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春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「向井潤吉記念館」

2013-02-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/01/19
ぽかぽか春庭@アート散歩>20012-2013冬のアート散歩(9)向井潤吉記念館

 松本竣介展を見てきた世田谷美術館は、いくつかの分館を有します。いずれも、世田谷区に住んで画業を続けてきた画家が、アトリエ・住居と作品を区に寄付したものです。世田谷区はそれを記念館などに整備し公開しています。画家にとっては、没後も作品を散逸させずに展示することができ、区は文化的なイメージアップもでき、両者にとって利があります。
 

 向井潤吉(1901-1995)は、日本全国の古民家を写生し、油絵に残してきた洋画家です。フランス留学から帰国したのちの1930年代から二科展などで活躍し、戦後は日本各地を訪れて茅葺き屋根わらぶき屋根の民家を描き続けました。
 世田谷区に長くアトリエを構え、画家生前にアトリエは区に寄付されました。現在は「向井潤吉記念館」として公開されています。
 私は、2012年12月に初めて訪れました。

向井潤吉記念館正面


世田谷美術館分館向井潤吉アトリエ館『向井潤吉とふるさと京都』
会期/2012年12月11日(火)~2013年3月20日(水・祝)
住所/〒154-0016東京都世田谷区弦巻2-5-1
電話番号/03・5450・9581
http://www.mukaijunkichi-annex.jp/main_j/index.htm

 私が鑑賞したときの展示テーマは、潤吉の故郷、京都の民家でした。潤吉が生涯にもっとも多く描いたのは、埼玉県の民家ですが、これは住まいの世田谷から日帰りで写生に出かけられる地が埼玉の田舎だったからではないかと思います。つぎに多いのが京都。長野や東北の民家も数多く描かれています。

 今となっては、各地に残された藁ぶき屋根のほとんどは失われてしまい、わずかに観光施設として活用されている家屋が残っているだけです。福島の大内宿や世界遺産の白川郷などのように。農家の生活の場としての藁屋根かやぶき屋根の家は、潤吉のキャンバスに残されているのみ。潤吉は、写生の他、カメラでも映像作品として多数の古民家を記録しています。写真と潤吉の油絵を比べると、潤吉の美意識が風景の中の何を写し取り何を省略し、あるいは付け加えたのかがよくわかります。

 わらぶき屋根かやぶき屋根の家は、とても美しく、何とも言えない風情があります。でも、村に一軒だけ茅葺きが残されたとしても、維持出来ないのです。屋根の吹き替えを行うには、相当な人数と費用が必要です。材料集めと屋根葺き職人の手間賃で数百万円かかるそうです。村一同が「結」の組織力で、共同で吹き替え作業を行うことができたうちはよかったですが、観光化していない地域では、それもできません。
 私たちは、向井潤吉の絵の中に往時をしのび、失われた今になって、「わらぶき屋根の家はよかったなあ」と、言うのみ。

 むろん、向井の描いた古民家は、記録として以上に芸術としての価値があると思います。ひとつの「人間の産みだした美」を画面に定着して、私たちはそれを味わうことができる。
 わらぶき屋根の四季、美しいです。
 向井潤吉の故郷、京都の藁葺き屋根の家々も、ほとんどは消滅し、現在残されているのは、重要伝統的建造物群保存地区として選定された南丹市美山町の一画くらいです。いつか、この250軒が並ぶ村を訪れてみたいです。

 「大原新雪」〔京都府京都市左京区大原〕(1981年)


 茅葺き屋根が私たちから遠くなった、と思うひとつの事実があります。私は、長い間藁葺き屋根は稲の藁で葺き、茅葺き屋根は、「茅」という植物で葺くのだとばかり思っていました。ススキと茅はまったく別の植物だと思ってすごしてきたのです。

