春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ミンガラ春庭「ヤンゴンの留学生たち」

2015-09-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
0150909
ミンガラ春庭ニッポニアニッポン教師日誌>2015ヤンゴン教師日誌(3)ヤンゴンの留学生たち

 私の授業のTA(ティーチングアシスタント)をつとめてくれているのは、派遣元大学で学んでいる学生たちです。1年生のときにショートステイで1ヶ月のヤンゴン生活をするプログラムは必修ですが、3,4年生のときに1年間の留学を希望する者は毎年数名。
 2014年12月から始まった学期に留学してきたのは、学部生3人と修士課程院生1人。女性2人男性2人です。その4人が、月火、木金の担当を決めてTAをしてくれることになっていたのですが、月曜日担当の修士院生は「修論の資料集めが忙しい」という理由で、デング熱にもかかって苦労した火曜日担当の女子学生は「体調が悪い」という理由で、TAは担当できず、木金だけTAがいます。

 日本語教室の手伝いにはあまり来られない院生も、私のためにヤンゴン用のケータイを買ってきてくれるなど、みな親切です。4人ともとても優秀な、性格のよい人たちでしたが、日本語教育への興味の持ちかたは、学生それぞれです。

 派遣元大学からTAには「心ばかりの謝金」が出ます。日本円にすれば最低料金にも届かない額ですが、それでも90分授業を手伝うと、こちらの学食でなら数回回食事ができるくらいにはなります。学食は安いので。

 1年留学の最後の時期に当たるので、留学生たちのビルマ語は、相当上達しています。9月末に日本に帰国したら、10月からはビルマ語で卒論や修論を書く人たちなので、日常会話はむろんのこと、学術的なことも言えます。

 8月中は、ショートステイの学生が10名学生寮に滞在していました。その中で日本語教育に興味を持った学生が、授業を見学したいと、申し込んできました。私は日本語教授法の教師でもありますから、「見学するだけなら、お断り。毎回TA補助員として、授業のお手伝いをしてもらいます」と、見学を許可しました。毎回3~5名が顔を出し、私の指示によってリピート練習の範読を担当しました。

 90分授業全部をひとりでこなし、リピート練習の声出しをしていると、のどが枯れます。小さい声でマイクを使う先生もいますが、私は地声でやりたい人なので。
リピート練習で同じことを繰り返し範読するのが嫌い、という私のわがままもあります。範読を繰り返すだけなら、教師はテープレコーダーと同じじゃないの、と思ってしまうからです。むろん、教師の生声でリピートしたほうが、ずっといい効果が出ます。学生の出身地にによって多少のアクセント違いなどがありますが、訓練されたアナウンサーの標準アクセントのCDを聞かせるより、生の声のほうがリピートにもはりあいがあります。

 TAおよびTA補助員のおかげで、リピート嫌いの私でも、リピート中心の当地の語学教育の伝統を壊すこと無く授業を進められました。感謝です。日本から来てビルマ語を学んでいる学生と、日本語を学んで日本へ留学したいミャンマー人学生の交流も果たせたことは、当地に日本語教室を開いた成果のひとつだと思います。

 授業に出席し日本語教育を受けた受講生のうち、3名の女子学生は、10月からの日本派遣が決定しました。日本語の定着度はそこそこですが、これから日本でさらに日本語学習に励んでくことでしょう。

 ショートステイ日本人留学生が20日間の短期留学を終えて修了式を迎え、学科長主催の食事会が開催。されました。日本へ留学することが決まった3人娘が「修了式の手伝い」として出席し、修了証を手渡すときの補助などを務めていました。

 修了式の会場レストランに入る日本人ショートステイ留学生と、日本へ留学する3人のミャンマー人女子学生。送迎のバスの車体には「シャトー猿ヶ京」と書いてありました。中古バスの再利用です。群馬県の温泉ホテル。「わぁ、なつかしい、この温泉ホテルに泊まったことがあります」と言いました。


 3人とも黄色い衣装を着ているので、打ち合わせたのかと思ったら、「日本の人が同席する会だから、ミャンマーの国花の色のロンジーを着ようと思って選んだら、3人とも同じ考えだった」と、服装が同じような黄色になった秘密を教えてくれました。私が青いシャツを着ているのは、月曜日と金曜日、教師は青系の衣装を着る、という伝統によるものです。私は外国人教師なので、ロンジーを着るかどうかも自由です。

 当地の女性教師のロンジーは、同じような青い色に見えても、柄によって、准教授なのか、教授なのかなど、細かい身分差があるのだと、聞いたので、セヤマー(女教師)のひとりに尋ねてみました。そんなことはない、どんな柄を選ぶのでも自由です、というこたえでした。
 中国清朝の官僚制度でも、自宅の門構えやら階段の段数にまで身分による細かい差がありましたが、当地の「青い衣装の柄によって身分がわかる」というのも、昔はそういうしきたりがあったのかも。

 日本へ留学することが決まった日本語受講生3人娘。みな笑顔がかわいいです。


<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンガラ春庭「教材作り・ヤンゴン日本語教室」

2015-09-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

春庭作成のオリジナル日本語教材の表紙。金閣寺の絵は、フリー素材です。

20150908
ミンガラ春庭ニッポニアニッポン教師日誌>2015ヤンゴン教師日誌(2)教材作り

  私は1988年に第1回目の日本語教育能力検定試験に合格して日本語教育業界に参入しました。当時は英語がぺらぺらだから日本語教育を始めた、とか、パリ駐在員となった夫の赴任についていったら、フランス語が話せるなら日本語を教えてほしいと頼まれたので、日本語教師になった、という先生が多く、日本語言語学を学んで日本語教育に携わるようになった、という教師はあまり多くありませんでした。

