山元地区は、天童市役所の東約2kmのところ
国道13号線のから県道280号天童若松線を東へ進みます
道なりに左に曲がっていくと
案内板が有ります、ここを右です
古参道入り口を過ぎて、道なりに上って行くと駐車場に入ります
境内入り口です
境内案内図です
縁起碑です
若松寺略縁起
所在地 天童市大字山元字若松
所有者 天台宗 鈴立山 若松寺
境内地 県史跡指定 昭和元年12月30日
観音堂 国指定 重文 昭和38年7月1日
構造形式 桁行5間梁間5間入母屋造
沿革
奈良朝の昔、元明天皇の御代和銅元年、僧行基菩薩が草創せられた霊場で、自ら観音尊像を刻み、これを以って本尊とさだめ、山号を鈴立山、寺を若松寺と称す。
その後、弘法大師空海一千座の護摩を奉修し、その灰にて腹篭りの弁財天を作られ安置す。そこを奥の院とゆう。
又、清和天皇の御代貞観2年慈覚大師が登山せられ、山頂に在りし堂宇を現況に移し、降って山形城主最上頼宗の息女老姫・夢中に三十三観音の霊場あることを威得し巡礼されて以来、最上第壱番の札所となる。その後、最上義光寺領230石を寄進したが、徳川三代将軍家光改めて朱印230石せられた。尚、慶長16年観音堂の解体修理を行う。更に降って昭和35年時代の変遷に鑑み、福性院と如法堂を解散し「新若松寺」命名せり。
更に、昭和41年10月より昭和43年9月の丸二ヶ年を以って観音堂の解体修理を行ない、その機に自動車道路を開通し、電気電話等を導入、更に昭和44年防災工事を施工し、昭和45年近年の世相に対応して修養道場「若松会館」を設立し、尚一層環境の整備と復興に進みつつある。
宝物
1、国定重要文化財 聖観音懸佛 昭和25年8月29日 付
1、国定重要文化財 板絵着色神馬図 昭和43年4月25日 付
昭和60年5月吉日
若松寺
境内に入ってすぐ左に地蔵堂です、山形百八地蔵尊第七十番札所です
観音堂前の石段です
左に本坊です、御朱印をいただくことが出来ます
最後の上りです
観音堂前です
手水舎です
大きな重要文化財の観音堂を見ました
文化財説明版です
若松寺の文化財
国指定重要文化財 若松寺観音堂 昭和37年7月1日指定
桁行5間・梁間5間・一重・入母屋造・銅版葺
寺の草創については明らかでないが、寺伝によれば、行基によって開基され、のちに慈覚大師によって山頂から現在地に移された。
現在の堂の建立時期は、様式手法からみて、室町時代末と考えられる。のち慶長16年(1611)に山形城主最上義光によって大修理が行われた。その後も小規模な修理が行われたが、昭和41年から43年にかけて全面解体修理が行われた。
室町時代末の建築様式や技法を知る貴重な文化財である。
国指定重要文化財 板絵着色神馬図 昭和43年4月25日指定
横板五板をはぎ合せて奉納額に仕立て、黒烏帽子に白の衣装の舎人が神馬を牽いている図を着色して描いた絵馬である。
左上に筆者郷目右京進貞繁奉納の銘が墨書されてある。
永禄6年(1563)に、寒河江の大江氏nお家臣である貞繁の非凡な画才を知ることができる。(縦163.0cm、横182.5cm)
国指定重要文化財 金銅聖観音像懸仏、昭和25年8月29日指定
懸仏は、円板の中央に仏像を取り付けて寺院又は神社の壁に懸け置くもので、御正体ともいわれる。
この懸仏は、直径76cmの銅製円板形の中央に聖観音の坐像を取り付けたもので、光背は頭光、身光を備えている。
弘長3年(1263)に成生庄の藤原貞綱らが奉納した。
山形県指定有形文化財 納札及び巡礼札(10枚)昭和30年8月1日指定
室町後期に延徳4年(1492)から永禄6年(1563)にわたって若松寺に納められた、いずれも木製で、長さ64cm、幅10.6cmを最大とし、長さ40cm、幅9cmを最小とする。文字は、陰刻し札の上部に種子(観音)もしくは日輪、月輪を、その下に納札の事由を記す.。
10枚中7枚は西国三十三観音巡礼を果たして納めたものである。中世の庶民の宗教生活を物語る資料である。
天童市指定有形文化財 木造行基菩薩坐像 昭和59年3月19日指定
同 木造文殊菩薩坐像 同
同 木造不動明王立像 同
同 木造狛犬(一対) 同
昭和61年1月1日
天童市教育委員会
慈恵大師堂です
鐘楼です
大風鈴です
天童市内を見下ろしました
