20231223
ぽかぽか春庭日常茶飯事事典>2023文日記12月(2)水戸観光
水戸の偕楽園に2度おとずれたことがあります。1度目は、40年前。女子高クラスメートのやっちゃんが日立市の乗馬クラブに勤務をはじめて「遊びにおいで」と連絡をくれたので、嬉々として出かけました。やっちゃんが北海道の大学に進学して以来会っていなかったので、ほんとうにひさしぶりの邂逅でした。
やっちゃんの住まいは、1970年代に20代の給与少ない若者が住むのには当然だった、古いアパートでした。大学で乗馬に夢中になり、日立市にある乗馬クラブに就職したやっちゃんは、生き生き働いていました。
木造のアパートに入ってびっくりしたことに「今いっしょに暮らしている人」という男性がいたことでした。一生結婚することなどないだろうと思って20代を暮らしていましたが、私以上に結婚することはありえなかったやっちゃんに「同棲の彼」がいたこと、私にとっては青天の霹靂でした。まもなく結婚したやっちゃんは、一人息子を得たのち早々に未亡人になりました。高校理科教師をしながら育ててきた息子さんも40代となり、今は年金生活を楽しんでいます。
日立市に泊まった前の日かあとだったか覚えていませんが、日立市へ行ったついでに水戸市の偕楽園に立ち寄った気がします。
2度目の偕楽園は、青春18きっぷを利用して関東東北中部をめぐる旅をしたときに、常磐線を利用して水戸へ行き、偕楽園を訪れた気がしているのですが、いつだったか、覚えていません。
二度の偕楽園がどちらも梅の季節じゃなかったことだけは覚えているのですが。
三度目の水戸市訪問。娘が当選した水戸市郊外のカゴメ工場見学のついでに水戸観光をしようと言うことになりました。娘がたてた観光スケジュール。カゴメ農園と工場見学の前日水戸市に宿泊し、水戸市観光に出かけました。
7:43発 特急ひたち3号
9:18 水戸着 水戸駅前ホテルテラスガーデンにスーツケースを置き、水戸駅で水戸1日乗車券購入
10:00 10番乗り場から弘道館へ。
どうして弘道館へ一番に来たかというと、娘が集めている「日本百名山」のスタンプ帳に「水戸城」のスタンプを押したかったからです。水戸城は戦国遺風が濃い連郭式の城でしたが、水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名であったため、水戸城は城代が居住するのみで、藩主の居城として使われることはほとんどなく、城の建築物は江戸時代を通じて質素で戦国の城の風格を残すものでしたが、明治政府が命じた「城解体」により残されてきたのは「御三階櫓」のみ。御三階櫓は太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていません。
そのため、水戸城のスタンプは弘道館の入場券売り場で押すことになっています。
再建されたの大手門。

弘道館入場券売り場で水戸城スタンプを押したのち、弘道館見物。
弘道館正門


弘道館内 縁側の扁額


弘道館表玄関と手間の御所桜

弘道館玄関前には、京都御所から移植した御所桜が植えられています。有栖川宮織仁親王(霊元天皇皇孫)の第12王女登美宮吉子女王(1804~1893 )が水戸藩第9代藩主徳川斉昭(1800~1860)の御簾中(正室)となった際、仁孝天皇から桜を賜った、という説明書きが出ていました。
吉子の異母姉は、12代将軍徳川家慶の御台所(楽宮)喬子 。京都の皇族から徳川への降嫁が続いていたのです。公武合体の前駆ともいえる結婚でした。吉子自身は姉が12代将軍に降嫁していますから、水戸藩江戸屋敷に嫁ぐことにそう不安はなかったとみえて、すでに30歳を過ぎ側室も多数いた斉昭との結婚はよいご縁になりました。13代当主となる長男慶篤や七男の七郎麿(慶喜)、五女唯姫(以以姫 早世)を設けています。斉昭には22男15女37人の子を持ちました。(うち16人は早世)。吉子は側室所生の庶子の教育にも心砕いたと伝わっています。
吉子は大河ドラマ『青天を衝け』でに出てきました、斉昭は正月に、吉子を上段に据え、藩主より身分が上の方として挨拶をしたというエピソードが描かれていました。斉昭は吉子を大切に扱い、夫婦仲もよかったとのこと。斉昭の写真が展示されていました。娘は「竹中直人に似ている」という感想。メイクなどで斉昭によせる工夫はあったでしょうが、ほんとに似ている風貌でした。
公武合体によっ孝明天皇妹の和宮が有栖川熾仁親王との婚約を解消しましたが、そのかわりといっちゃなんですが、斉昭と側室万里小路氏との間に生まれた茂姫(徳川貞子)が有栖川熾仁のもとに輿入れしています。(貞子は結婚後2年23歳で死去)。
吉子の写真も展示されていました。隠居している徳川慶喜が、水戸藩を継いだ昭武(斉昭十八男)の隠居後の屋敷(松戸の戸定) を訪ねたおりの一族写真。吉子は慶喜の子どもたちや昭武の子などの孫とともに写っています。吉子は1873(明治6)年(1873年)まで、水戸偕楽園内の好文亭に住みました。その後、旧水戸藩下屋敷 向島小梅邸で暮らし、90歳の長命を保ちました。幕末明治のほぼ一世紀を生き抜いた生涯でした。


