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ぽかぽか春庭「再録・形而学上悖理の垣根」

2023-12-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231205
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばで遊ぶ(3)再録・形而学上悖理の垣根 

 過去ログをながめていて、自分で書いてきたことなのに、書いたことさえ忘れていることがたくさんあることに気づきます。ことばについて書いたこと、あれもこれも思い出せば、そうそうこんなこと書いたよなあと思います。
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2010/05/23
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>新語旧語死語生き語 (3)形而学上悖理の垣根
 
 哲学者の廣松渉の本を読んでいるとやたらに見たこともない熟語が出てきます。「旧来の発想法の地平そのものを剔扶(てっけつ)し」とか「形而学上悖理(けいじがくじょうはいり)」とか。悖理は背理とどう違うのかと思ったら同じだったし、内容自体もなんだか小難しくてさっぱり理解できない。
 「廣松の本、むずかしくてわかりません」と嘆いたら、退官を迎えた教授「ああ、あの人は衒学趣味で、やさしく書けば誰でもわかるようなことをやたらにわかりにくく難しく書くのが趣味なんだから、わからなくてもよろしい。ああいう文体読まされて難しそうで高級そうなこと書いていると思いこむのは愚の骨頂」とおっしゃる。

 それを聞いて「なあんだ、やっぱりそれでいいんだ」と安心しました。赤信号、みんなで渡れば恐くない」を廣松式にいうと「世界の共同主観的存在構造における現象的世界の四肢的存在構造」ってなるんです。あ、ちょっと違うか。 

 私は、難しいことをより難しく書くのより、難しいことも中学生にもわかるように書く人が好きです。とは言うものの、私が「中学生にもわかるように書いた」つもりの授業レジュメの中の熟語、漢字検定2級に出てくる熟語より難しいのは使わないと決めているのに、昨今の南瓜頭大学生たち、まあ、読めないこと。「南瓜」だって読めないんだから。きっと彼らは私が廣松の熟語使いに頭を悩ませたように、「読めネー、イミ、ワカンネー」と思っているのだろう。ただし、私は読めない漢字があれば辞書を引き、検索するけれど、彼らは「ワカンネー」で終わり。

 蝶のコレクターにとって、新種の蝶の標本を手に入ったらうれしくてならないように、切手収集家が稀少品をオークションで競り落としたときのように、「ことば採集家」は、今まで知らなかった言葉に出会うと、うきうきして脳内土蔵に収集します。でも、私の脳内土蔵はしっかりしまっておくには不向きなようで、集めた言葉はぽろぽろとこぼれ落ちてしまいます。

 育児休暇をとるというお知らせのメールに「なにかとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかご海容ください」という結語があり、「海容」が実際に手紙の中で用いられているのを初めて見ました。私自身は使ったことはなくとも、海容なら、意味も読み方もわかる。

 同期生からメールをもらい、その結語に「ではどうぞよい一墻を」とあったので、目を丸くしました。「一墻」というのは、読み方も意味もわかりませんでした。 
 辞書を見ても意味が出ていないので、発信者へ返信のついでに、意味を尋ねました。日本語教師、知らないことを恥とせず、わからないことをそのままにすることを恥とせよ、の精神です。
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メール末尾のご挨拶に「ではどうぞよい一墻を」と書いてありました。「一墻」なんていう語をはじめて見て、どうも浅学非才の身、吝嗇のショクに土偏で「墻」、「いっしょく」と音読みするのか「ひとがき」と訓読みするのかも知らず、意味もわからず、辞書ひいちゃいました。角川漢和辞典、大修館現代漢和、三省堂漢辞海には「墻」が搭載されておらず、小学館現代漢語辞典にのみ「牆」の異体字として搭載されておりました。
発音は漢音ではショウ、意味は「垣根」とわかりましたが、「一牆」となると、どのような意味になるのか、私手持ちの辞書には載っておりません。お教えいただければ、今後の学習の励みにもいたしますので、よろしくお願いいたします。
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 メール返事によると、「ただの誤変換!」
 「ではどうぞよい一週間を」のつもりで書いたら、なぜか「一墻を」となったのですって。
 字引辞典を引くのが好きだから、あれこれ探ってついにわからず、けっきょくは誤変換とわかった、という検索の結果でした。「牆」などという漢字が存在することだけでもわかって、「日本語教師、なんでも調べて損はない」と思うことにいたしましょう
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 20231205
 日に日に新しいことばに出会う数が減り、若者言葉の何が何やらわからない省略形のカタカナ語やIT関連の横文字ばかりが「新語」として目につく昨今、昔あつめた新語旧語を掘り返すだけでも、頭の体操になります。「墻」も「牆」も、ここに書いて以来お目にかかったことのない漢字です。そういう漢字があることを思い出せて、過去ログあさりも無駄にはならぬ。