では、次へ行きましょう
国道13号線のから県道280号天童若松線を東へ進みます
道なりに左に曲がっていくと
案内板が有ります、ここを右です
古参道入り口を過ぎて、道なりに上って行くと駐車場に入ります
境内入り口です
境内案内図です
縁起碑です
若松寺略縁起
所在地 天童市大字山元字若松
所有者 天台宗 鈴立山 若松寺
境内地 県史跡指定 昭和元年12月30日
観音堂 国指定 重文 昭和38年7月1日
構造形式 桁行5間梁間5間入母屋造
沿革
奈良朝の昔、元明天皇の御代和銅元年、僧行基菩薩が草創せられた霊場で、自ら観音尊像を刻み、これを以って本尊とさだめ、山号を鈴立山、寺を若松寺と称す。
その後、弘法大師空海一千座の護摩を奉修し、その灰にて腹篭りの弁財天を作られ安置す。そこを奥の院とゆう。
又、清和天皇の御代貞観2年慈覚大師が登山せられ、山頂に在りし堂宇を現況に移し、降って山形城主最上頼宗の息女老姫・夢中に三十三観音の霊場あることを威得し巡礼されて以来、最上第壱番の札所となる。その後、最上義光寺領230石を寄進したが、徳川三代将軍家光改めて朱印230石せられた。尚、慶長16年観音堂の解体修理を行う。更に降って昭和35年時代の変遷に鑑み、福性院と如法堂を解散し「新若松寺」命名せり。
更に、昭和41年10月より昭和43年9月の丸二ヶ年を以って観音堂の解体修理を行ない、その機に自動車道路を開通し、電気電話等を導入、更に昭和44年防災工事を施工し、昭和45年近年の世相に対応して修養道場「若松会館」を設立し、尚一層環境の整備と復興に進みつつある。
宝物
1、国定重要文化財 聖観音懸佛 昭和25年8月29日 付
1、国定重要文化財 板絵着色神馬図 昭和43年4月25日 付
昭和60年5月吉日
若松寺
境内に入ってすぐ左に地蔵堂です、山形百八地蔵尊第七十番札所です
観音堂前の石段です
左に本坊です、御朱印をいただくことが出来ます
最後の上りです
観音堂前です
手水舎です
大きな重要文化財の観音堂を見ました
文化財説明版です
若松寺の文化財
国指定重要文化財 若松寺観音堂 昭和37年7月1日指定
桁行5間・梁間5間・一重・入母屋造・銅版葺
寺の草創については明らかでないが、寺伝によれば、行基によって開基され、のちに慈覚大師によって山頂から現在地に移された。
現在の堂の建立時期は、様式手法からみて、室町時代末と考えられる。のち慶長16年(1611)に山形城主最上義光によって大修理が行われた。その後も小規模な修理が行われたが、昭和41年から43年にかけて全面解体修理が行われた。
室町時代末の建築様式や技法を知る貴重な文化財である。
国指定重要文化財 板絵着色神馬図 昭和43年4月25日指定
横板五板をはぎ合せて奉納額に仕立て、黒烏帽子に白の衣装の舎人が神馬を牽いている図を着色して描いた絵馬である。
左上に筆者郷目右京進貞繁奉納の銘が墨書されてある。
永禄6年(1563)に、寒河江の大江氏nお家臣である貞繁の非凡な画才を知ることができる。(縦163.0cm、横182.5cm)
国指定重要文化財 金銅聖観音像懸仏、昭和25年8月29日指定
懸仏は、円板の中央に仏像を取り付けて寺院又は神社の壁に懸け置くもので、御正体ともいわれる。
この懸仏は、直径76cmの銅製円板形の中央に聖観音の坐像を取り付けたもので、光背は頭光、身光を備えている。
弘長3年(1263)に成生庄の藤原貞綱らが奉納した。
山形県指定有形文化財 納札及び巡礼札(10枚)昭和30年8月1日指定
室町後期に延徳4年(1492)から永禄6年(1563)にわたって若松寺に納められた、いずれも木製で、長さ64cm、幅10.6cmを最大とし、長さ40cm、幅9cmを最小とする。文字は、陰刻し札の上部に種子(観音)もしくは日輪、月輪を、その下に納札の事由を記す.。
10枚中7枚は西国三十三観音巡礼を果たして納めたものである。中世の庶民の宗教生活を物語る資料である。
天童市指定有形文化財 木造行基菩薩坐像 昭和59年3月19日指定
同 木造文殊菩薩坐像 同
同 木造不動明王立像 同
同 木造狛犬(一対) 同
昭和61年1月1日
天童市教育委員会
慈恵大師堂です
鐘楼です
大風鈴です
天童市内を見下ろしました
では、次へ行きましょう