 私が日本語教師を始めた25年ほど前のこと。教材もごくわずかで、国際交流基金が編集発行した「日本語初歩」という教科書が直接法の教材として、多くの日本語教育機関で使われていました。25年の間に教材開発はどんどん開拓され、新しい編集の教科書が、初級用も中級上級用も、山のように書店に並んでいます。
 当地ヤンゴンでも、日本企業の進出が盛んになるにつれて、民間の日本語学校が雨後の筍という勢いで数多く進出し、「絆日本語学校」とか「日本語学校東京花火」とか、市内各地に設立されています。

 大学では、ヤンゴン外国語大学が日本語教育を続けており、現在ミャンマーで「日本語ができる」という理由で企業などに採用されている人は、この大学の日本語学科卒業生が多いです。
 私が赴任しているヤンゴン大学は、ミャンマーで最古の歴史を持つ大学ですが、大学生が政治活動を行ったために、軍事政権は大学を封鎖してしまい、新規の入学生をストップさせました。大学院教育のみ行われていたのです。民主化後、2013年12月に大学学部教育が再開されました。従って、学部生は、1,2年生のみで、3,4年生はまだいません。

 日本語教育は、まだ「単位がでないオプションの語学教育」という位置づけであり、趣味でならう「お稽古事」の扱いです。そのため、最初は「無料で日本語教育」を受けられるなら、登録して日本語教育を受けてみようという学生が殺到し、50人収容の教室に70人が押しかけ、立ち見も出るありさま。でも、授業がはじまって1ヶ月たつと、学生数は半減し、私が引き継いだときは、週4教室が開講されている各クラスは10~20名になっていました 。
 日本語授業が設定されているのは、大学正規科目授業時間帯の外の3:30~5:00です。

 しかし、私が引き継いだ翌週あたりから、さらに学生は減りました。これは、3月の前期学期末にも同様の事態があり、予想されたことでした。
 9月半ばに後期の期末試験があります。8月末には、日本語授業と同じ時間に、期末試験対策のための補習講座が始まりました。学生にとっては、単位のない日本語授業に出ている余裕はなくなり、みな、正規科目でよい点数をとるために、試験対策講座のほうに行きます。そりゃそうです。よい点数をとらないと、卒業にも響くし、大学での成績席次が将来の選択肢に関わる国ですから。

 学部学生は授業にこなくなり、受講生は「将来日本語教育に関わってみたい」と狙っている教師達のみの出席になりました。国文科(ビルマ文学科)の先生は、ほとんどが女性教師です。現在は、国文科と英文科が設立されていますが、学科長は「将来的には、日本学科も開設したい」という構想図も持っているようで、日本語教育を担える教員養成も考慮にあるのだろうとと思います。

 当地の伝統的な教育方法。
 英語教育でも、その他の科目の教育でも、教育方法は、江戸時代の論語を習う式と同じです。教師が範読する→あとについて唱和する→丸暗記する。
 江戸時代寺子屋の師範が「四十而不惑、 五十而知天命、 六十而耳順、 七十而従心所欲、不踰矩」と範読したら、生徒は意味がわからなくてもわかっても「 子曰く、 吾れ十有五にして学に志ざす。 三十にして立つ。 四十にして惑わず。 五十にして天命を知る。 六十にして耳従う。 七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」と、リピート唱和する。先生が「しのたまわく、学びてときにこれを習う、また悦ばしからずや」と言えば、生徒は同じように唱和して暗記する。

 当地の語学授業もこの方式であり、他の科目も、ほぼ同じような授業方法。 
 歴史の本なら、先生が本を範読し、学生は唱和する。補習の試験対策講座に出ると、先生が試験に出そうなところを範読してくれるから、学生はいっしょうけんめいその部分を丸暗記する。試験当日。たとえば、東洋史授業で、「中国元朝の滅亡について述べよ」という試験問題が出たら、元朝の滅亡について述べられているページを思いだし、教科書に書かれている通りに、一字一句たがえることなく、丸暗記したことを書き込んでいく。一字でも抜けたりしたら、減点。基本的に、試験はこの方式なのだそうです。

 元の最後の皇帝や最後の皇后である奇氏について、私見を述べたい、なんてことは一切やっちゃだめ。先生が言った通り、教科書に書かれている通りを暗記するのが当地の学習方法。大学院の修士課程博士課程でも、基本的にこの教授スタイルであって、「自分自身のオリジナルの論文」などは100万年早い!世界です。

 そういう授業スタイルの中、私は「丸暗記方式も、初級学習の方法として、よい面もある」ということは、認めるものの、できるだけ自分の頭で自分の表現したいことを考えて自分で文を創出する、ということを重視してきました。

 しかし、それを当地の学生にやってもらうのは、とても難しかったです。リピート方式に慣れている学生たち。
 「質問に答えてください」と言ってから、「お名前は?」と、教師が言ったら、自分の名前を答えてほしいのだ、ということをわかってもらうにも、苦労しました。「お名前は?」と教師がいうと、「オナマエワ?」と、リピートしてしまう学生だったのです。

 TA(ティーチングアシスタント)がついてくれる曜日は「今、先生はリピートではなくて、質問対して、答えを要求しているのだ」という説明をしてもらい、だんだんに、教師がリピートを求めているのか、質問への答えを求めているのか、単語の代入を求めているのか、わかるようになってきましたが、さいしょのころは、すべてリピートしてしまう学生に困ったこともありました。

