矢彦神社が在るのは、塩尻市北小野の小野神社のすぐ南側ですが
この地は、辰野町の飛び地になっていますので、住所表示は辰野町小野になるようです
小野神社を見て回ってから矢彦神社を見て回りましょう
車は小野神社北側の駐車場に置いたままです
南東側の入り口参道です
手水舎です
ふるさとのみず20選です
天然記念物標柱です
説明版です
小野・矢彦 神社社叢
昭和35年2月11日指定
小野神社は塩尻市、矢彦神社
は辰野町に属するが、共に信濃
国二の宮として由緒ある神社で
ありその名が高い。この神社境
内を覆う社叢は、針葉樹と落葉
広葉樹が大部分を占めており、
これらの老木がうっそうと茂っ
た典型的な混交林であって、灌
木類や草本類も多く、樹木と合
わせ150種類にも及んでいる
。
我が国中部地方の植生は、古
い時代にはこうした混交林で覆
われていたであろうが、近時人
工が加わってその姿は一変した
様相を呈している。
従ってこの社叢は、当地方の
天然林の遺物ともいうべきもの
であり、古い時代の平地林の様
子をそのまま見ることができ、
しかもその面積が36326㎡
にも及んでいることは貴重であ
る。
長野県教育委員会
県宝 五棟 矢彦神社です
説明版です
信濃国二之宮 矢彦神社
御祭神
正殿 大己貴命
事代主命
副殿 建御名方命
八坂刀売命
南殿 天香語山命
熟穂屋姫命
北殿 神倭磐余彦天皇
誉田別天皇
明治宮 明治天皇
御由緒
当神社は、信濃国ニ之宮であ
り、上伊那郡五十四か村の総鎮
守であります。
遠い神代の昔、大己貴命の国
造りの神業にいそしまれました
折、御子事代主命・建御名方命
をしたがえて、この地にお立寄
りになったと伝えられておりま
す。
古くから、皇室の御崇敬が厚
く、勅使の御差遣もしばしばあ
りました。
欽明天皇の御代、大巳貴命と
事代主命を正殿に、建御名方命
と八坂刀売命を副殿におまつり
し、矢彦神社としてのかたちが
ととのいました。そして例祭日
を毎年、八遡(旧8月遡日)と
定め田ノ実祭(憑祭)といわれ
ました。
天武天皇の御代に勅使を下向
、新宮を造営し、正遷宮祭と御
柱祭とが七年毎の式年祭と定め
られました。
白鳳2年(674年)のことで
あります。
安徳天皇の御代、木曽義仲が
宮材を木曽山林より伐り出し社
殿を造営し、以後約七百年にわ
たって宮材を木曽山林から出材
されることになりました。
以来、鎌倉から徳川時代に至
るまで、武田晴信(信玄)、勝
頼をはじめ、徳川幕府の崇敬厚
く、再三社殿を造営されました
。とくに、慶安2年(1649
年)、徳川家光より、神領とし
て、高十石、及び付属山林諸役
免除の公文御朱印状を献納され
ました。
明治天皇の御代、明治5年(
1872年)社格が郷社となり
、明治14年(1881年)有
栖川宮熾仁親王殿下より神号の
額字を賜わりました。
明治27年(1894年)1
0月1日明治遥拝殿を創建。明
治天皇の生祠明治宮は、わが国
でもはじめてのものであります
。
明治33年(1900年)社
格が県社に昇格。御造営材の御
下賜は昭和7年(1932年)
まで続き、「天賜材式年造営神
社」と称されるにいたりました
。
昭和11年(1936年)5
月7日、巣山沢御料地を御造営
材供給の備林として24町歩余
の山林御下賜の天恩をうけまし
た。
例大祭 9月朔日
(現在は10月第1日曜日)
式年御柱大祭 毎卯酉年五月
東側の参道入口の赤鳥居です、額には矢彦社とあります
正面には神楽殿です
神楽殿の県宝標柱です
神楽殿の前に目的のスギです
神楽殿前(南側)から
北側から、目通り幹囲5,1mの巨木です
西側から見上げました
勅使殿です
狛犬です
拝殿です
左廻廊です
右廻廊です
拝殿・廻廊の県宝標柱です
本殿玉垣の中には沢山の建物が有るようでう、まず一列目に三つの屋根が見えます
二列目は二つ
三列目も三つの屋根が見えました
本殿玉垣北側のカツラの大木です
西側から見上げました
更に北側にトタンをかぶせた大きな切株が有ります
一之御柱です
ニ之御柱です
三之御柱です
