宮宿区は、朝日町役場のある地区です
役場の北西側国道287号線信号を北へ、次の信号が参道入り口です
豊龍神社は東向き参道で鎮座しています
信号の先を斜め左に進むと左に案内板が在ります(図は上が南になっています)
神社の裏側の豊龍公園の駐車場を利用するようになっています
参道を進みましょう
村社 豊龍神社です
石段を上がります
手水舎です、宮司の奥様が花を飾っておられました
東側から、目的の豊龍神社の大スギです
南側から
天然記念物標柱です
説明版です
教育・文化 朝日町エコミュージアム
豊龍神社の大スギ
県指定天然記念物(昭和40年4月12日)
根周11m、目通り幹囲7.5m。(指定時)直幹でおよそ20mの上部は落雷や風雪によって失われている。
この大スギは、平安時代、承和11年(844年)延暦寺の僧安慧によって豊龍神社創建時、御神木として植えられたと言い伝えられている。
樹齢およそ千年以上と推定され、県内でもまれに見る大杉である。
平成12年8月 朝日町教育委員会
境内南端から
北側から
北西側から
拝殿です
本殿です
*豊龍神社は、承和11年(844年)に延暦寺の僧安慧が奥州を巡り歩いて、講場をその地に開いた時、龍の神霊を祀って東五百川の鎮守として、別当東守寺を建立したと記されている。
さらに慶長年間(1596~1615年)に寒河江肥前守が社殿を再建し、明治維新の廃仏毀釈によって豊龍神社となり、東守寺住職は復職して豊嶋氏を称したとする。
明和年間(1764~1772年)に左沢在住の松山藩医であった羽柴玄倫が誌した「宗古録」には、安慧がこの地に天台の教えを広める決意をしたとき「瑞巌美麗の姫大神」があらわれ「我こそ海童神(わだつみのかみ)の娘なり」と名のり「汝の護法善神とならん」と誓ってくれたのが豊玉姫大神であるという。
さらに、安慧みずから大般若経600巻を書写して筐に納め、この山上に埋めたと述べ、山号を「宝経といい或が宝筐と作る」と書いている。(あさひまちエコミュージアムのネットより)
境内社は、豊龍山稲荷神社です、金峯山の石塔もあります
鳥居脇のモミノキの大木です
では、次へ行きましょう
豊龍の丘公園の案内図です、岸美作守の館跡です、春の桜の時期には大いに賑うそうです
役場の北西側国道287号線信号を北へ、次の信号が参道入り口です
豊龍神社は東向き参道で鎮座しています
信号の先を斜め左に進むと左に案内板が在ります(図は上が南になっています)
神社の裏側の豊龍公園の駐車場を利用するようになっています
参道を進みましょう
村社 豊龍神社です
石段を上がります
手水舎です、宮司の奥様が花を飾っておられました
東側から、目的の豊龍神社の大スギです
南側から
天然記念物標柱です
説明版です
教育・文化 朝日町エコミュージアム
豊龍神社の大スギ
県指定天然記念物(昭和40年4月12日)
根周11m、目通り幹囲7.5m。(指定時)直幹でおよそ20mの上部は落雷や風雪によって失われている。
この大スギは、平安時代、承和11年(844年)延暦寺の僧安慧によって豊龍神社創建時、御神木として植えられたと言い伝えられている。
樹齢およそ千年以上と推定され、県内でもまれに見る大杉である。
平成12年8月 朝日町教育委員会
境内南端から
北側から
北西側から
拝殿です
本殿です
*豊龍神社は、承和11年(844年)に延暦寺の僧安慧が奥州を巡り歩いて、講場をその地に開いた時、龍の神霊を祀って東五百川の鎮守として、別当東守寺を建立したと記されている。
さらに慶長年間(1596~1615年)に寒河江肥前守が社殿を再建し、明治維新の廃仏毀釈によって豊龍神社となり、東守寺住職は復職して豊嶋氏を称したとする。
明和年間(1764~1772年)に左沢在住の松山藩医であった羽柴玄倫が誌した「宗古録」には、安慧がこの地に天台の教えを広める決意をしたとき「瑞巌美麗の姫大神」があらわれ「我こそ海童神(わだつみのかみ)の娘なり」と名のり「汝の護法善神とならん」と誓ってくれたのが豊玉姫大神であるという。
さらに、安慧みずから大般若経600巻を書写して筐に納め、この山上に埋めたと述べ、山号を「宝経といい或が宝筐と作る」と書いている。(あさひまちエコミュージアムのネットより)
境内社は、豊龍山稲荷神社です、金峯山の石塔もあります
鳥居脇のモミノキの大木です
では、次へ行きましょう
豊龍の丘公園の案内図です、岸美作守の館跡です、春の桜の時期には大いに賑うそうです