 サバイバルジャパニーズクラスの要請にもさらに困りました。ひらがなカタカナを覚えなくてよい、ということにすると、講師室にある既存の教科書はつかえません。
 英語教育では、「耳から入り、聞く練習を先にやって英語になれてから文字を導入する」という方式が主流ですが、現在の日本語教育では「さいしょに文字と発音を同時履修して日本語の発音、音節構造になれて、単語発音をしながらひらがなを覚える、そののち、文型教育に入る」という方式が主流です。
  
文字を覚えてから、教科書を使う、という編集がほとんどなので、現在では、アメリカの大学で編集された教科書でも、ローマ字書きは少なくて、ほとんどが平仮名カタカナを最初に覚えさせる教科書になっています。
 文字を覚えなくてよい、という場合、口答練習のみでは、復習ができません。耳からきいたことをリピートするだけでは、家に帰ったとき、丸暗記しきれなかったことは抜けてしまうからです。
 語学教育では教室でやった発音練習や文型練習を繰り返してもらわねば、先に進むことが難しい。

 そこで、オリジナルの教材を作ることにしました。ローマ字書きで、簡単な文型を、ミャンマー語の訳語つきのテキストを作り、教室で練習したあと、宿題として家でリピートしてもらう。教室でリピートを100回くり返す余裕がないからです。なにせ90分×5回くらいの授業をやるだけで、日本でそこそこ暮らせるようにしろ、という要求、ハードルが高すぎます。

 パワーポンイントスライドを作り、それを印刷したものを学生に配布しました。A4用紙にPPTスライド4枚分を印刷し、一回はA4の裏表に8枚のスライド。A4用紙3枚にスライド24ページ分。

 第1回目は、あいさつと自己紹介を学ぶ。これは、どこに行っても、最初に自己紹介をするからです。

 挨拶のpptスライドは、ミャンマー訳語つき。 
 これ、作るのに苦労しました。私には、ミャンマー語がわからないので、単語帳をPDF化して、そこから切り貼りするのです。TAに、私の訳語ピックアップが間違えていないか、チェックしてもらいました。「こんにちは」の訳語に、ミャンマー語の「こんばんは」がくっつけられていないかどうかのチェックです。

 幸い、1回目2回目の授業は、テキストもわかりやすく出来たので、好評のうちに授業を終えることができました。

 当地では、「セヤマー(女性先生)」も男の先生も、「絶対的な尊敬の対象」です。教師が手抜き授業をしても、セヤマーを敬うこと限りなし。ですが、教師が熱意をこめて授業をしているのかどうかは、学生にも伝わるはずです。
 春庭の熱血ライブ授業、学生にわかってもらえたと信じて、次回のクラスにのぞみましょう。

 挨拶を学習したときの、パワーポイント教材です。

朝、昼、夜の時間帯紹介。絵は、「直接法で教える日本語絵教材」を利用。。


あいさつ語の導入

 この2枚を作るのに、どれだけ時間がかかったことか。それを毎回24枚作るのです。
 でも、この苦労というのは、「簡単な日本語を教えるのは簡単なことだ」と思って授業を命じてくる方にはわかってもらえないだろうなあ。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンガラ春庭「サバイバル・ヤンゴン」

2015-09-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150906
ミンガラ春庭ニッポニアニッポン教師日誌>2015ヤンゴン教師日誌9月(1)サバイバル・ヤンゴン

 当地の赴任者を探しているという話を聞いたとき「行きたい」と言ったのは、新しい国で新しい経験ができたら楽しいだろうと思ったからです。
 幼稚園児のころから、「テラ・インコグニタ」見知らぬ土地へ行ってみたい、というのが、食欲よりも着飾りたい欲望よりも、私にとっては一番大事な要求だったのです。

 好奇心のおもむくままに、見知らぬ土地へ行き、暮らしてみる、それによって私は生きてきたのです。
 35年前のケニアでも、1994,2007,2009年の中国でも、私は楽しく暮らせたし、サバイバルは得意だと思い込んでいたのですが、老齢になってからのサバイバルは、かなり過酷でした。お腹は壊す、足は湿疹で真っ赤になる、仕事ははかどらない。泣きの一カ月がすぎました。

 ミャンマー語を「ミンガラバー(こんにちは)」のひとことが言えるようになっただけで赴任してしまった日本語教師。実に不自由です。
 東京では、国費留学生クラスで、英語を媒介語として使える便利さで、直接法(日本語を日本語だけで教えていく方法)と、英語を媒介語として使う間接法(日本人の先生が日本語を使って英語を教えている日本の中学高校の英語教育は、ほとんどがこの間接法です)のいいとこどりをする折衷法というやりかたで日本語を教えてきました。

 単語説明は英語でほとんどが済んでしまうし、文法説明も直接法で導入した後、英語で補えるので、かなり楽をしていたのでした。
 しかし、ミャンマー語をひとこともわからないまま着任した春庭は、楽ができなくなって、苦労することに。

 中学生のとき、日本語がまったくできない英語母語話者の先生に、会話授業ではなく、文型授業を受けることになったら、どのように英語を理解したらよいか、とまどう中学生も多いのではないかと思います。
 しかも、前任者は多人数の教室で効率的に授業を進める方法として、教科書にのっていることをパワーポイントスライドに写して授業を進めてきました。