 茅という名の植物はありません。すすきや葦、葭、そのほかの細長い背の高い植物を総称して「茅」と呼ぶのだと、屋根の葺き替え作業を記録したビデオで見ている中で知りました。屋根葺に使えるものなら、なんでも茅でした。
 こんなモノ知らずも、茅葺き屋根が身近ではなかったという証拠かも知れません。

 12月、東京の暮れの空は冷たい風にさらされていました。
 世田谷の住宅街を歩いて駅に向かう道々、「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」というおなじみのフレーズが脳裏に浮かびます。
 私の故郷、私が子どもの頃でさえすでに藁葺き茅葺きの家など見かけることなかったけれど、藁屋根の民家の景色、私の世代のものにとっては、故郷の象徴なのだなあと思いつつ、「ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや、、、、」

 世田谷区から帰るには、地下鉄一回乗り換えです。時間的にはたいして遠くもないけれど、茅葺き民家の絵からビルの谷間に帰るのは、心理的には遠き時間の隔たりを感じます。
 故郷は、遠きにありて思ふもの、、、、、、。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「松本竣介と禎子」

2013-02-07 06:00:06 | エッセイ、コラム
2013/02/07
ぽかぽか春庭@アート散歩>2012-2013冬のアート散歩(8)松本竣介と禎子

 松本禎子は、夫とともに雑誌「雑記帳」を発行し、1933年の24号まで続けられました。
 展示されていた「雑記帳」の中味をじっくり読んでいる時間はなかったのですが、新宿区落合にご近所さんとして住んでいた林芙美子がたびたび寄稿したほか、竣介が「同郷人」として尊敬していた宮沢賢治の遺稿もこの「雑記帳」に掲載されました。また、同時代の文筆家たち、萩原朔太郎、佐藤春夫、室生犀星、平林たい子、高見順、岡本かの子、三好達治、寺田政明、藤田嗣治、などの多彩な執筆者の随筆を載せ、最終号となった1933(昭和12)年12月号は、小熊秀雄の「風刺文学のために」を掲載しました。

 「雑記帳」は、資金面での苦労のほか、拡大する戦況のもと、軍部の思想統制がきつくなる中、廃刊せざるを得なくなりました。
 竣介は、廃刊を決めたあと、執筆者や読者にあてて、次のような手紙を書いています。

 「今、迷信と狂気と蒙昧の荒蕪の地に放り出されてゐるに等しいと思ふのです。……ぢっとしてゐられない思ひに駆られます

 多くの画家が軍部の意向に逆らえず、迎合する者沈黙する者がほとんどだった中で、竣介は美術雑誌『みづゑ』1941(昭和16)年4月号に「生きてゐる画家」という論文を書きました。軍人が「時局と芸術」について鼎談を行い、画家にも国威発揚戦意高揚を求めたのに対して、竣介は
 「画家は腹の底まで染みこんだ肉体化した絵しか描けぬ」と、書きました。
 「芸術の自立」を主張することは、この時代、とても勇気のいることでした。竣介も危険な立場にたたされたわけですが、竣介の背景に政治的な団体などがないことが判明し、逮捕監禁されるようなことはありませんでした。

 戦後、ようやく自由に描ける時代がきました。
 戦後の焼け跡の東京に立ち、竣介は次のように書いています。

 「猛火に一掃された跡のカーッとした真赤な鉄屑と瓦礫の街。それらを美しいと言ふのには、その下で失はれた諸々の、美しい命、愛すべき命に祈ることなしには口にすべきではないだらう。だが、東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払ってしまった直後の街は、極限的な美しさであった。人類と人類が死闘することによって描き出された風景である

 敗戦直後の東京の光景が「焼け跡風景」「神田付近」などに残されました。

 戦後のものの無い時代でしたが、竣介は精力的に東京の街ほか、戦後の光景を描き続けました。しかし、竣介は1948年、36歳のとき、持病の気管支喘息が悪化、帰らぬ人となりました。