マックス・エルンスト「青い背景の太陽」1962


<つづく>
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ぽかぽか春庭「再録・霾る曀曀虺虺」

2023-12-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231203
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>>ことばで遊ぶ(2)再録・霾る曀曀虺虺

 ブログ友達Yokoちゃんは、退職後の日々もきちっとした日常生活をおくり、日課としてお絵かきや漢字書き取りを続けています。
 Yokoちゃんの記事から「先祖と祖先のちがい」など、ことばについての気づきの文を読むと、とてもうれしく、「ことばについて知ること」を楽しめます。

 「ちがくて」を春庭ブログから検索してひっぱりだしたついでに、漢字について「わからないこと」を書いていてそのままにしているコラムを見つけました。「つちふる」という語についての文を再録し、つづきを知ろうと検索を続けます。
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2008/05/19
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>検索は虹を渡る(2)つちふる

 最近のお楽しみのひとつ。わからないことがあったら、徹底的に検索ケンサク。
 たいていのことは調べがつきます。

 3月31日の新聞、読めない漢字がありました。「霾」
 ドット数節約で、ネットでは省略文字しか出ませんが、雨冠の下左は、「豹ひょう」や「貂てん」の左側と同じムジナヘンの「豸」で、下右側は「里」です。

 朝日新聞朝刊「俳壇」のコーナーにあった漢字です。
 音読みはすぐわかりました。「霾天(ばいてん)のアルプス晩景なせりけり(平出和衛)」
 こちらの句には、ひらがながふってある。私も、歳時記で見たことがある。

 しかし、中国在住の人の句「霾や店主イスラム教と云ふ(中村昭義)」にはふりがながありません。
 文字数からいったら、上5句ですから、「○○○○や」で、ひらがな四文字のはず。さて、なんと読むのだろう。
 俳人なら、ふりがななしでも読める字なのでしょうが、たまに季語を引く程度の私には読めませんでした。

 漢和辞典の「バイ」から「霾」をさがし、訓読みがわかりました。訓読みは「つちふる」でした。
 「つちふる」も音読みの「霾天ばいてん」も、私の持っている旧版広辞苑にはない言葉。
 大修館現代漢和には「つちふる。砂埃。突風が土砂を巻き上げて降らせる。また、そのために空が曇る」と説明があります。

 雨冠の下は埋と書く異体字もありました。
 「霾」とは、中国大陸で、地上のものが埋まるほど、土が雨のように降る気象現象を指しました。
 中国大陸に降る土砂が、上昇気流にのって日本まで来たものを、「黄砂」と呼びます。
 黄砂でくもった空が「霾天」で、春の季語。

「霾天や小さく古き一城市(遠藤梧逸)」
「霾天に面を包みうつくしき(田村了咲)」
「霾の中礫のごとき雨交り(林周平)」

 私が持っている角川歳時記に、ちゃんと「霾つちふる」と、読み方が書いてありました。
 これまで「春塵」という季語ばかり使ってきて、漢語っぽい「霾天」を使ったことがなかったので、「霾つちふる」がまったく目に入っていませんでした。