 10人~20人のクラスが前提であった国費留学生クラスでは、教科書や絵カード、文字カードなどのアナログ教材で十分間に合ったのですが、大人数のクラスでは、A6版の絵カードなど小さすぎて、うしろの席にはみえません。そのため、前任の若い先生は、教科書をすべてPDF化して、それをパワーポイントに取り込んで教材とし、プロジェクターでスクリーンに映写していました。
 学期途中での教師交代であったので、できるだけ前任者の授業方法を受け継ぐ方が、学生にはとまどいが少ないだろうと判断し、私もパワーポイントスライドで教材を作ることになりました。

 機械に弱い春庭、まず、PDF化ということにまごまごしてしまいました。若い前任者が「ここを押して、次は、ここ押してファイル名を変えて、、、、」と、すらすら説明してくれることが、さっぱりとこの老頭に入らず、「すみません、もう一度」と、おそるおそる言ううちにも、前任者は友人がいるというバンコクに旅行にでかけてしまいました。1週間後に彼女が事務所に顔を出すまで、実にストレスいっぱいの日々になりました。おなかこわしているし、授業ファイルはうまく作れないし、泣いていました。

 彼女が事務室に顔をだしたので、機器の使用方法を文書化して残してほしいと頼みました。快くやってくれたので、ほっと一息。旅行に出かける前は、旅行社へ行ったり忙しそうにしている彼女に、「文書化しておいて」と、切り出せなかった気の弱い私でしたが、学期途中での仕事の引き継ぎ、きちん引き継ぎをしてから旅行に行くべきなのだ、と、彼女がいない間に気づいた、トロい老女です。でもね、旅行に出かける準備でうきうきしている若い女性に、「仕事優先」なんてこと言ったりしたら、「いじわるバーサン」と、思われはしないかなんて、気になりました。なんせ狭い業界なので、「あの人とはいっしょでは仕事しづらかった」という評判は、あっという間に業界をかけめぐるのです。

 文書化してもらったおかげで、PDF化というのもできるようになりました。
 彼女は、自分が作ったパワーポイントファイルは、すべて大学PCからもUSBファイルからも消し去って私用のUSBに移してしまっていたので、彼女の作ったファイルは使用できませんでした。

 私は、自分で作った試験問題や練習問題など、すべて大学の共通ファイルに残してきました。引き継いだ先生がそれを利用するかどうかはともかく、教材は資料として残すのが教師の仕事の一部だと思っていました。彼女が「自分が作った教材は自分のもの」という考え方の持ち主であったことに、若いから私物観がちがうのだ、と、思いました。
 各課の教材ファイルを最初からすべて作りなおすことになり、最初の一週間で3課~8課の教材を一度に作ったので、たいへんでした。

 9月中に進むであろう授業範囲の教材ファイルを作り上げて、ほっとしたら、学科長から「日本へ行って研究留学する先生方のために、サバイバルジャパニーズのクラスを作ってほしい」という要請がきました。
 派遣元大学の当プロジェクト立ち上げメンバーの先生が、共同研究のためにヤンゴン滞在中で、学科長と親しい。「先生がやりたくないとおっしゃれば、断ることもできるのですが」と、言われたとき、「断ります」という選択肢は、下っ端派遣教員の私には、ありません。はい、引き受けました。

 文字教育はいらないので、とりあえず日本で生活できるだけの最低限の日本語が口にできるように5~6回ほどの授業で完成させよという課題。ムリです。簡単な日本語だけでいいのだから、教えるのも簡単だろうと考えての「新しいクラスを作れ」なのでしょうが、簡単なことばを教えるのは、簡単ではない。
 実は、サバイバル言語というのは、教えるには非常にテクニックが必要です。

 90分の授業のために、数時間の準備が必要。またまたパワーポイント教材の作り直し。ひらがなも覚える時間がないというので、すべてローマ字書きのファイルを作ることになります。
 8月4日に当地に来て以来、大学と宿舎の往復だけで、大学でも宿舎でもひたすらパワーポイントスライド教材を作り続けて、大学近くのスーパーで買い物をしたのと、宿舎近くの市場で買い物をしたほかは、寝る時間以外はすべて仕事に費やしました。

 時給換算にすると、ミャンマー人の現地給与よりも安い給与になります。
 「お金は問題じゃないんだ、この国の日本語教育に寄与できれば満足」なんて言いながら、たっぷりの年金をもらいつつ、赴任してくる退職教員が、アジア各地にけっこうな数、います。中国で出会ったそんな日本語教師のひとりは、年金は日本に残る奥さんに渡し、自分は現地給与だけで生活している、と、言っていました。うらやまし。

 私の場合、現地給与ではなく、派遣元大学からの支給ですが、当地赴任のために、日本の私立大学の後期授業をやらない、ということにしたので、10月11月には、無給となります。日本の留守宅の公団家賃も光熱費も必要、日本で教師をしているより、ずっと貧乏になっている我が家の経済状況なのです。

 そんな思いまでして、テラ・インコグニタは、満足できたかか、、、、8月は泣いていましたが、9月はどうか、春庭の好奇心に幸いあれ。
 9月担当の仏様、おとめ座を仕切っているどっかの神様、おとめ座生まれの老女をどうかよろしくお願いします。

<つづく>
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンガラ春庭「祝!禄寿」

2015-09-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150905
ミンガラ春庭ミャンマーだより>ヤンゴン9月(4)祝!禄寿

 え~、2015年9月5日は、お日柄もよく、大安吉日であります。

 ミャンマーでは、役所の公的なカレンダー以外、実生活では旧暦で日常が動いていきます。日本の大安やら仏滅やらは、日本独自のカレンダーであって、日本以外の国では大安吉日も友引もまったくカンケーありません。