 松本禎子は、竣介と同年生まれ。2011年11月25日死去。享年99歳。竣介が1948年に36歳で亡くなったあと、63年間を「松本竣介未亡人」として、夫の画業を守って生き抜きました。二人が共同して発行した「雑記帳」などがきちんと保存されて展示されているのを見ても、禎子夫人が並々ならぬ情熱で竣介の作品を守ってきたことが偲ばれました。

 落合の松本邸は、建築家となった次男松本莞(まつもとかん)が今も住んでいます。夭折の画家などでは作品が散逸しがちですが、妻禎子が長生きしたこと、息子莞が建築家として自立し、家屋敷を売らなかったことなどが幸いして、作品は断簡や雑誌草稿にいたるまでよく保存されて展示されていました。

 禎子は、竣介の早すぎた死を「画業を完成しないままの死」と捉えて悼んでいました。残された者としては「まだまだ生きて、いい絵を描き続けて欲しかった」と残念に思い続ける63年の未亡人生活であったのでしょう。

 松本禎子の談話。
 「皆様がたいへんお褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、"いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい"と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。

 でもやつばり竣介は挫折したのでございます。麻生さんや難波田さんなど竣介が親しくしていただいたかたたちは、いままだいい仕事をなさっておられます。そんなかたがたの個展を拝見するにつけ感無量の思いがいたします。そして、もし竣介がまだ生きていたなら、このようなすばらしい仕事をしたろうか、ひょっとしたら絵筆をもたなくなっていたかもしれない、などと思ったりいたしまして、、、、。竣介はやっと何かをつかみかけたところで亡くなってしまいました。中途半端で死んでしまいました。哀れでございます。


 美術評論家の洲之内徹は、自身が所有する竣介の『ニコライ堂』について次のように書いています。
 「突然、松本竣介の世界のこの静かさと美しさは、運命に従順な者の持つ静かさと美しさではあるまいか、という考えが浮かんできたのだった」『帰りたい風景』

 「聴覚を失う」という運命の中で、竣介は音のない静かな世界の中で自分を見つめ、己の画境を貫きました。

 竣介も妻も生きていれば百歳。ふたりがいっしょにすごした短い時間も、妻が夫の思い出を抱いてすごした長い時間も、「画家の像」と題された夫と妻と子の姿の中に永遠に生きています。

画家の像1941

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ぽかぽか春庭「松本竣介展」

2013-02-06 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/02/06
ぽかぽか春庭@アート散歩>2012-2013冬のアート散歩(8)松本竣介展

 1月6日。正月休み最後のお楽しみとして、世田谷美術館で「松本俊介展」を見ました。
 竹橋の近代美術館で「Y市の橋」(上掲ポスターの絵)などを見ていて、好きな絵のひとつでしたから。

 とてもよかったので、図録を買いました。「招待券で入場したときは図録を買ってもいい。お金出したときはそれ以上の贅沢はしないために、図録購入しない」という「貧乏症ルール」がありますが、「ぐるっとパス」で入場券が百円割引きになったので、ま、いいかと購入。分厚い図録なので、持ち帰りが重かったけれど、今後これほどの規模での展示が次回行われるのは、生誕150年の2062年になるか。そのときは、私はもう生きちゃいないだろうから、今回見ることができてよかったです。
 図録は、絵やスケッチだけでなく、資料編が充実しています。

 松本竣介が画家としてすごしたのは、わずか20年ほどの短い期間です。画歴は長くありませんでしたが、数多くの油彩や素描を残しました。今回の展示では、油彩約120点と素描約120点、スケッチ帖やメモ帳書簡といった多様な資料も展示されています。
 
 展示の最初は、10代で描いた習作のコーナーです。中学入学してすぐに病気になり一命とりとめたかわりに聴覚を失ってしまった松本竣介。兄から与えられた絵の具に生きる喜びを見いだしたものの、まだ「自分の絵」の方向もつかめずに苦闘していた時代の絵が、若くして亡くなった叔母を追悼する肖像や、風景画として残されています。

