作手清武の文殊山城址は、新城市役所作手総合支所の西南西側の比高約110mの山の上です
新城市役所作手総合支所の南側の通りを西へ
保健センター前に文殊山城跡への案内板が有ります
城跡の公園化工事?で使用されたと思われる道路(舗装路)を登り詰め、車を止めることが出来ました
すぐ上に、文殊山山頂の城跡に建つ展望台が見えました
帯郭のようになっています、シャクナゲの木が沢山あります
「徳川家康公ゆかりの地」の幟がにぎやかです
本丸へ上がりましょう
文殊堂です
南側に下から見えた展望台です
説明版です
文殊山城跡
●所在地 愛知県新城市作手清武
●内容 この城跡は、亀山城主の奥平氏の砦城で、元亀年間(1570~72)に武田氏との和睦の証として、塞之神城とともに築く筈であったが、延引したため武田氏より強談に合い奥平氏が一夜にしてこれを築いたので一夜城とも言われる。
中央の文殊菩薩は、江戸時代に地元有志により奉納された石像で、台石には「西須山村東市場村」と刻まれており当時村界であったことが分かる。
また、宝篋印塔左手に足助町有志が奉納した笠付の円柱石塔があり、この山は近世から近代にかけた信仰の山であったことを示している。
この文殊堂は善福寺の奥之院で文殊菩薩は知恵の文殊とも言われ卯年生まれの守護仏で縁日は毎月25日である。
唱え真言「おん・あらはしゃ・のう」合掌
新城市教育委員会
東側には宝篋印塔です
本丸跡北側には土塁が廻っています
東側に目的のブナです
南東側から
「保護樹 ブナ」の標柱です
北側の土塁上から、目通り幹囲4.9mの大木です
東側の帯郭から見上げました
塞之神城跡は左(東)の尾根続きに、善福寺は南西下のボダイジュのところに降りて行くようです
では、次へ行きましょう
新城市役所作手総合支所の南側の通りを西へ
保健センター前に文殊山城跡への案内板が有ります
城跡の公園化工事?で使用されたと思われる道路(舗装路)を登り詰め、車を止めることが出来ました
すぐ上に、文殊山山頂の城跡に建つ展望台が見えました
帯郭のようになっています、シャクナゲの木が沢山あります
「徳川家康公ゆかりの地」の幟がにぎやかです
本丸へ上がりましょう
文殊堂です
南側に下から見えた展望台です
説明版です
文殊山城跡
●所在地 愛知県新城市作手清武
●内容 この城跡は、亀山城主の奥平氏の砦城で、元亀年間(1570~72)に武田氏との和睦の証として、塞之神城とともに築く筈であったが、延引したため武田氏より強談に合い奥平氏が一夜にしてこれを築いたので一夜城とも言われる。
中央の文殊菩薩は、江戸時代に地元有志により奉納された石像で、台石には「西須山村東市場村」と刻まれており当時村界であったことが分かる。
また、宝篋印塔左手に足助町有志が奉納した笠付の円柱石塔があり、この山は近世から近代にかけた信仰の山であったことを示している。
この文殊堂は善福寺の奥之院で文殊菩薩は知恵の文殊とも言われ卯年生まれの守護仏で縁日は毎月25日である。
唱え真言「おん・あらはしゃ・のう」合掌
新城市教育委員会
東側には宝篋印塔です
本丸跡北側には土塁が廻っています
東側に目的のブナです
南東側から
「保護樹 ブナ」の標柱です
北側の土塁上から、目通り幹囲4.9mの大木です
東側の帯郭から見上げました
塞之神城跡は左(東)の尾根続きに、善福寺は南西下のボダイジュのところに降りて行くようです
では、次へ行きましょう