 ご本家の中国ではすたれてしまった暦ですし、日本でも庶民の間でこの六曜の暦が広まったのは、江戸時代後期であり、実際に盛んにつかわれたのは、幕末以後です。せいぜい100年ちょっとの六曜使用なのですね。百年たっても、結婚式には大安が喜ばれ、友引の日に葬式は避けられる。
 
 てなことは、まったく関係なく、大安吉日。私はヨワイを重ね、めでたく66歳になるのであります。99歳白寿、88歳米寿、77歳喜寿。
 66歳は「ロクロク」を当てはめて、「禄寿」とよぶことにしよう、と、商魂たくましいデパート業界から提唱されたことがあるとか。
 デパートさんは「緑寿」がいいだろうと考えたようです。還暦で赤いグッズをプレゼントした次は、緑色のグッズを売り込もうという魂胆。でも、字面は、福禄寿の禄寿のほうが、おめでたい気がします。

 禄寿おめでとう to me.
 いい年をして、アツすぎる国で単身赴任。負けるなワタシ。

 日本語の日付を言う練習のとき、ついたち、ふつか、みっか、という日付が言えるようになると、「わたしの誕生日は、○月○日です」というのを発表させて仕上げとします。
 最初、「わたしのたんじょうびは、9月5日です」を例としてあげていたのですが、途中でミャンマー文化のちがいを知らされて、誕生日を言うのをやめてしまいました。

 ミャンマーでは、誕生日になると、誕生日を迎える人が、周囲の人にプレゼントを贈らなければならないのです。生んで育ててくださった両親はむろんのこと、日頃お世話になっている親戚一同、知り合い一同に、これまで生きてこられたのは皆様のおかげです、という心をこめて、贈り物をします。
 知り合いの日本語の先生は、日本の実家から「日本製の傘」を50本送ってもらい、周囲の一同に「誕生日のプレゼント」をした、ということでした。

 日本語の授受表現「やりもらい」の練習として、たいていの日本語教科書には「この時計は、誕生日に友達にもらいました」「これは、弟からもらったシャツです。誕生日のプレゼントです」などの例文が出ています。教科書執筆者は、当然「私の誕生日」というつもりで例文を出しています。でも、ミャンマー人なら、「友達が、友達の誕生日に、私にくれた」「弟の誕生日に、弟がプレゼントを買ってきて、私にくれた」と、受け取るでしょう。

 おやおや、こりゃ、ミャンマーで誕生日などを人様に知られた日にゃ、物入りでかなわぬ。
やっぱり、誕生日は日本式で祝いたい。
贈り物受付中。

<つづく>
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンガラ春庭「ライン市場」

2015-09-04 09:05:33 | エッセイ、コラム

ライン市場入り口近くの店

20150903
ミンガラ春庭ミャンマーだより>2015ヤンゴン日記9月(3)ライン市場

 中国の長春に赴任していたときにもスーパーマーケットと地元の市場の両方のうち、地元でとれる野菜などは市場で、日用品などはスーパーで買っていました。大学の近くにあるレーダンセンターショッピングビルの地下にオープンしたシティマートスーパーは、品ぞろえはそこそこのものを置いてあるという評判ですが、地元の店に比べれば、2割程度割高です。キッコーマン醤油とかキューピーマヨネーズはシティマートで買いましたが、野菜などは市場で買ってみようかと、10時からの雨が11時にやんだ後でかけてみました。

 8月30日、日曜日も、買い物散歩。ほかに歩いて行ける場所がないのでに。
 地図に「ラインバザール」というのが出ていたので、歩いても行けそうなので、ぶらぶらと出かけることにしました。
 MICTパークという、IT企業集合地を通り抜けます。ミャンマー・インフォメーション・コミュニケーション・テクノロジー、さまざまなビルが並んでいますが、宿舎と反対側出口にフードコート建設中、YKKOというミャンマー料理のちょい高級店が「Open soon」の看板を出しています。もっとも、大学近くに8月末オープンしたレーダンセンターというショッピングビルは、2年前から「Open soon」だったとのこと。

 ここの、カンティーン(食堂)に、King Cafe from Tokyouという店がある、というのを日本人向け情報誌に出ていたので、土曜日にタクシーで通り抜けて探したのですが、わかりませんでした。歩いてきたおかげで、見つけました。ただし、日曜日は休店。フードコートが完成したら、吹きさらしのカンティーンではなく、冷房付き室内に移転するそうです。東京のサブウェイ式のサンドイッチが3000チャット300円。そんな高い食べ物、MICT企業の、高給駐在員以外食べないでしょう。
 私も、話のタネに一度は食べて見ようと思いますが、普段の私は、カンティーンで地元の人が食べている、肉と野菜のおかず一品ずつに山盛りのご飯のセット1300チャット130円でいいです。Kingcafeに寄ってみたいのは、オーナーの皆川さんと話してみたいから。ミャンマー人の奥さんとふたりで店を新規開店するまでの話が聞けたらおもしろいかと。日曜日休店だとすると、寄れるのは土曜日だけ。

 ライン市場に行く途中「Planets zone」というビアホールがありました。ミャンマーでは基本的に、「上層の女性」は飲酒しません。たまにハメをはずしてビールなんぞ飲もうとする女子学生がいたら、先生は「父上に言うぞ」と、一言いえば、シュンとなる。
 で、私も学科長のいる席などではしおらしくジュースを飲んでおります。むろん、大のビール好き。ミャンマーの生ビール、瓶ビールや缶よりも安いのです。小ジョッキ一杯700チャット、70円だというので、プラネットゾーンで一杯飲んでみることに。広い店内、昼間から飲んでいるのは、おっさんが一人だけ。客が集まるのは夜からみたい。

