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ぽかぽか春庭「牧野の植物」

2023-12-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231219
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩拾遺(1)牧野の植物

 2017年に練馬区立牧野庭園を訪れました。2023年4月-9月の朝ドラ「らんまん」が大人気のうちは混みこみでしょうから、2度目の訪問は、ドラマが終了し、人気が冷めてからと考え、2024年の春くらいには行きたいです。

 手持ちの小型サイズ「学生版牧野植物図鑑」はカラーではなかったので、カラーの図譜が欲しいと思っていたら、娘が今年の誕生日プレゼントのひとつとして、三才ブックス版の牧野植物図譜を贈ってくれました。カラーのページもあり夜寝る前のお楽しみに図譜をながめています。カラーといっても、牧野図譜は白黒の石版印刷のための図ですから、もともと墨の線で描かれています。三才ブックス版には、牧野愛用の筆や製図道具などの写真がありました。図譜の中にカラー版は多くなく、牧野手書きのカラー図は、コオロギラン、ヒメキリンソウなど限られていました。ドラマの中で槇野万太郎の母が「いちばん好き」と語り、幼い万太郎が絵に描き母に見せていたバイカオウレン梅花黄連の1892(明治25)年、全体像は白黒ですが、秋の色づいた葉が赤く着色されていました。

 今年出かけたおりにも、らんまん人気を当て込んだのか、出かけた先々で牧野富太郎の植物標本や図譜を見ることができました。

 練馬区美術館「植物と歩く」展に展示されていた牧野「ユリ」図
 1902(明治35)年㈹日本植物誌第1巻第2集第7図版掲載の図です。
 三才ブックス版には106頁に載っていました。

 牧野富太郎亡き後、標本は家族から東京都立大学に寄贈されました。都立大の最寄り駅、南大沢駅のショッピングモールの壁に標本の一部が展示されていました。

 牧野「イブキスミレ」1881年6月(年月がわかる最も古い牧野標本。上京する前のもの)


 牧野「ぼたんきんばえ」として1903年8月利尻島「アルタイキンバイソウ亜種」


牧野「イッスンキンカ」1909年9月鹿児島県屋久島宮之浦岳

牧野「ミチノクフクジュソウ」1945年3月に標本作成


 牧野「ふくじゅそう」1945年3月に標本作成中、空襲を受け自宅一部破損する。疎開後4月7日に作成終了。


 牧野「つくしはぎ」1945年疎開先の長野県穂坂村で作成


牧野 1954年練馬区自宅の庭で採取




 牧野博士が残した標本は、全国各地から寄せられたものを含めて80万点にも及ぶそうです。標本の保存には、植物のほかもうひとつ貴重な価値が生まれています。きちんと保存がなされてきた中央の大手新聞に比べ、地方新聞などは保存されていない場合が多い。標本を挟んだ新聞紙は、地震や空襲を潜り抜けてきた貴重な歴史資料になっているということで、ほう、そういう活用法もあるのかと思いました。

 「らんまん」のドラマで、家族が総出で標本作りに協力していた画面を思い出しました。ドラマでは、妻の壽恵子が54歳で亡くなるまでのストーリーでしたが、実在の牧野富太郎は、娘息子の世話を受けながら妻の死後30年も生き抜きました。
 今回、展示されていた標本の解説を見ると、1945年3月の東京大空襲の最中にも牧野博士は標本作りをやめず、ようよう説得されて長野に疎開したことがわかりました。

 ひたすら植物採集に歩き回り、家で標本作りに熱中する。家族の食べ物が無くても気にしないで、植物研究さえしていれば幸福な人だったようですが、ほんとうに植物一筋のよい人生だったろうなあと思います。
 常人にはまねのできない天才の人生ですが、こんなふうに一筋に好きなことだけ貫く生き方は、ただただ見上げるばかりです。

 見上げている凡人


<つづく>
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