 まだ「佐藤俊介」だった松本竣介が、1928年12月17日付けの『岩手日報』に書いた詩です。

「天に続く道」
絵筆をかついで
とぼとぼと
荒野の中をさまよへば
初めて知った野中に
天に続いた道がある
自分の心に独りごといひながら
私は天に続いた道を行く

一九二八・十二・十七

 竣介は、東京生まれですが、父の仕事のため2歳で岩手に転居。17歳まで岩手で育ったので、自らを「岩手人、東北人」と規定していたそうです。
 盛岡中学時代の友人で彫刻家となった舟越保武とは、終生の友人となりました。

 1929(昭和4)年、兄・彬が東京外国語大学入学したのに伴い、5年生まであるはずの中学を退学して、兄とともに上京しました。耳が聞こえなくなっていた竣介には、一般の生徒に混じっての勉学は無理があったのです。太平洋画会研究所(のち、太平洋美術学校)に入学し、本格的に絵の勉強を始めました。

 兄佐藤彬は、父が熱心な信者であった影響を受け「成長の家」の活動に従事し、1933(昭和8)年に雑誌『生命の藝術』創刊しました。竣介は、この雑誌の表紙絵を描いたり、小説や評論を寄稿しました。それらの雑誌も展示コーナーがありました。
 竣介は、モジリアニや野田英夫の影響を受けつつ、独自の画風を確立していきます。

 雑誌の仕事に関わるうち、竣介は松本禎子と知り合い、1936(昭和11)年に結婚。松本姓になりました。
 長男ではないから養子に行きやすかったのかもしれませんが、粉糠3合あれば、養子に行かずにすむ、と言われた時代に、あえて妻の姓に入ったことに、妻禎子への深い愛情が感じられます。

 松本禎子は、展示されている写真などから推測すると、相当な「モダン・ガール」です。同い年の禎子は、夫をぐいぐいひっぱっていくような強さを持っていたんじゃないかなあ、と勝手な想像をしました。耳が聞こえない竣介の保護者を自認していた兄、彬は、竣介保護者の立場を禎子にゆずった形になったのではないでしょうか。

 結婚後、家族とともにいる群像の絵、「画家の像」1941「三人」1942、「五人」1943などに、妻や子とすごす時間が表現されています。
 画家のモデルして夫に協力する妻が多いなか、夫のためにポーズをとったのは、「画家の像」の一回だけだそうです。禎子は禎子で雑誌の発行などで、「自分の人生」を貫く女性でした。

 1944(昭和19)から、絵に書き入れるサインの漢字を俊介から竣介に変えました。画数かなんかの都合だったのかもしれませんが、厳しくなる時局の中で、「高く立つ」「成し遂げる」という意味の「竣」の字が、強い意志を示しているように思えます。
 1942年制作の自画像「立てる像」は、松本竣介といえばこの絵が出てくるくらいよく知られていますが、きっと前方を見据える自画像は、たしかに「俊」から「竣」へと、「兄に保護される弟」から「妻と子どものために絵を描く男」への変化があるように思います。この画家受難の時代に、家族を守る力があるのか、という不安と、家族とともに生きる希望がないまぜになっている表情を見せて、画家は俊介から竣介へと変貌していったのでしょう。

立てる像


<つづく>
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ぽかぽか春庭「源氏物語絵巻・徳川美術館」

2013-02-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/02/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>お金持ちのコレクション(5)徳川美術館、源氏物語絵巻

 五島美術館のミュージアムショップに源氏物語絵巻の絵はがきとか額絵を売っていたので、「源氏絵巻」見たくなり、江戸東京博物館に出かけてきました。「尾張徳川家の至宝」展をやっていることは知っており、先日、見てみようかと両国で下りたのに、大相撲のほうを見てしまった。それで、1月29日に再び両国へ行きました。

 ちょうど「尾張徳川家の至宝」展第二期展示の新聞広告が出たところなので、会場は平日なのに、けっこう大勢の人が見学していました。人の頭越しに見るようなときは見学をしないことにしているのですが、まあ、なんとか人の間をぬって見ることができました。