 辞書では、ここまでわかりました。これ以後は、ネット検索です。

 「霾天」「霾つちふる」は、江戸俳諧の季語にはありませんでした。
 明治以後、森鴎外や夏目漱石など、漢詩に造詣の深い人々が、俳句の作者でもあったことから、春塵、春埃と同じ意味で、「霾風」「霾天」が用いられるようになりました。
 大正末年の歳時記から春の季語として採用されています。

 「霾天」という語、どんな用例があるのか、ネットで検索したら、中国最古の詩歌集「詩経」(詩經 国風 邶風)に出ている、とわかりました。

 「終風」と題した詩の二句めに「終風且霾」と書かれている。

終風且暴 顧我則笑 謔浪笑敖 中心是悼
終風且霾 惠然肯來 莫往莫來 悠悠我思
終風且曀 不日有曀 寤言不寐 願言則嚏
曀曀其陰 虺虺其雷 寤言不寐 願言則懷

 この詩の解説は以下のとおり。
===========
「終風且霾<與理同>、惠然肯來。莫往莫來、悠悠我思。比也。霾、雨土蒙霧也。惠、順也。悠悠、思之長也。
○終風且霾、以比莊公之狂惑也。雖云狂惑、然亦或惠然而肯來。但又有莫往莫來之時、則使我悠悠而思之。望其君子之深、厚之至也。
【読み】
○終風且つ霾[つちふ]<理と同じ>る、惠然として來り肯ず。往くも莫く來るも莫く、悠悠として我れ思う。比なり。霾は、土を雨[ふ]らして蒙霧なり。惠は、順うなり。悠悠は、思うことの長きなり。
○終風且つ霾るとは、以て莊公の狂惑に比すなり。狂惑と云うと雖も、然れども亦或は惠然として肯えて來る。但又往くも莫く來るも莫きの時有れば、則ち我をして悠悠として之を思わしむ。其の君子を望むことの深き、厚きの至りなり。
============
 ハァ、解説を読んでもますますわからないのだけれど、一日中、強い土ぼこりが降る日の情景なのだろうなあと思って読めない字面を眺めました。
 「曀曀其陰 虺虺其雷 寤言不寐 願言則懷」の、「曀曀」って何?どう読むの?「虺虺」ってなんのこっちゃ。
 
 検索をしたために、ますますわからないことが増えてしまいました。
~~~~~~~~~~~
 解答をみつけました。
 15年前には、疑問に思っても解答が見つからないので、ほったらかしにしていたことがきちんと解説されていました。2023年まで15年の間に、答えがUPされていたこと、怠け者なので、チェックしていませんでした。
~~~~~~~~~~~~
終風(顧みられぬ妻の悲哀)(結婚 妻→夫 見限り 衛荘公)

終風且暴 しゅうふうしょぼう 
顧我則笑 こがそくしょう
謔浪笑敖 ぎゃくろうしょうごう
中心是悼 ちゅうしんぜしょう 
 日夜吹き荒れる風。
 あの男は私を笑う。
 嘲り、虐めの笑い。
 わが心はいたむ。

終風且霾 しゅうふうしょえい 
惠然肯來 けいぜんこうらい
莫往莫來 ばくおうばくらい 
悠悠我思 ゆうゆうがし
 風は土ぼこりを上げる。
 あの男はときに優しく
 我がもとに至るが、
 またぱったりと来なくなる。
 私はまちぼうけ。

終風且曀 しゅうふうしょえい 
不日有曀 ふじつゆうえい
寤言不寐 ごげんふしょう 
願言則嚏 がんげんそくてい
 外は大風、空はどんより。
 晴れ間などわずかなもの。
 眠れぬまま横になる。
 咳をしても、ひとり。
 
