ここからは、2023年1月4日、今年最初の茨城取材分です
小森地区は、結城市役所の東約3kmのところ
駅南中央通りを南へ、文化センター南信号を左(東)へ、国道50号線結城バイパスです
結城市街地を貫けた健田信号を右(南)へ、約300mの十字路を左(東)へ
県道15号線との交差点に「ここは小森」の文字が有ります、右(南)へ出ると
県道左側に大桑神社が南向き参道で鎮座します
大桑神社です
神社前には駐車スペースが無いので、「ここは小森」の案内板のそばに車を止めさせて頂きました
結城百景です
手水舎です
説明版です
結城市指定文化財
有形文化財〈建造物〉大桑神社本殿
(平成4年3月31日指定)
天然記念物 大桑神社の欅
(昭和51年2月5日指定)
流造、銅板葺、三面を彫刻で荘厳化した本殿は、1722年(享保7)に建てられ、当初は檜皮葺で、数回の葺かえの後、1848年(嘉永元年)銅板葺になったことが、棟札により確認されています。
彫刻は、東西二面が中国の故事(東・虎渓三笑、西・光子甕割)、北面は日本神話(天の岩戸)を題材にしています。
また、棟札には、建造にあたった小森村の彫物大工や番匠、この地方の棟梁の名等が記されています。
大桑神社の成立については、古代、東国養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が、養蚕・農業の神、稚産霊尊を祭神として、北方の大氷河原に創建、この辺り一帯を大桑郷と名付けたことに始まり、その後、洪水により流失、1479年(文明11)今の地に移ったと伝わります。
そして、南北朝時代には、結城家7代直朝が、関城攻略に際し、戦勝を祈願した結城七社の一つに数えられています。
小森という地名は、阿波斎部の伝えた蚕種を守り、養蚕・織物が盛んであったことから、いつとはなしに、この辺には「蚕守(このり)」と称され、中世結城氏の時代には、合戦に備えてこの地に兵を篭らせたことから。「篭(こもり)」と称されたことに由来すると伝わります。
また、境内の欅群は、大きいものは、目通り直径1.7m、根回り8mを超え、樹齢350年以上と推定される、市内でも最大級の欅で、天然記念物に指定されています。
(結城市教育委員会)
参道左手にケヤキが並びます
一番手前のケヤキの大木です
目的のケヤキを南側から
南東側から、目通り幹囲5.1mの巨木です
北東側から
西側から
南西側から見上げました
拝殿です
本殿です
では、次へ行きましょう
小森地区は、結城市役所の東約3kmのところ
駅南中央通りを南へ、文化センター南信号を左(東)へ、国道50号線結城バイパスです
結城市街地を貫けた健田信号を右(南)へ、約300mの十字路を左(東)へ
県道15号線との交差点に「ここは小森」の文字が有ります、右(南)へ出ると
県道左側に大桑神社が南向き参道で鎮座します
大桑神社です
神社前には駐車スペースが無いので、「ここは小森」の案内板のそばに車を止めさせて頂きました
結城百景です
手水舎です
説明版です
結城市指定文化財
有形文化財〈建造物〉大桑神社本殿
(平成4年3月31日指定)
天然記念物 大桑神社の欅
(昭和51年2月5日指定)
流造、銅板葺、三面を彫刻で荘厳化した本殿は、1722年(享保7)に建てられ、当初は檜皮葺で、数回の葺かえの後、1848年(嘉永元年)銅板葺になったことが、棟札により確認されています。
彫刻は、東西二面が中国の故事(東・虎渓三笑、西・光子甕割)、北面は日本神話(天の岩戸)を題材にしています。
また、棟札には、建造にあたった小森村の彫物大工や番匠、この地方の棟梁の名等が記されています。
大桑神社の成立については、古代、東国養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が、養蚕・農業の神、稚産霊尊を祭神として、北方の大氷河原に創建、この辺り一帯を大桑郷と名付けたことに始まり、その後、洪水により流失、1479年(文明11)今の地に移ったと伝わります。
そして、南北朝時代には、結城家7代直朝が、関城攻略に際し、戦勝を祈願した結城七社の一つに数えられています。
小森という地名は、阿波斎部の伝えた蚕種を守り、養蚕・織物が盛んであったことから、いつとはなしに、この辺には「蚕守(このり)」と称され、中世結城氏の時代には、合戦に備えてこの地に兵を篭らせたことから。「篭(こもり)」と称されたことに由来すると伝わります。
また、境内の欅群は、大きいものは、目通り直径1.7m、根回り8mを超え、樹齢350年以上と推定される、市内でも最大級の欅で、天然記念物に指定されています。
(結城市教育委員会)
参道左手にケヤキが並びます
一番手前のケヤキの大木です
目的のケヤキを南側から
南東側から、目通り幹囲5.1mの巨木です
北東側から
西側から
南西側から見上げました
拝殿です
本殿です
では、次へ行きましょう