 尾張徳川家のお宝は、徳川美術館に所蔵展示され、水戸徳川家のは、水戸市の徳川ミュージアムに。しかし、将軍であった徳川宗家のお宝はというと。江戸城引き渡しの際、13代徳川家定御台所であった天璋院は、城内のお宝のほとんどを持ち出さず、家具調度などを残したまま引き渡しを行ったと伝えられています。代々の将軍が集めた書物の保管庫「紅葉山文庫」もそのまま新政府に渡され、現在の「国立公文書館」に引き継がれています。 累代の宝物は、宗家の「徳川記念財団」よりも尾張家の「徳川黎明会」のほうが豊富に残っているのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 尾張徳川家のお宝のうち、鎧や刀剣、茶道具はちゃっちゃと見てとばし、源氏物語絵巻と、国宝「初音(はつね)の調度」をじっくりと。

 「初音の調度」は、3代将軍家光の長女千代姫(母・振の方)が尾張の徳川光友に嫁する際の嫁入り道具のひとつでした。嫁入りと言っても、千代姫が尾張の光友に輿入れしたときはわずか2歳半。家康の側室お亀の方(尾張徳川家初代義直の母)は、 15歳になる孫の光友の嫁として、家康の孫3代家光の長女千代姫を望みました。家光も御三家との関係を強化する必要がありました。いわば政略結婚なのですが、光友と千代姫は仲むつまじく、千代姫が15歳ころまでには、実質的な結婚生活に入り、千代姫は2男2女を産み、長男は尾張徳川家3代目、次男は高須藩主(2女は早世)。62歳で亡くなると、2年後には夫の光友もあとを追うように亡くなりました。

初音の調度より化粧道具


 展示されていたのは、初音の調度の数々のうち、化粧道具入れです。鏡は展示されていませんでしたが、姫君を美しく飾り立てるためのおしろい入れだの髪油入れだのが、美しい蒔絵の箱に収められています。そのほかにも、徳川美術館には、厨子棚・黒棚・書棚などの三棚や貝桶、文房具などが収蔵されています。幕府のお抱え蒔絵師である幸阿弥家十代長重が千代姫誕生に際して父の将軍家光から注文を受けたと、文献に書かれてあるそうです。

 戦後の混乱期に相続税の支払いに困って伝来の宝物を売り払った大名家が多い中、尾張徳川家は、財宝を戦前から「法人所有」に移管していたため、相続税を逃れることができ、ほとんどの財物を保存することができました。

 源氏物語絵巻は、東屋の巻が本物、柏木の巻が現状模写の展示でした。芸大で現状模写展を見たときも思いましたが、模写もすばらしい出来です。
 柏木の巻は、光源氏が女三の宮の産んだ男の子(のちの薫大将)を抱き上げているシーンです。光源氏自身が父親の妻を盗んで男の子を産ませた経験を持ち、今度は柏木に盗まれた妻が産んだ子を、我が子として育てることになった苦悩の場面。

柏木の巻


 更級日記の孝標女がおばさんにもらった「源氏」を夢中になって読みふけったとき、この絵巻もあったでしょうか。この絵巻を目にすることができた乙女達は、どれほどうっとりとし、夢中になったことでしょう。紫式部が「源氏物語」を完成させたとされるのは、1009年。絵巻が描かれたのは12世紀。千年のときをへだてて、私もまた、絶世のイケメンがなやましげに、妻の産んだ不義の子を抱いているようすに、あら~、イケメンは悩み深くっても、いい男なんだわぁと、うっとり見とれてきました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「戸栗美術館、鍋島で鍋しまshow」

2013-02-03 07:53:52 | エッセイ、コラム
2013/02/03
ぽかぽか春庭@アート散歩>お金持ちのコレクション(4)戸栗美術館、鍋島で鍋しまshow