曀曀其陰 えいえいきいん 
虺虺其靁 きききらい
寤言不寐     ごげんふしん
願言則懷 がんげんそくかい
 どんよりとした曇り空、
 雷がごろごろ。
 眠れぬまま横になる。
 それでも、あなたを思ってしまう。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/1177354054921607568
~~~~~~~~~~~~~~
 崔浩先生、解説をありがとうございました。曀曀の読みはエイエイ意味はどんより暗い。虺虺の読みはキキ意味は「ゴロゴロ(雷の擬音)」とわかりました。
 漢詩の全体の意味は、家に寄り付かない夫をそれでも待ち続ける、顧みられぬ妻の嘆き節。15年前に意味が解明できていたら、「悲哀」身にしむ詩でした。40年間の「かえりみられぬ妻」は、もうあきらめついていますから、顧みられなくても悲哀は遠い。涙はいらない、同情するなら金をくれ!です。

難波田龍起「哲学の杜A」1982


<つづく>
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ぽかぽか春庭「再録ちがくて」

2023-12-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20231202
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばで遊ぶ(1)再録ちがくて

 若者言葉にも留学生の日本語にも触れる機会がなくなり、自分の言語感覚がテレビ経由だけになり、どんどんことばに対して鈍くなっているのを感じています。
 そんな中で、私の好きな言語感覚の持ち主のブログを読んでいる時「やっぱりYokoちゃんのことばの感覚、私に近くていいなあ」と感じる日の日記を読みました。「違って」が「ちがくて」と変化していることに反応した11月11日のブログ記事です。
 私の常々の主張。「言葉は常に変化していく。その中で、世間の言葉遣いがどう変わっていこうと、個人の言語感覚は、その人の好みでいいのだ」ということ。Yokoちゃんは、「違って」という動詞のテ形が「ちがくて」と変化していることに対して、「若者言葉としての使用は耳にしてきたが、テレビという公共の場での公の発言では耳ざわりだ」と書いていらっしゃる。以下、Yokoちゃんの言語感覚です。
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竜王戦第四局を見るともなく流していた時 解説の女性が「・・・違くて(ちがくて)・・・」と言ったのを耳にして 私の頭の中の言語見回りセンサーがピピっと反応した
私自身 間違って使っている言葉もあるし わざとくだけた調子で面白半分に使うこともあるから さほどうるさいことを言うつもりはなく 言葉が世につれていくものだとは思っているが それでも靴の左右を反対に履いているような気持ちになることがある
「違くて」を今まで耳にしたことが無かったわけではないが それは若者言葉として タレントやバラエティ番組に出ている人たちが軽い調子で使う言葉だと思っていた
 
それは 言語としてどう活用するのか
なぜ「違って」ではだめなのか
動詞としての「違う」の立場はどうしてくれる
私的な場所での言葉はそれぞれお好きなように使えば宜しいが 公的な場所ではあまり使わないほうが良い言葉というものもあるのではないか
おばちゃんは 耳心地の悪さにひとしきり悶々としてしまいました とさ
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 かって言語学を志した(挫折)ハルニワ。「ちがくて」に対して、確か前に書いたことがあったなあ、と検索してみたら、2005年に書いていました。「違う」という動詞が形容詞化していることについての、言語観察者としての考察です。
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2005/01/26 (水)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞①
 変わりつつある動詞表現につづいて、変わりつつある形容詞について。
 日本語教育で扱う形容詞は、イ形容詞(国文法形容詞)とナ形容詞(国文法形容動詞)がある。
