20231228
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2023拾遺(3)キンスキー・イムレ写真展 in 港区立郷土歴史館ギャラリー
写真美術館でも見たことのない写真家の展示を、9月24日港区立郷土歴史館の4館ギャラリーで観覧。
ハンガリー出身のキンスキ・イムレ(1901-1945)は、ナチスの犠牲になり、44歳で亡くなったユダヤ人写真家です。ハンガリーの裕福な家庭に生まれ、兄ふたりは医者になりました。キンスキも医学部に進みましたが、2年生のとき、ユダヤ人ゆえ大学を追われ、事務員として働くことになりました。
その事務室でタイピストとして働いていた労働者階級の娘がガールドニ・イロンカ でした。シャイで人と話すのが苦手なキンスキーは、紙に「仕事のあと会えませんか」と書いて紙飛行機に折ってガールドニの机に飛ばしました。ガールドニの答えはOK。
しかし、OKじゃなかったのがイムレの家族。貧乏階級の娘との結婚は許さないと、事務室にへ申し入れをしてガールドニを解雇させてしまいました。しかし、優秀なタイピストだったガールドニは、翌日にはほかの事務所に就職をきめていました。家族のやり口を聞き及んだキンスキはガールドニの新しい事務所に行き、その場でプロポーズ。ふたりの間には息子ガーボルと娘ユーディトも生まれ、貧しくても幸福な家族の時代も短いありました。
キンスキは、妻から贈られたカメラによって撮影を開始。光と影をテーマとして写真家として自立しました。しかし、その頃、ナチスの威力はハンガリーにも及んできました。ナチスのハンガリー侵攻後、キンスキ自身の亡命手段はできたのですが、なんとしても家族といっしょにと画策しているうちに機会を逃し、キンスキは強制収容所へ。息子ガーボルもナチによって拷問をうけて死ぬ、という運命でした。
かろうじて死をまぬがれたガールドニ夫人と娘ユディットが守り抜いたネガによって、写真展が開かれました。守られたネガはごく一部なので、作品展のタイトルも「欠片(かけら)」
以上のイムレ伝は、港区郷土歴史館でもらったパンフレットと、娘のユーディトが語っているyoutubeに出ていたインタビュー動画からまとめました。
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=KTeef3IYbHs
初めて知った写真家。初めて見た写真でしたが、美しく清新な画面でとてもよかった。
「メリーゴーラウンド」1934 「霧のくさり橋」1930頃
ハンガリー国立社会保険局本部1931
「運搬中」1937
荷車馬車の馬はエサの袋に首をつっこみ、運搬人のおっさんはすべての荷を運び終えたところなのか、荷台で眠っています。
「イムレ肖像セルフポートレート」
イムレはきっと前を見据え、対象をみつめています。
イムレの表現は、美しい「光と影」が見る人の心にとどきます。
戦後ハンガリー社会を生きたなら、どんな写真を撮ったかと残念に思います。
全然知らなかったイムレ・キンスキを知り、よい写真を見せてもらいました。
郷土歴史館配布の解説ページに出ていたイムレの写真の説明。(筆者名なし)
キンスキの革新的な作風は、テーマを選択することではなく、新しい発想に基づく形式言語であった。すなわち生物写真やストリート写真、そしてスナップ写真の形を作り上げ、光と影の割合を調整し、特に「窓の遠近法」を作り上げた。それは、雨や光の中に浮かんだ、生きた町の心を揺さぶる鼓動、あるいはそれを傍観する市民、日常的な街路の姿をファインダー越しに捉えた。
学識豊かな学芸員さんが書きそうな文体で、なんだよ「新しい発想に基づく形式言語」って。なんだよ「窓の遠近法をつくりあげた」って。「窓の遠近法」という美術用語がわからないおバカ観覧者は、自分で検索しろっていう文章!知るか!イムレの写真がすばらしかっただけに、この解説の文体に「無知な観覧者の悲哀」を感じてしまいました。自分の無知を棚に上げて、「小さい者として生きるHAL」が、またまた学識豊かであろう学芸員さんに文句付けをしました。(学芸員もしくはハンガリー大使館の学術芸術担当広報の人かもしれない)
2024年はもっといい人になって生きていきたいです。毎年同じ、1年終わりの所感です。
<おわり>