作手鴨ヶ谷地区は、新城市役所作手総合支所の東約2kmのところ
国道301号線を南へ、作手運輸の先の信号を左(東)へ県道436号線です
間も無く左手に白鳥神社前を過ぎ、約1.1kmで甘楽寺の案内板が有りますので左(北)へ入ります
案内板です
参道脇の駐車場に車を止めて、参道を進みます
臨済宗永源寺派 翔龍山 甘泉寺です
門を潜って参道を進みます
谷沿いに付けられた参道です
六地蔵様です
手水です、綺麗な水が出ています
緩く登って行きます
参道をスギの大木が覆います
一番奥のスギが一番太いものです、目通り幹4.5m(目測)の大木です
境内端に立つ目的のコウヤマキを見上げました
山門です、入口は城の小口のように曲がっています
鐘楼です
本堂です
説明版です
翔龍山 甘泉寺
所在地 作手村大字鴨ケ谷字門前
宗派 臨済宗(永源寺派)
本尊 釈迦如来
由来 当山は、応安3年(1370年)に臨済正宗20世弥天永釈大和尚により開山された。
時の将軍足利義満公の帰依もあり、御朱印高48石、山林境内20余町歩の寄進があった。
和尚の死後、応永22年(1316年)称光天皇より「見性悟心禅師」の謚号を賜る。
その後、第42世朴宗和尚が一堂を建て、開山禅師の遺像をを安置し開山堂とした。
境内には、織田信長が葬ったといわれる長篠合戦の勲功者、鳥居強右衛門勝商の墓碑があり、寺内には位牌が祭られている。
[指定文化財]
●コウヤマキ (国天然記念物)
●涅槃図 (県文化財)
作手村
*作手村は、2005年(平成17年)10月1日、(旧)新城市、南設楽郡鳳来町と合併し、改めて新城市が発足しました。現在旧村域は全て「新城市作手xx」と呼称して旧村名を残しており、旧村域全体で新城市の作手地域自治区を構成しています。
本堂前からコウヤマキです
説明版です
国指定天然記念物 1972年3月30日指定
コウヤマキ Sciadopitys vertcillata SIEB et ZUCC
一科一族一種の日本特産の常緑高木である。ただヨーロッパの古い地層(第三紀層)から化石として産することから、その時代には広く分布していたものと思われる。
生きている時は水を多く含み火に強いが、枯れると水湿に耐える世界の珍木である。花は4月上旬に咲き、雌花と雄花をつけ、10月頃雌花に毬果をつける。
甘泉寺のコウヤマキは長い樹令を重ね、優れた美観と偉容をそなえ世界的にも類をみない名木である。
樹令 推定600年、樹高 27m、目通幹囲 6m30cm、根廻り 8m55cm
*木の頂部分が枯れてしまって、樹高がかなり低くなってしまっていました、台風による被害を受けてしまったようです。
東側から
北東側から
北西側から
西側から見上げました
鳥居強右衛門勝商と婦人の墓所です
説明版です
鳥居強右衛門勝商の墓
甲州の騎馬軍団1万5千は、武田勝頼を総代大将として三河に侵攻し、長篠城を包囲した。時に天正3年(1575)4月であった。
この時長篠場内500の兵を率いて防戦したのは、作手 亀山城主 奥平美作守貞能の嫡男貞昌(後の信昌)で、時に21才であった。攻防20余日、5月14日城中の食糧は尽きてきた。危急に際して援軍懇議の使者となって、岡崎の家康のもとへ走ったのが、強右衛門である。
彼は深夜敵の包囲網を破り豊川の急流を泳いで脱出し、岡崎に至りその使命を果たして帰城途中、篠場野で捕えられた。16日の夜磔けの上で数本の槍に刺され、壮絶な最後を遂げた。
戦国乱世には味方をを救うためみずからを犠牲にして、その死にざまを大功にした。興亡流転の著しい騒乱の世の武将の理想とする壮烈な死であった。
時に強右衛門36才豊川市市田の出身である。因に、妻は作手村市場の生まれである。
辞世「吾が君の 命にかわる 玉の緒を 何に厭いけん 武士の道」
観光案内図で確認しました、右端の⑦の部分です