 形容詞もさまざまな変化のなかで新しい表現が生まれたり、発音が変わったり、品詞が変わったりしている。

 古い辞書にはのっていないが、辞書の新しい版に俗語として搭載される形容詞もあり、若者言葉の省略形容詞も増えてきた。「ばっちい」のように、「汚い」の幼児語としてつかわれていた語が、大人の話の中でも普通に使われるようになったものもある。

 最近、辞書に載った形容詞の例。
 「せこい」〔俗〕ずるかったり、人目をごまかしたりする所があって、まともには付き合えない感じだ(新明解国語辞典第3版・第4版)

 以前とは、使い方、意味合いが変わっている形容詞。
 たとえば、以前「おいしい」は、「食べ物の味がいい」という意味が主要な使い方だったが、「うまい」の丁寧な表現として多用され、いまでは、「いいところだけ使ったりもっていったりすること。他にくらべて、条件がいいこと」などを表現するようになっている。用例「おいしいバイトあるけど、やんない?」「おいしい話には裏アリでしょ」

 「ヤバい」は、俗語として「危ない、悪い状態になる」を意味していた。その意味に加えて、若い人は「他からぬきんでている度合いが危ないくらいにすばらしい」「いいと感じ、それを好きになるのが危険になると思えるくらいだ」という意味合いで、「いいっすねぇ、それ、ヤバイよ」などと表現し、「ヤバい!」が誉め言葉になっている。

 形容詞の省略化も進んでいる。若い世代では省略化が定着している形容詞をあげてみる。
グーグルで検索したときの出現件数が多いものをあげると
 「うっとうしい、うざったらしい」→「うざい」10万2千件    
 「めんどうくさい」→「めんどい」84800件
 「気持ち悪い、気味が悪い」→「きもい」58000件「きしょい」7800件
 「むずかしい」→「むずい」5万2千件
 「かったるい」→「たるい」「たりい」(垂井、樽井といっしょになるので件数不明)
 長い形容詞を短くする変化が多い。短いほうが、「簡単便利」だからだ。言葉は複雑なほうには、変化しにくい。たいてい「短く言いやすい」ほうへと、変わる。
 「しょぼくれている」→「しょぼい」20万4千件
 これなどは、動詞アスペクトの「~ている」が、形容詞化している。「しょぼい」は、動詞としての「しょぼくれる」と別の語として存在する。<続く>
2005/01/27 (木)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞②
 「やばい」が若い世代の中で誉め言葉として機能していることについて「やばいが褒め言葉とは、驚きですね」投稿者:w****** (2005 1/26 9:15) と、コメントをいただきました。感想をお寄せくださりありがとうございます。
 私たちの現在の語感からすると、「びっくり!」のところもありますが、実は、この変化は日本語としては、よくある意味の変わりかたなのです。

 「すご~い!」「すごっ!」という感歎のことば。
 すばらしい技や出来事などに感激した人たちの口から漏れる。この場合、すばらしさを誉めたたえることばになっている。
 しかし、「すごい」の元の語「すごし」は、
①気候様子態度などが寒く冷たく感じられ、身にこたえる → ②冷たさを含み、恐ろしく感じる → ③ぞくっとして恐ろしく感じるほどすばらしい →④程度がはなはだしいようす(すごくいい、すごく悲しいなど) 
と、いう意味の変遷を経て、現在わたしたちが気軽に口にする「すご~い!」という感歎の言葉になった。

 津波や台風惨禍の写真をみて「すごい!」ぞっとするほど恐ろしい悲惨な状況。原義から言うと、こちらのほうが「すごい」の意味にあっている。
 しかし、美しいものを見たときも、驚くような技を知ったときも「すごい」のひとこと。若い世代が「やばい!」を誉め言葉に使うのも、「すごい」の意味変遷と同じ歴史をたどっていると言える。

 言葉は意味のうえでも、形の上でも、さまざまな変化をしていく。
 動詞から形容詞へと品詞移動しつつある例を紹介しよう。
 動詞「違う」が、形容詞へと品詞移動していく途中。
 動詞では「ちがう、ちがわない、ちがって、ちがえば」と活用したが、形容詞と同じ活用「ちがくて」「ちがくない」「ちがければ」という活用を、若い世代が使っている。終止表現が「ちがいます」から「ちがいです」に変われば、形容詞化が完成する。