 1月27日、渋谷へ行きました。
 渋谷区松濤の元鍋島藩邸あとに建つ戸栗美術館は、建築業で財を成した戸栗亨が土地建物、コレクションをまとめて渋谷区に寄贈したものです。ロッキード事件に関わった小佐野賢治らのグループであったと聞くとなにやらきな臭く、土建業で財産ためこむには、どれだけの政治と財界の腹黒いだまし合いやら討ち死にやらあったことだろうかと思いますが、ともあれ、残されたコレクションは、陶磁器専門美術館として松濤のお屋敷街に建っています。



 鍋島焼(なべしまやき)は、江戸時代17世紀から19世紀にかけて、九州の佐賀藩(鍋島藩)で藩直営の窯で製造された高級磁器をさします。肥前国の有田焼、伊万里焼は一般の販売も行われましたが、藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品を焼く特別な窯が大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市南部)に作られました。藩直営の窯で作られた特別な有田焼伊万里焼が、明治以後は「鍋島焼」と呼ばれるようになったのです。

 大皿大鉢のデザインもよく、色も美しい国宝級の鍋島焼を眺めて、私は「この皿にはふかし芋を山盛りに」とか「この鉢には鰤あらと大根の煮物」なんて盛りつけをしながら歩くのです。現実には割れても惜しくないように、裏側に店の屋号などが入っているサービスでもらった皿だの、百円ショップで買った鉢だのを使っているのですが。
 
 親から相続した財産を湯水のように使い、大金をラスベガスとかマカオでのギャンブルに入れあげて使い果たすどこぞの坊ちゃんもいるなかで、お金持ちたちの道楽、どうせ有り余るお金を使うなら、こういうコレクションに蕩尽して、生きている間はおのがコレクションに埋もれて「イッヒッヒ、これぜ~んぶ、ぼくのもの」と至福にヨダレ垂らすもよし、死んだら博物館美術館に寄付して、貧乏人もゲージツを楽しめるように遺言しておいてほしい。戸栗亨みたいに。

 私は、「ふん、お金持ちがなにさ。私は、生活保護費より低いレベルの暮らししかできない低所得者だけれど、生活保護費を削るなんて、許し難い暴政である。ぶつぶつ」なんてつぶやきながら、一皿ウン百万円ウン千万円の皿の間を歩くのです。

 ウン百万円の皿を見たあとは、松濤お屋敷街歩き。
 私の大好きな佐野洋子『覚えていない』から引用します。私のお屋敷街歩きの気分がそっくり書かれていますので。
 「私は高級住宅地を散歩するのが趣味で、こんもりと気が茂っただだっ広い屋敷の中にそびえ立つ金持ちの家を見ると全く中の生活を想像することが出来ない。そういういえはいやにひっそろとしているのである。ひっそりしていると冷たい家族生活があるにきまっている。主人は外に女をかこっているにきまっている。女房はフラストレーションで、買い物狂いにちがいないと思うのである。そして何でもむき出しになっている小さい家に住んでいる自分のをしみじみと幸せと思ったり勝手なものである。」

 他の部分も合わせて読まないと、佐野洋子のおもしろさが伝わりにくいかもしれないけれど、私のうじうじした「お屋敷街あるき」も、ちょっとは肯定されるような気分がしてくる。
 そーだ、ソーダ、こういうお屋敷に住む家族ってのは、ダンナはバンバン稼いでくるのだろう。親の資産なんぞも受け継いでいるのだろう。だけど「浮気は男の甲斐性」なんぞとうそぶくにちがいない。その女房はいうと、ホスト遊びにも飽きて、イケメンイタリア人留学生なんぞを囲って、オペラだハワイだと連れ回したりしているにちがいない。でっかいお屋敷で使用人に囲まれて育ったりしてしまうと、息子はマカオやラスベガスでギャンブルtに狂うか、ドラッグに溺れるかするに違いない、まともに育ったように見えても、人間というものは、「自分の家族でなければ、自分の使用人である」と人を見るようになるに決まっている、なんぞとぶつぶつ言いながら、渋谷駅へと下っていく。