 店の奥にショウスペースがあり、夜7時から歌やダンスのショウがあるという。スペース脇のディスクジョッキー位置の真上には、ちゃんと仏様が鎮座していて、光背はネオンサインのちかちかが輝いている。歌や踊り担当の仏様なんだろう。

ビアホールのショウスペース
20150903

ディスクジョッキーブースの上には光背ピカピカの仏様


 ウェイターのにいちゃんが豚肉とジャガイモの煮物を食べていたので、指さして「これをくれ」と注文しました。にいちゃんが英語で「ポテト?」というので、「ポテト&ポーク」と答えたのですが、後半は無視されたのか、出てきたのはフレンチフライポテトでした。ま、いいか。塩も振っていなくて、チリソース添え。全部食べましたとも。

 ラインバザールへ向かう準備として、店のトイレに入っておく。
 こちらのトイレ、バケツに汲みおきの水が置いてあります。半欠けプラスチックの入れ物で汲み、汚れを水で洗い流すのがトイレ作法。
 洋式トイレの場合は、ホースの先のノズルから水が出るウォシュレットが備わっています。宿舎のトイレでは、私もウォシュレット式に慣れましたが、よそでは、バケツの水から汲んで洗うのにまだ抵抗があり、ティシュペーパーが必要なのです。

 宿舎から15分ほど歩いたところにあるラインバザール。想像した通りというか、長春の市場をさらに戦後闇市的に時間を戻した感じの市場でした。足元は土なので、雨が降れば泥んこになる。屋根はビニールシートかトタン。電気はない店が多い。日が沈んだら閉店。

 肉屋の多くは午前中で店じまいのようで、肉切り台は、水で流されている。肉切台のうえで、堂々犬がつがっている。地面の上より台の上のほうが、人にけっとばされる確率が低いと犬も承知の上なのでしょう。オマイラ、朝鮮近くの延辺の市場だったら、肉にされているところだよ。私、長春の市場でも、皮を剥がれて肉切台の上に横たわっている犬を見たんだよ。と、肉にはならず、人生を(犬生?)謳歌している幸運な2匹を眺めました。ネイチャーライフです。

肉屋スペースはお昼には終了していました。


 八百屋は営業中。カリフラワーや菜っ葉を買いました。ほかにもいろいろな野菜があるのですが、当地の野菜は油炒めが基本。私は茹でてマヨネーズかけて食べたいので、一番無難なものを買う。

 果物は、バナナ3つで300チャット30円と、マンゴ―1つ。小さいドリアンひとつを買いました。ドリアンは、スーパーに並べられているまるごとのは大きすぎるし、パック詰めのは、いまひとつ安心できないしで、今まで買わずにいました。家に帰って割ってみると、種の周りについている実、ごく少量でした。小さいドリアンは可食部も小さいのだと、あたりまえのことがわかる。ミャンマーでの初ドリアンでしたが、あっという間に食べ終わった。


 ぐるりと市場をめぐる。そう広くもない構内に、縦横5本ほどの路地が入り組み、間口1間ほどの店がごちゃごちゃと並んでいます。地元では効き目あらたかの薬であろう、漢方薬っぽい薬屋。こども服屋、雑貨屋など。雑貨屋で、バケツ用のひしゃくを買いました。1000チャット100円。工業製品は、野菜より果物より高い。

日用品プラスチック製品の店でひしゃくを買う。


こども服売り場


ちょい怪しげな伝統薬の売り場


 八百屋の婆さんも、2014年に賞味期限となっていた味の素を売っていた味の素の店のおねえさんも、お金払ったあとにカメラを向けてとっていいかきくと、にこにこと笑顔を向けてOK.してくれます。




 帰り道、また、MICTの中を通り抜けました。カンティーンの中の一軒は、日曜日でも営業している。宿舎にひきこもりの日曜日でも、ここにくれば、ミャンマー料理が食べられるとわかりました。パーセー(テイクアウト)を頼みました。魚のトマト煮と、野菜炒めとご飯で1300チャット130円。大学のカンティーンより安い。露店の料理はもっと安いことがわかっていますが、汚れ水の入ったバケツで、チャチャッと食器を洗うのを見ているので、食欲はわきません。カンティーンの店には一応水の設備はあると思うのですが、さて、どのように食器を洗っているのかは、見ていない。

 長春で、私が安食堂でも食べていることを知った学生たちからは、「安い店では、悪い油をつかっているから、食べてはいけない」と、くぎをさされました。食品の安全が日本ほど保障されている国はないと思うので、それなりに注意はしますが、それほど神経質にはなりたくない。そうでないと、企業の駐在員が日本と同じような暮らしをするために、日本と同じほどの支出をする、という生活になるからです。

 事務室と宿舎ではエアコンが使えるというだけでも、ヤンゴンでは贅沢なことだと思っているし、できるだけ地元の人の生活レベルに合わせて暮らしたいと思っています。地元の教師は、公務員給与だけの生活ではなく、商社などから頼まれる翻訳やらガイドやらで、案外優雅な生活ぶりなのだ、と聞かされていますが。みな、けっこう立派な自家用車で通勤しています。私はタクシー通勤ですが、これだって、自分では贅沢と思って引け目に感じているのです。でも、荷物を持ってのバス乗車は、ハードルが高すぎる。少し潰されて空気を抜いたらもちっと細くなるのに、、、、って、空気じゃなくて、脂肪が詰まっているんだってば。