 おそらく定着していくだろう。

 「違う」は、もともと状態を表わす動詞なので、動きや作用を表わす動詞に比べて、形容詞に近い内容をもっていた。「違う」の対義語(反対の意味をもつ言葉)が「同じ」というナ形容詞(形容動詞)であることからも、形容詞化が進むことが推察される。

 ナ形容詞「同じだ」も、イ形容詞へと移動していく。「おなじい、おなじくない、おなじければ、おなじくて」と、形容詞型の活用に変わっていくだろう。<続く>
2005/01/28 (金)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞③
 ナ形容詞(形容動詞)からイ形容詞へと品詞移動する例もある。
 「きれいだ」は、日本語教育では「ナ形容詞」国文法では「形容動詞」。これまでの活用は「きれいだ、きれいじゃない、きれいな人」
 しかし、若い世代の間では、「きれいだ」はイ形容詞に移動しつつある。「きれい、きれぇくない」。名詞修飾はいまのところまだ「きれいな人」。イ形容詞への移動が完了すれば「きれいぃ人」になるだろう。仮定形も「きれいならば」から「きれぇければ」へ。

 日本語変化予想。「元気だ→げんきい」「便利だ→べんりい」「不思議だ→ふしぎい」など、語幹部分が「i」の段で終わるナ形容詞はイ形容詞へ品詞移動が進むと推測できる。
 さらには「静かだ→静かい」「健康だ→けんこい」などの変化が起こるかも知れず、「静寂だ」は「せいじゃくて、せいじゃくない、せいじゃければ」などの活用をみせるかもしれない。予想があたるかどうか。

 若者ことばのイ形容詞の用法に、「感動終止形」とでも名付けられる新しい言い方がある。「はやっ(とても早いので驚いたとき)」「うまっ(とても美味い)」「おもっ(とても重い)」など、程度が大きいようすをいうとき、基本形「i」を省略し、促音化していう。この言い方はすでに定着している。

 基本形の発音も変化していく。形容詞の例。「ちいさい」→「ちっちゃ」「ちっちぇえ
」、長い→なげえ、痛い→いてえ、やばい→やべえ つらい→つれえ 寒い→さみい 明るい→あかりい、のように、母音が変化した発音の語、現在は俗語表現だが、将来はこちらがメインになるかもしれない。

 イ形容詞は二種類ある。属性形容詞(形状、形態やもののありさまを形容する。大きい、長い、重い、黒い、丸いなど)は、語尾がイ。感情形容詞(人の感情や感覚を形容する。寂しい、悲しい、苦しいなど)は、主として語尾がシイになる。

 省略形容詞は、「うっとうしい→ウザイ」「めんどうくさい→メンドイ」など、感情や感覚を表わす形容詞であっても、語尾が「シイ」にならず、「イ」になる傾向がある。
 それから類推すると、これまで使われてきた感情形容詞の多くが「シイ」ではなく、「イ」の語尾に短く省略されることが予想される。
 「悲しい→かない」「寂しい→さびい」「楽しい→たのい」「うつくしい→うつくい/うっくい」「やさしい→やっさい/やしい」
 未来日本語予想があたるかどうか、ウォッチングを続けていこう。
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 2005年に「違って」→「ちがくて」が優勢になるだろうという未来予想を出したのだけれど、20年近くたって、ついにおおやけの場で若い人が「ちがくて」を使うようになっている、というYokoちゃんの「違和感」報告に、こうして言語は変化していく、という現場を見せていただき、予報的中の気分。むろん、60代70代以上の「ちがって」世代は、「ちがくて」を使う必要はないし、私のように「見れる出れる」のラ抜き可能形は、話し言葉では言うこともあるが、文章では使えない、という世代がいていいと思っています。
 Yokoちゃん、どうぞ、「ちがくて」は公共の場では使いたくない、という言語感覚を大切になさってください。ただし、我ら世代なきあと、確実に「違う」という「状態を表す動詞」は形容詞化していくだろうと思います。

エドゥアール・ベネディクトゥス「ヌーベル・ヴァリアシオン新しい多様性」1920年代


<つづく>
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