 「ああ、それは子どもの奨学金だから、会社の借金返済につぎこまないで!」と叫びながら夫にとりすがる妻なんぞ「みっともない」のひとことで片付けられるであろう。
 「ぐるっとパス」の2000円払ったからには、「モト取らなくちゃ」と、それほど興味も無かった陶磁器コレクションを見に渋谷までやってくるイジマシイ女房が、娘のおさがりのセーター着て姑のお下がりのズボンはいている姿みて、ブランド服なんぞとは縁もなく生きてきた女をショウトーの奥様は「みじめったらしいわねぇ」と笑うのであろう。

 と、いじけながら歩く。20億円ほどもあったら松濤でちっこいお屋敷くらいなら買えるかなあと、渋谷駅へ向かう。年末ジャンボの6億円に期待をかけたが、今回も当たったのは末等300円でした。

 ♪金が無くても楽しい人生。あったらあったでもっとタノシー♪
 これは、クドカン大好きのわが家が、2011年に見ていたドラマ『11人もいる』の中で、シンガーソングライター星野源(今のところaikoの恋人)が歌っていた歌です。わが家のテーマソングになっています。金があったらあったでタノシーだろうと想像するが、あったことはない。

 僻みねたみを全開させながら松濤をすぎて、渋谷駅へ。センター街には奇妙奇天烈なファッションのワカゾーがいっぱいいて、ブランドもの着てないのに松濤を歩いてきたオバハンの心をちょっとは和ませてくれる。
 目の前を歩いている女の子ふたり連れ。一人はナース服きて、診療かばんをもち、首には聴診器を提げている。腕を組んでいる女の子は、ピンクのかつらに猫耳のカチューシャをして、背中には赤いランドセルをしょっている。ランドセルには黄色いペンキで「さわるな危険」と大書してある。ふたりは渋谷の坂を大股で下っていく。

 あはは、ショートー、好きだワァ。こういう女の子が闊歩する街のとなりにあるんだもの。
 鍋島焼き、買えないけれど、今夜は白菜「鍋しま」しよっ。百均の皿で食うぞ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「お金持ちのコレクション3五島美術館」

2013-02-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/02/02
ぽかぽか春庭@アート散歩>お金持ちのコレクション(3)五島美術館

 私の絵の見方は、ひとりよがりだし、ただ「見て楽しむ」という物見遊山の域をでないものですが、なに、どのように楽しんでどのように見て回ろうと気の向くままに。

 招待券が手に入ったので、1月23日に、世田谷の五島美術館へ。上野毛駅から歩いて行くと、五島昇と書かれた大きな表札のお屋敷がどで~んと見えます。あれ、五島昇ってもう死んだんじゃなかったっけな。表札があるってことは、まだ生きていたんかい、と思いながら、隣の美術館へ。

 美術館を創設した東急の創始者五島慶太の長男が五島昇です。やっぱり1989年に72歳で亡くなっていました。本宅を継いだのは、最初の妻久原財閥から嫁いできた久美子の産んだ長男の五島哲と思いますが、先妻の死後、芸者だった愛人を正妻になおした後妻の子は、どうなったのだろうなあ、こういうお金持ちの家は、相続とかたいへんだったんだろうなあなどと、人の家の家庭の事情などを勝手に詮索しながら、美術館へ。相続がどうなったかは知りませんが、五島慶太が集めたコレクションは、こうして私が招待券でタダで見ることができるのですから、慶太慶賀慶賀。
 
 五島美術館で見たいものと言えば、何と言っても「源氏物語絵巻」なのですが、今回のは「時代の美 桃山・江戸編」という展示です。源氏絵巻は、芸大が模写を完成させたときの本物と模写を並べて見せた展示のときに、見たのですが、またいつか見る機会があればいいなあ。