 MICTカンティーンから宿舎まで歩いて戻る途中で雨が降り出し、あっという間に集中豪雨に。宿舎の入り口まであとちょっと。20mほど降られて、たっぷり濡れました。傘さして両手に荷物もっての雨中移動、まだ雨期の修行が足りません。

ライン市場で買ったもの。帰り道重かった。


 ヤンゴン勤務最初の2か月。あと1か月で一時帰国となる、折り返し点。あと半分のヤンゴン、楽しく暮らしたいです。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンガラ春庭「ヤンゴン路地の買い物」

2015-09-02 00:00:01 | エッセイ、コラム

タンラン駅へつづく道

20150902
ミンガラ春庭ミャンマー通信>2015ヤンゴン日記9月(2)ヤンゴン路地の買い物

 土日も宿舎で授業準備を続けていて、8月中、一度も「市内観光」をする余裕もありませんでした。3月に夜のライトアップ時間帯に訪れた市内随一の名所シュエタゴンパゴダ、朝のお寺もすばらしいと聞いて、ぜひお寺で日の出を迎えたいと願っているのですが、なかなか時間がとれないでいます。

 土日に出かけることができたのは、宿舎近辺のお店めぐりだけ。八百屋果物屋雑貨屋など、バス停周辺の路地に、露台を並べただけの店、間口一間半ほどの小さな店が並んでいます。インセインロード、タンランバス停から、ヤンゴン環状線のタンラン駅までの路地1kmの道筋にも、小さい店が軒を並べています。8月22日土曜日に、このタンラン路地の店巡りをしました。

バス停の近くにはたいていサイカーたまり場がある。

 八百屋でカリフラワーや菜っ葉を買う。
 果物屋の露店で梨ともリンゴともちがう、緑色の皮の果物を買う。ランブータンも買いました。

 果物屋では、小学生の女の子がノートに宿題をしながら店番していました。私が値段を聞き取れずに1000チャット札を取り出したら、困ってしまって、よそにいたお母さんだかお店のママさんなんだかに「このへんな人が、1000チャットしか出さないんだけれど、どうしたらいい?」というような相談に行きました。私が買った果物の合計は、3000チャット300円くらいの計算だったのに、私が300チャットと間違えて1000チャット札を出したので、女の子は困ってしまったわけでした。おばさんは、ノートに値段を書いて、合計が3800チャットであることを知らせてくれました。5000チャット出して1200チャットのおつりをもらったので、女の子に「困らせちゃったおわび」に、200チャット札をあげました。大切な宿題のノートに、おつりの計算を書き込んでしまったので、「ノートを買ってね」と言ったのだけれど、英語は通じない。

算数の宿題をしながら店番する女の子


 雑貨屋では、ポケットティッシュを3個買う。一個50チャット5円。日本では街角で無料配布されているのだけれど。ヤンゴンのトイレ、星以上のホテルとか高級レストラン以外では、トイレットペーパーが備え付けられていることはありません。ですから、外出時にはポケットティッシュは必需品なのです。買い物に出るのに、ティッシュを持って出なかったので念のために買いました。

 たばこは、1本ずつ売り買いする。


カレーとチャパティを売るインド系の店

バナナ屋  露店の八百屋 


さとうきび屋、さとうきび屋にいたぼうや。坊やのおでことほっぺが白く塗られているのは、伝統的な「タッナカー」という粉で、美白効果と日焼け止め効果があるというので、女性のほとんどと、子供は顔にぬっています。


米屋 値段を知るためにためしに買って見た。1カップ1合くらいが200チャット20円でした。


路地のロンジー屋


 屋台の食べ物は、まだ見てるだけ。ゆでたもの、あげたもの、炒め物などを指定して、好みの具材を麺と混ぜ合わせてもらう。ひと椀が、500チャット50円くらいから。
麺の具材、


水道がある店舗だと比較的安全そうな食べ物かと思って、他の人が食べているのを見て指し、あれ、ください。「ダー、ペーべー」という。
 

 買い物がけっこう重くなったので、インセインロードをはさんで西側のサイカー300チャット、東側300チャットで、帰りました。サイカーは道路横断ができないので、別々に乗らなければならず、ちょっと割高になりました。それでも、行き帰り合わせて90円の運賃ですけれど。

 買い物歩き翌日の日曜日から足が赤くなったので、この街歩きのどこかでなにかに当たってかぶれたか、虫に刺されたかしたのだろうと思います。少しでも地元の人に見られたいと、スニーカーではなく、素足にゴム草履で出かけたのが悪かったのかと。やはり、靴下はいて、虫除けスプレー携帯して、ちゃんと防備したほうがいい。

 ヤンゴンに長く住んでいる人でも、なにかのおりには、手足に謎の湿疹ができるとのことなので、ヤンゴン初心者の私、用心しないと。
 外出先から戻ったら、うがいと手足を洗うこと、というアドバイスをもらいました。泥はねの泥にもどんな菌がいるかわからないのが、熱帯の熱帯たるところ。
 また、ヤンゴンの通って⒛年、というヤンゴンベテランの先生も、「ひさしぶりにおなかこわした」というし、地元の人も、2ヶ月に1度くらいは、おなかこわしてるんだから、という説明をききました。ヤンゴンに着いた翌朝にはおなかこわしてしまって、「高齢者には向かない土地にきてしまったのかも」と、弱気になっていたのも、「若かろうとバアサンだろうと、おなかこわすときは、こわず」と、達観した方がいいみたい。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンガラ春庭「ミャンマー語修行中」

