1888~1986)や安井曾太郎(やすいそうたろう)(1888~1955)など同時代の芸術家とも親交を結びました。永青文庫に残る書簡や逸話からは、彼らの親密な交友が見て取れます。本展では、そうした芸術家との交流によって細川家に集った洋画を中心に、永青文庫の近代絵画コレクションの一面をご紹介します。
会期:2023年7月29日(土)~9月24日(日)
セザンヌ「上り道」1867
ドニ「トレストリニュルの水浴」1920
キスリング「赤いテーブルの上の果物」1944
ピカソ「生物」1944
細川のお殿様は、画家や文学者との交流を楽しみ、好きな絵の収集を楽しんだことがわかります。
細川幽斎からえんえんと遺伝子をつないで、元首相の陶芸にまできているのかと思うと、金持ちの上に才能を持った一族にまたまた貧乏かつ才なきもののやっかみがつのりそうでしたが、収集したゲージュツをのんびり見せていただいたことに感謝しつつ、観覧客もほとんどいない展示室でゆっくりすごしました。
いつもの金ある者才ある者へのひがみやっかみが少なかったのは、来るときの電車の中で、司馬遼太郎の『護貞さんの話』を読んでいたからかもしれません。司馬さんは護貞のお人柄に魅せられた。細川護貞は、護立の息子。華族だの元何々だかの肩書を嫌っていた司馬遼太郎ですが、若手作家だった司馬さんが熊本へ講演の仕事で赴いたときのこと。熊本を案内してくれたのが講演主催者の熊本県職員などでなく、元のお殿様護貞さんがつきっきりで案内し、いろいろなお話をしてくださったこと、そのお人柄に魅せられたことを書いている。また、お話の内容が、戦国大名の中で特に好きな細川幽斎三斎親子のことだったことに感激していました。司馬は小説に書く時、客観的な視線で登場人物を描きますが、どうしても好き嫌いはあります。このエッセイによって、司馬遼太郎の細川びいき、細川家に流れるガラシャお玉への好印象がうかがえました。明治以後は鍋島が入ったり近衛が入ったりした細川家ですが、それでも直系が続いてきたので、ガラシャの血筋であることは間違いない。
観覧客が少ないのも道理。絵を見終わって玄関から外にでると、どしゃぶりになっていました。皆、外に出たくない天気予報だったのでしょう。私は、8月17日で終わってしまうぐるっとパスを無駄にしたくなくて、天気予報関係なく出てきたのでした。
来るときは江戸川橋から目白行きのバスに乗り、椿山荘前で降りて下り道を歩きました。同じ道を戻るなら、こんどは上り道です。こんな雨の中、上り道もしんどいと思って、神田川へ向かって下る細川庭園の細道をそろそろと降りていきました。
神田川に沿って江戸川橋駅に向かう間に雨はこぶりに。あんなどしゃぶりの中を歩かないで、雨宿りをしていればよかったのに、いつやむかわからないから、無理して庭園を下りました。
人生どしゃぶりもあるよね。雨宿りするのもアリだし、無理して歩くのもアリなのでしょう。
<つづく>