 今回の展示では、俵屋宗達(?―1640頃)が下絵を描いたと伝えられ、本阿弥光悦(1558―1637)が筆をとったという「色紙帖」や「鹿下絵和歌巻断簡」、また、尾形光琳が描いた、『伊勢物語』第九段「東下り」などが目玉です。色紙帖36枚をまとめて見ることができました。

 本阿弥光悦『薄(すすき)に月図』




 
 「鹿下絵和歌巻断簡」

 
 俵屋宗達が下絵を描いたと伝えられる鹿の絵。宗達が様々な鹿の姿態を金銀泥のみを使用して描いた下絵に、本阿弥光悦(1558―1637)が『新古今和歌集』より二十八首を選び、散らし書きした巻物の断簡。五島美術館の絵は雄鹿とそれを振り返る雌鹿を描き、巻第四「秋歌上」第365番の和歌を散らし書きした部分。
 雄鹿とそれを振り返る雌鹿。秋に妻を求めて鳴く牡鹿の声は和歌に数多く描かれています。
 本阿弥光悦の書体が優美であることはわかりますが、むろん、私にはさっぱり読めません。

 新古今集巻第四「秋歌上」第365番とい歌番号をたよりに検索してみると、
 「思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ」(新古今365 )
 後鳥羽院に仕えた宮内卿という女房の歌です。
 思い悩むことはこれと言ってないのに、なぜ秋の夕べは何とはなしに物思いがされるのか、我が心に問うております、という意味でした。

 この断簡は、本来は28首がつづく巻物でしたが、分売され、五島美術館、山種美術館などに所蔵されています。分売散逸したため、行方不明のものもあります。一括して買うには高すぎたので、仕方ないのでしょう。源氏物語絵巻も、蜂須賀家に伝来したものが分売され、そのうちの数巻は五島美術館に納められましたが、行方不明のものもあります。

 展示してある信長の書状、秀吉が正妻側室にあてた手紙、やはり読めるのは、ところどころの文字だけですが、テレビの大河ドラマや歴史の教科書の中の人と思っている秀吉や信長がこうして目の前に文字だけではありますが、実在している。歴史上の人物と親しく向き合った気がしました。

 豊臣秀吉が北の政所お祢に宛た自筆の手紙、側室のちゃちゃに宛た手紙。国立博物館でもときどき秀吉の手紙を見ましたが、これだけ消息を残していると言うことは、ほんとうに周囲の人々(とくに女達へ)に対する細かい心配りを忘れず、まめに手紙を書いていたのだろうと思います。信長の書状は右筆が書き、書名だけが信長であると説明が書いてありました。

 私、今、ウェブ友青い鳥さんに、一ヶ月10枚の「絵はがきを勝手に送りつけるプロジェクト」を続けていて、今月は221枚目から230枚目までを送信する予定。生来の悪筆で、字を書くのが大嫌いだった私。手書きでこんなに手紙を書くのは、久しぶりのこと。二十歳で東京に出てきたころ、母を心配させまいと毎週のように「今週の東京暮らし」というたよりを届けたことがありました。次は、ケニアで暮らしていた1年弱の間、父を心配させまいと、毎週「アフリカ通信」を書きました。「アフリカ通信」は、ときどきブログに転載してきました。

 青い鳥通信は、日々の出来事や感想など、たわいもないことをハガキの短文で知らせるだけのものですが、これもひとつの人生の一コマと思って、心をこめて書いています。歴史を動かした信長や秀吉の書状とは月とすっぽんかもしれませんが、手描きの手紙は、書くもののほうも心ゆたかにしてくれます。
 2月さいしょの話題は、「ろうばい」の花について。蝋梅・臘梅は、旧暦12月の朧月に咲く、また蜜蝋色の花だから、などの説をお知らせしました。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
という歌(俵万智「サラダ記念日」)のように「ろうばいを見に行って来ました」という一言を伝える友がいると思うだけで、私の心が温かくなるのです。青い鳥さん、「ハガキを送り付けられる人」になってくださって、ありがとう。

臘梅の金の花びら輝かせ光の春は遠空に満つ(春庭)

<つづく>
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