撮影者:江崎礼二 1890(明治22)撮影
早世した子をのぞいても20人の子があった斉昭ですから、息子は各地へ養子に出し娘は嫁入りさせて、子孫をばらまきました。
水戸斉昭が弘道館をたてたので、館内はなんと言っても斉昭称揚。黄門様称賛。
水戸光圀が編纂をはじめ、明治年代に完成した『大日本史』

「斉昭オシ」の弘道館見学でも、心に残るのは、歴史を支えつつひっそりと生き残ってきた幕末の女性たちの生き方、そして各地の藩校や私塾で黙々と学び続ける人々の姿でした。弘道館は最盛期に1,000人 の門弟が学び、武芸、儒学や歴史のほか、算学・医学・薬学・天文学・洋学などの教育がほどこされました。試験は斉昭隣席のもと口頭で行われ、試験につかわれた部屋も見学できました。
弘道館に学んだ人々は、近代化に貢献する人材ともなりましたが、1872(明治5)年の学制発布で弘道館はその歴史に幕を閉じました。
歴史に思いをはせながら歩いてみる弘道館廊下

大手門前に立つ斉昭像と

水戸市内の建物散歩。茨城県庁三の丸庁舎、水戸市水道低区配水塔 を眺めてから弘道館前バス停から歴史館方面へ。青少年会館前で降りて、青少年会館レストランココリコでランチ。
ランチ後は歴史公園内を観光。旧水海道小学校(移築:疑洋風)や、旧水戸農学校、旧茂木家住宅については、のちほど報告します。
歴史公園内に建つ茨城県立歴史開館で開催中の「ドラマ10大奥衣装展」を観覧。大奥で使用された衣装がたくさん並んでいるかと思ったら、松平定信、将軍吉宗、天璋院の衣装が三体のマネキンに着せられて立っていました。


歴史公園の中の紅葉がきれいでした。
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歴史館前で

歴史公園内に移築された旧水海道小学校本校

旧水海道小学校校舎の中に置かれていたピアノは、1859年という刻印のあるスタインウエイ&サンズ。1965年製造1871年横浜に輸入された現存する国内最古のグランドピアノです。調律されて、現在もコンサートや子供たちの演奏体験に利用されています。


歴史公園から徒歩で偕楽園好文館へ。
水戸観光にここは外せないという偕楽園ですが、園内は冬枯れで、娘は「梅の時期に来たかった」と心残りのようす。
斉昭夫人吉子が維新後にしばらく暮らしたという好文館の見学を中心にして、偕楽園の中は好文館二階から眺めだだけ。
好文館表門 好文館室内


好文館から偕楽園をながめる 二階から千波湖 噴水をながめる


好文館の中のカフェ「樂」 でぜんざいと梅ジュースで休憩。

出口までの梅林の間を歩きながら、梅の時期の写真が出ていたのをながめました。
17時にホテルテラスガーデンにチェックイン。ホテル内の温泉でほっこり。

19時 ホテルテラスガーデンで晩御飯。青少年会館のランチがボリューミーすぎたせいか、あまりおなかがすいていなかったのですが、せっかくの常陸牛ローストビーフディナーを残してなるものかと、やっとの思いでたいらげました。
アミューズと前菜


パスタにはウエイターさんが「このチーズのホールひとつは15万円」と自慢していたパルミジャーノレッジャーノをチーズおろしでゴリゴリして常陸牛のミートソースパスタにかけてくれました。


タイのソテーと常陸牛ローストビーフ






さいごのデザートが出てきたときはもうおなかいっぱいでしたが、デザートは別腹と娘と言い合って、むりやり詰め込みました。茨城名産のメロンはおいしかったです。チョコケーキやプリンそのほかは「おなかいっぱいすぎじゃなかったら、もっとおいしかったろうに」と残念。
ホテルテラス6階のツイン

ディナーに苦しいほど詰め込んだのに、朝ごはんビュッフェはまた山のよいうに盛り合わせて、大食い貧乏症はどこにいってもかわりません。

朝10時にホテルチェックアウト、カゴメにんじん収穫ツアーの集合場所に向かいました。
<おわり>