では、次へ行きましょ
国道301号線を南へ、作手運輸の先の信号を左(東)へ県道436号線です
間も無く左手に白鳥神社前を過ぎ、約1.1kmで甘楽寺の案内板が有りますので左(北)へ入ります
案内板です
参道脇の駐車場に車を止めて、参道を進みます
臨済宗永源寺派 翔龍山 甘泉寺です
門を潜って参道を進みます
谷沿いに付けられた参道です
六地蔵様です
手水です、綺麗な水が出ています
緩く登って行きます
参道をスギの大木が覆います
一番奥のスギが一番太いものです、目通り幹4.5m(目測)の大木です
境内端に立つ目的のコウヤマキを見上げました
山門です、入口は城の小口のように曲がっています
鐘楼です
本堂です
説明版です
翔龍山 甘泉寺
所在地 作手村大字鴨ケ谷字門前
宗派 臨済宗(永源寺派)
本尊 釈迦如来
由来 当山は、応安3年(1370年)に臨済正宗20世弥天永釈大和尚により開山された。
時の将軍足利義満公の帰依もあり、御朱印高48石、山林境内20余町歩の寄進があった。
和尚の死後、応永22年(1316年)称光天皇より「見性悟心禅師」の謚号を賜る。
その後、第42世朴宗和尚が一堂を建て、開山禅師の遺像をを安置し開山堂とした。
境内には、織田信長が葬ったといわれる長篠合戦の勲功者、鳥居強右衛門勝商の墓碑があり、寺内には位牌が祭られている。
[指定文化財]
●コウヤマキ (国天然記念物)
●涅槃図 (県文化財)
作手村
*作手村は、2005年(平成17年)10月1日、(旧)新城市、南設楽郡鳳来町と合併し、改めて新城市が発足しました。現在旧村域は全て「新城市作手xx」と呼称して旧村名を残しており、旧村域全体で新城市の作手地域自治区を構成しています。
本堂前からコウヤマキです
説明版です
国指定天然記念物 1972年3月30日指定
コウヤマキ Sciadopitys vertcillata SIEB et ZUCC
一科一族一種の日本特産の常緑高木である。ただヨーロッパの古い地層(第三紀層)から化石として産することから、その時代には広く分布していたものと思われる。
生きている時は水を多く含み火に強いが、枯れると水湿に耐える世界の珍木である。花は4月上旬に咲き、雌花と雄花をつけ、10月頃雌花に毬果をつける。
甘泉寺のコウヤマキは長い樹令を重ね、優れた美観と偉容をそなえ世界的にも類をみない名木である。
樹令 推定600年、樹高 27m、目通幹囲 6m30cm、根廻り 8m55cm
*木の頂部分が枯れてしまって、樹高がかなり低くなってしまっていました、台風による被害を受けてしまったようです。
東側から
北東側から
北西側から
西側から見上げました
鳥居強右衛門勝商と婦人の墓所です
説明版です
鳥居強右衛門勝商の墓
甲州の騎馬軍団1万5千は、武田勝頼を総代大将として三河に侵攻し、長篠城を包囲した。時に天正3年(1575)4月であった。
この時長篠場内500の兵を率いて防戦したのは、作手 亀山城主 奥平美作守貞能の嫡男貞昌(後の信昌)で、時に21才であった。攻防20余日、5月14日城中の食糧は尽きてきた。危急に際して援軍懇議の使者となって、岡崎の家康のもとへ走ったのが、強右衛門である。
彼は深夜敵の包囲網を破り豊川の急流を泳いで脱出し、岡崎に至りその使命を果たして帰城途中、篠場野で捕えられた。16日の夜磔けの上で数本の槍に刺され、壮絶な最後を遂げた。
戦国乱世には味方をを救うためみずからを犠牲にして、その死にざまを大功にした。興亡流転の著しい騒乱の世の武将の理想とする壮烈な死であった。
時に強右衛門36才豊川市市田の出身である。因に、妻は作手村市場の生まれである。
辞世「吾が君の 命にかわる 玉の緒を 何に厭いけん 武士の道」
観光案内図で確認しました、右端の⑦の部分です
では、次へ行きましょ