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ぽかぽか春庭「日本画の棲み家 in 泉屋博古館」

2023-12-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


20231209
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩ぐるっとパス使い倒し(1)日本画の棲み家 in 泉屋博古館 

 9月25日土曜日、泉屋博古館の「日本画の棲み家」展に出かけました。

 泉屋博古館の口上
 明治時代における西洋文化の到来は、絵画を鑑賞する場に地殻変動をもたらしました。特に西洋に倣った展覧会制度の導入は、床の間や座敷を「棲み家」とした日本絵画を展覧会場へと住み替えさせました。その結果、巨大で濃彩な作品が増えるなど、日本絵画は新しい「家」にふさわしい絵画表現へと大きくシフトしていきます。このような時代のなかで集められた泉屋の日本画は、むしろ邸宅を飾るために描かれたもので、来客を迎えるための屏風や床映えする掛軸など、展覧会を舞台とする「展覧会芸術」とは逆行する「柔和な」性質と「吉祥的」内容を備えています。
 本展では、かつて住友の邸宅を飾った日本画とその取り合わせを再現的に展観し、床の間や座敷を飾る日本画の魅力を館蔵品から紹介します。また現代の作家が「床の間芸術」をテーマに描いた作品もあわせて展示し、いまの「床の間芸術」とは何かを考えます。

 明治初年まで、日本画は襖絵か床の間を飾る掛け軸、絵巻物として鑑賞されてきました。明治期、洋画の影響を受け、和室や洋室の壁、展覧会場の広い壁面に飾るための日本画が描かれるようになると、日本画の画法が変わったのだそうです。学芸員のスライドレクチャーを聞きました。

 主任学芸員の椎野晃史さんが、展示されている絵画や住友家茶臼山邸平面図を示しながら解説してくれました。建坪1千坪を超える邸内に、床の間は10カ所以上あったそうで、それぞれの座敷や季節に合うよう掛け軸が選ばれ、掛け軸に合わせる花瓶や壺が飾られました。今回の展示品の多くは、住友家第15代住友友純(すみともともいと1865-1926)が収集したもの。住友家15代当主は、12代13代が相次いで亡くなり男系の絶えたところに、徳大寺家から養子に入12代妹と結婚した人が友純です。(12代母がつなぎの14代)友純は東山天皇の男系7世子孫にあたります。徳大寺からは、友純の兄が西園寺家に養子に入り西園寺公望になり明治の元勲として存在。

 友純は春翠と号し、茶人、風流人として生き、住友家の経営は番頭に任せる人であったそうです。春翠は男爵を授かり、三井家とは何重もの婚姻関係を結び、相互に持ち株会社で株を持ち合う。三井住友銀行は、もとをたどれば一族会社なんですね。

住友家茶臼山邸平面図


邸内を飾った屏風
木島櫻谷「雪中梅花」1918(大正7)


望月玉泉「雪中蘆雁図」1908(明治41

床の間を飾った掛け軸

 自館所蔵の日本画を、「どのように飾るか、どう見せるか」という視点で展示された展覧会でした。学芸員のレクチャーも聞かせていただいたのだけれど、どうにも私にはピンとこないものでした。なにせ、私が育った庶民の家、一階6畳の床の間にはタンスが置かれて物置状態でしたし、2階6畳の床の間1畳分には、私がふとんを敷いてベッドのようにしていたのです。掛け軸どころか、カレンダーから切り抜いた好きな絵を張り付けていました。床柱は父がどこからか譲り受けた自慢の銘木だったそうですが、子供には銘木だろうとわからない。たぶん、私の「日本画を観賞する感性」が育たなかったのは、床の間ベッドで寝起きしてきた子供時代にあると思います。いまさら育たない「日本画を飾る感性」。

 ぐるっとパス消化の泉屋博古館でしたから、ピンとこないまま出て大倉集古館へ。大倉集古館もさらにピンとこない「書」の展示だったので、11月25日はめったにない「おもしろくなかったなあ」という観覧日になり、「ぐるっとパスで楽しむ美術館めぐり」を唯一の娯楽にしている私としてはあまり満足できない一日でした。

<つづく>
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