2015-09-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150901
ミンガラ春庭ミャンマー通信>ヤンゴン9月日記(1)ミャンマー語修行中

 赴任前、「エクスプレスビルマ語」「はじめてのミャンマー語」「ミャンマー語こんな時こういう」「旅のミャンマー語」という本を眺めたのですが、結局何も覚えられず、私が唯一口にできるミャンマー語は「こんにちは」にあたる「ミンガラバー」だけです。
 ありがとう、も言えませんでした。「チェズーティンパーデェ」というのですが、ミャンマー語には声調があります。中国語の四声、ベトナム語の六声に比べるとミャンマー語は三声ですから、「むずかしくありません」と、ミャンマー人は言いますが、チェズーのズーを高く言い、あとは低声になる、声の高低がうまくできないのです。

 日本語学習者に、「日本語には高低アクセントがあります。「橋が」は、低い高い低い、「箸が」は高い低い低い、「端が」は、低い高い高い、ですよ」と、教えているのだけれど、どうも声調は苦手です。中国語をあきらめたのも、まーまーまーまーの声の高い低いで、「お母さんが馬を叱る」という意味のなるという高低の違いがさっぱり聞き取れなかったからです。

 その声調さえマスターすれば、ミャンマー語で難しい発音は「鼻子音」という音だけ。日本語の「マ行」と「ナ行」は、口から音が出ず、鼻に抜ける音です。鼻音といいます。ミャンマー語では、「L」に、鼻音があり、Lの前に鼻音の印としてHがついています。Hledanという大学近くの地名。最初のHは、Lの音を口から出さずに鼻から出すという印です。私はLを鼻から出すなんて高等発音はできないので、「フレーダン」と言っていたのですが、ミャンマー言語学の先生に、それでは通じない、と教わりました。「フレーダン」では通じず、「レーダン」のほうが、まだしも「地方の山岳民族かどこかのなまりみたいだけれど、通じないことはない」という発音になるのだそうです。

 大学外国人教員宿舎のあるHlaingも、同じように鼻音の「ライン」です。
 でも、「ヤンゴン大学ラインキャンパス、外国人教員宿舎」と言っても、だれも知らないので、宿舎の西側にある「MICTパーク」と言った方が、タクシーにもサイカーにもわかってもらえます。MICTパークで働く外国企業の外国人社員たちは、高い給料をもらっていて、どこに行くにも自家用車かタクシー利用ですから、タクシーの運転手も「MICTパーク」といえば、知っている。

 ただし、私が迷子になりそうだったときのサイカー運転手になると、「In」「Out」の区別も読めないので、出口で下ろされてしまったのでした。
 ミャンマーはお寺での識字教育が行き渡ってきた社会で、ミャンマー文字はほとんどの人が読めます。でも、英語はやはり高等教育を受けた人でないと理解できない。

 日頃、日本にくる欧米人が英語だけで日本観光をしようとして、日本語を理解しようという気がないことに「英語優位の帝国主義思想だ」なんて憤ってきたのに、自分自身はミャンマー語のひとことも理解しないうちに赴任してしまいました。
 欧米人にとって、日本語のひらがなカタカナ漢字がネックとなってしまうように、まず、ミャンマー文字が関門です。

 ビルマ語専攻がある派遣元大学では、1年生は1年かけて、ビルマ文字学習と基本的な文法を学びます。夏休みにはヤンゴンにショートステイするのが恒例。2年生はと基礎文型習得、会話初歩。夏休みにはミャンマーへの自由旅行が推奨される。3年生は会話上達学習。3年生の途中から1年間のミャンマー留学が推奨される。ミャンマーで取得した単位は、3年生の単位として互換されることになっているようだ。(他学科ことだから、よくは知らないけど)4年生で卒論をまとめる。修士課程学生も1年間のミャンマー留学、という具合で、かなり上達します。

 私は、文字だけならハングルは読める、タイ文字とアラビア文字も習ったことはある。でも、まるっこいミャンマー文字、まだまだ読めるには至っていません。
何度かいっしょに食事した、日本から来ているビルマ語専攻留学生たちが、「これとこれは日本人の舌にあう」と、教えてくれたのですが、そのメニューの文字が読めないので、聞いてもすぐに忘れてしまう。

 大学東側のインヤー湖のそばにあるハッピーカフェ&ヌードルというレストラン。大学内から歩いて行けるので、これまでに3度行きました。他のレストランに比べると割高ですが、「 Chicken noodles」とか「Fried black rice」とか、メニュー説明が英語で書いてあります。英語表記と写真付きのメニューと説明で、どんな食べ物が出てくるか、想像がつきます。

 大学内の食堂や、宿舎近くのタンラン商店街の飯屋では、今のところ、もっぱら「指さし注文」で、「あの人と同じもの、ください」と言って食べています。
 赤っぽいのは、唐辛子だろうかと敬遠して、赤くないのを指さししたのに、タイのグリーンカレーの劇辛版並の辛いのが来て、食べられなかったり、失敗も学習のうち。

 グローバル化とは、すなわち英語が「世界共通言語」のようになってしまったことだと、日頃は嘆いているのですが、丸っこくってかわいらしいミャンマー文字、読めないストレスの中、アルファベットでわかる単語が書かれているとほっとしてしまう自分がいます。
 語学に弱いから日本語オンリーでいこうと思ったのに。外国語学習、悩みはつきません。

 でも、新しい外国語を習うのもボケ防止のひとつ。ボケボケ人生なので、ちょっとは老化防止に役立つよう、ミャンマー語習得、がんばります。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする