田峯鍛冶沢地区は、設楽町役場の南西約7kmのところ
国道257号線を南に道成りに進みます「道の駅したら」前を過ぎて約800mで
清峰トンネルを貫けた豊川の新清嶺橋を渡て直ぐ右の道に入ります(田峯観音高勝寺や田峯十一面観音の案内板が有ります)
道成りに標高を上げて行くと西に向いたところに田峯観音の参道入口です
少し先から戻る様にして、田峯観音の広い駐車場に入りました、休憩舎や売店、飲食店もあります
駐車場から観音堂への参道を見上げました
大きな手水舎です
谷高山 高勝寺 田峯観音です
南東向き参道石段の上部に目的の鳥居杉が見えます
石段を上がって来ました
左側の杉です
北東側石段上から、目通り幹囲5.5mの巨木です
右側の杉です
南西側から、目通り幹囲5.0mの巨木です
境内に上がって二本を北側から見ました、二本を注連縄が結んでいます
本堂前参道から見ました
境内北西側の杉の大木です
正面に観音堂です
参道左手に鐘楼です
右側には狂言舞台です
愛知県指定無形民俗文化財 田峯の地狂言舞台の標柱です、文面は・・・農村の代表的な娯楽として、江戸時代後期に盛行した地狂言(地芝居)の舞台で、しかも今もって、ここで上演(毎年2月12日)されているのは価値が高い。(1863年建築)
説明版です
田峯観音奉納歌舞伎の由来
文明4年(1472)荒廃する真言宗日向寺を、田峯城主、菅沼定信(三郎左衛門・貞吉・信濃守)が再興、曹洞宗に改め日向寺を菅沼の菩提寺とした。
正保3年(1646)9月14日、この寺は炎上し、またたく間に焼失してしまった。村民大いに落胆すれども容易に再興ならず、8年を費やしてようやく承應3年(1654)4月に再建した。
この再建資材を調達したのが段戸山のとうずい(地名)であることから幕府の直轄林盗伐の疑いがかけられた。このことに関連して地元には次のような田峯観音霊験伝説が今に残る。
これによると盗伐の疑いにより、代官鳥山牛之助が実地検分に来ることになった。途方にくれた村人は、もはや田峯観音のお力にすがるより他無しとし「もし災難を救ってくれたならたとい村が三軒になるまで歌舞伎を奉納します。」と三日三晩観音堂にこもり村中祈願した。その満願の日代官は手代を連れて検分にやって来た。6月土用の暑い日だったが、いざ山に入ろうとするや一天俄にかき曇り雪がこんこんと降りだした。一行は「カヤノタワ」という所まで登ったら積雪尺を越すほどになりこれ以上進むことは困難である。「この場で検分致すぞ」と眺めたがあたりは、積る雪で真白である。その為に罪をかせられた切株の跡は発見することができず代官は「この件については証拠不充分の為無かったことにする。」と言い残し赤坂の代官所へ帰った。
村人は、観音様のおかげとその年歌舞伎を奉納して以来現在に至るもなお歌舞伎は続けられている。
設楽町
観音堂右手には、200年の古木の切株から再生した「夫婦椿」です
では、次へ行きましょう
国道257号線を南に道成りに進みます「道の駅したら」前を過ぎて約800mで
清峰トンネルを貫けた豊川の新清嶺橋を渡て直ぐ右の道に入ります(田峯観音高勝寺や田峯十一面観音の案内板が有ります)
道成りに標高を上げて行くと西に向いたところに田峯観音の参道入口です
少し先から戻る様にして、田峯観音の広い駐車場に入りました、休憩舎や売店、飲食店もあります
駐車場から観音堂への参道を見上げました
大きな手水舎です
谷高山 高勝寺 田峯観音です
南東向き参道石段の上部に目的の鳥居杉が見えます
石段を上がって来ました
左側の杉です
北東側石段上から、目通り幹囲5.5mの巨木です
右側の杉です
南西側から、目通り幹囲5.0mの巨木です
境内に上がって二本を北側から見ました、二本を注連縄が結んでいます
本堂前参道から見ました
境内北西側の杉の大木です
正面に観音堂です
参道左手に鐘楼です
右側には狂言舞台です
愛知県指定無形民俗文化財 田峯の地狂言舞台の標柱です、文面は・・・農村の代表的な娯楽として、江戸時代後期に盛行した地狂言(地芝居)の舞台で、しかも今もって、ここで上演(毎年2月12日)されているのは価値が高い。(1863年建築)
説明版です
田峯観音奉納歌舞伎の由来
文明4年(1472)荒廃する真言宗日向寺を、田峯城主、菅沼定信(三郎左衛門・貞吉・信濃守)が再興、曹洞宗に改め日向寺を菅沼の菩提寺とした。
正保3年(1646)9月14日、この寺は炎上し、またたく間に焼失してしまった。村民大いに落胆すれども容易に再興ならず、8年を費やしてようやく承應3年(1654)4月に再建した。
この再建資材を調達したのが段戸山のとうずい(地名)であることから幕府の直轄林盗伐の疑いがかけられた。このことに関連して地元には次のような田峯観音霊験伝説が今に残る。
これによると盗伐の疑いにより、代官鳥山牛之助が実地検分に来ることになった。途方にくれた村人は、もはや田峯観音のお力にすがるより他無しとし「もし災難を救ってくれたならたとい村が三軒になるまで歌舞伎を奉納します。」と三日三晩観音堂にこもり村中祈願した。その満願の日代官は手代を連れて検分にやって来た。6月土用の暑い日だったが、いざ山に入ろうとするや一天俄にかき曇り雪がこんこんと降りだした。一行は「カヤノタワ」という所まで登ったら積雪尺を越すほどになりこれ以上進むことは困難である。「この場で検分致すぞ」と眺めたがあたりは、積る雪で真白である。その為に罪をかせられた切株の跡は発見することができず代官は「この件については証拠不充分の為無かったことにする。」と言い残し赤坂の代官所へ帰った。
村人は、観音様のおかげとその年歌舞伎を奉納して以来現在に至るもなお歌舞伎は続けられている。
設楽町
観音堂右手には、200年の古木の切株から再生した「夫婦椿」です
では、次へ行きましょう