四之御柱です
では、次へ行きましょう
この地は、辰野町の飛び地になっていますので、住所表示は辰野町小野になるようです
小野神社を見て回ってから矢彦神社を見て回りましょう
車は小野神社北側の駐車場に置いたままです
南東側の入り口参道です
手水舎です
ふるさとのみず20選です
天然記念物標柱です
説明版です
小野・矢彦 神社社叢
昭和35年2月11日指定
小野神社は塩尻市、矢彦神社
は辰野町に属するが、共に信濃
国二の宮として由緒ある神社で
ありその名が高い。この神社境
内を覆う社叢は、針葉樹と落葉
広葉樹が大部分を占めており、
これらの老木がうっそうと茂っ
た典型的な混交林であって、灌
木類や草本類も多く、樹木と合
わせ150種類にも及んでいる
。
我が国中部地方の植生は、古
い時代にはこうした混交林で覆
われていたであろうが、近時人
工が加わってその姿は一変した
様相を呈している。
従ってこの社叢は、当地方の
天然林の遺物ともいうべきもの
であり、古い時代の平地林の様
子をそのまま見ることができ、
しかもその面積が36326㎡
にも及んでいることは貴重であ
る。
長野県教育委員会
県宝 五棟 矢彦神社です
説明版です
信濃国二之宮 矢彦神社
御祭神
正殿 大己貴命
事代主命
副殿 建御名方命
八坂刀売命
南殿 天香語山命
熟穂屋姫命
北殿 神倭磐余彦天皇
誉田別天皇
明治宮 明治天皇
御由緒
当神社は、信濃国ニ之宮であ
り、上伊那郡五十四か村の総鎮
守であります。
遠い神代の昔、大己貴命の国
造りの神業にいそしまれました
折、御子事代主命・建御名方命
をしたがえて、この地にお立寄
りになったと伝えられておりま
す。
古くから、皇室の御崇敬が厚
く、勅使の御差遣もしばしばあ
りました。
欽明天皇の御代、大巳貴命と
事代主命を正殿に、建御名方命
と八坂刀売命を副殿におまつり
し、矢彦神社としてのかたちが
ととのいました。そして例祭日
を毎年、八遡(旧8月遡日)と
定め田ノ実祭(憑祭)といわれ
ました。
天武天皇の御代に勅使を下向
、新宮を造営し、正遷宮祭と御
柱祭とが七年毎の式年祭と定め
られました。
白鳳2年(674年)のことで
あります。
安徳天皇の御代、木曽義仲が
宮材を木曽山林より伐り出し社
殿を造営し、以後約七百年にわ
たって宮材を木曽山林から出材
されることになりました。
以来、鎌倉から徳川時代に至
るまで、武田晴信(信玄)、勝
頼をはじめ、徳川幕府の崇敬厚
く、再三社殿を造営されました
。とくに、慶安2年(1649
年)、徳川家光より、神領とし
て、高十石、及び付属山林諸役
免除の公文御朱印状を献納され
ました。
明治天皇の御代、明治5年(
1872年)社格が郷社となり
、明治14年(1881年)有
栖川宮熾仁親王殿下より神号の
額字を賜わりました。
明治27年(1894年)1
0月1日明治遥拝殿を創建。明
治天皇の生祠明治宮は、わが国
でもはじめてのものであります
。
明治33年(1900年)社
格が県社に昇格。御造営材の御
下賜は昭和7年(1932年)
まで続き、「天賜材式年造営神
社」と称されるにいたりました
。
昭和11年(1936年)5
月7日、巣山沢御料地を御造営
材供給の備林として24町歩余
の山林御下賜の天恩をうけまし
た。
例大祭 9月朔日
(現在は10月第1日曜日)
式年御柱大祭 毎卯酉年五月
東側の参道入口の赤鳥居です、額には矢彦社とあります
正面には神楽殿です
神楽殿の県宝標柱です
神楽殿の前に目的のスギです
神楽殿前(南側)から
北側から、目通り幹囲5,1mの巨木です
西側から見上げました
勅使殿です
狛犬です
拝殿です
左廻廊です
右廻廊です
拝殿・廻廊の県宝標柱です
本殿玉垣の中には沢山の建物が有るようでう、まず一列目に三つの屋根が見えます
二列目は二つ
三列目も三つの屋根が見えました
本殿玉垣北側のカツラの大木です
西側から見上げました
更に北側にトタンをかぶせた大きな切株が有ります
一之御柱です
ニ之御柱です
三之御柱です
四之御柱です
では、次へ行きましょう