裏野地区は、新城市役所の北北東約400mの市街地です
市役所北側の中町信号から東へ、県道439号線です。約200mで左(北)へ入ると
永住寺の参道です、山門前を右斜めに進むと駐車場が有りますので利用させて頂きました
参道入口です
曹洞宗 永住禅寺です
説明版です
永住寺
正式名ー曹洞宗 延命山永住寺
本尊ー-釈迦牟尼仏
由緒ー-大谷城主菅沼定廣は、永正10年(1513)弟の鵬雲文翼に平井郷に永住寺を建立させしめた。
元亀4年兵火により焼失したので作手亀山城主奥平貞能が、翌天正2年現地の拡大な寺域を定めて建立した。
後、慶長11年水野分長の入部によりその信仰篤く水野2代、ついで菅沼11代の帰依を得た。
その後も数多壇越の力によって今日に及んだ。
宝物ー-〇古文書類:今川義元証文、今川氏真証文、菅沼定継証文、菅沼定実証文他
〇仏像:大権修利菩薩椅像(木造)、達磨大師椅像(木造)、馬頭観音立像(木造)、賓頭盧尊者座像(木造)等。
参道右側の目的のクロマツです
西側から、目通り幹囲4.7mの大木です
北西側から
参道左側にも二本のクロマツの大木です
句碑です
説明版です
太田白雪句碑
新城市裏野
白雪は寛文元(1661)年、新城(現在の新城市町並)の庄屋に生まれ、家業を継いだ。
若くから俳諧に志し、元禄4(1691)年10月、芭蕉を鳳来寺へ案内した頃から俳諧の精進は目覚ましく、地方俳壇の中心となった。
白雪はまた、郷土史の研究にも没頭し、数々の著書を残した。
老後は、孤独のうちにも信仰と古典研究に生きて、享保10(1735)年6月、75才で死去した。
句碑は、白雪の225年忌にあたる昭和35年、その菩提寺である当寺に建てたものである。
なお、墓もこの寺の墓域のほぼ中央にある。
山雀の 胡桃まはさん 雪の宿 白雪
昭和61年8月1日 新城市教育委員会
*山雀は「ヤマガラ」のことです。
山門です
参道を進みます
参道左手に石仏が並びます
大きな本堂です
では、次へ行きましょう
市役所北側の中町信号から東へ、県道439号線です。約200mで左(北)へ入ると
永住寺の参道です、山門前を右斜めに進むと駐車場が有りますので利用させて頂きました
参道入口です
曹洞宗 永住禅寺です
説明版です
永住寺
正式名ー曹洞宗 延命山永住寺
本尊ー-釈迦牟尼仏
由緒ー-大谷城主菅沼定廣は、永正10年(1513)弟の鵬雲文翼に平井郷に永住寺を建立させしめた。
元亀4年兵火により焼失したので作手亀山城主奥平貞能が、翌天正2年現地の拡大な寺域を定めて建立した。
後、慶長11年水野分長の入部によりその信仰篤く水野2代、ついで菅沼11代の帰依を得た。
その後も数多壇越の力によって今日に及んだ。
宝物ー-〇古文書類:今川義元証文、今川氏真証文、菅沼定継証文、菅沼定実証文他
〇仏像:大権修利菩薩椅像(木造)、達磨大師椅像(木造)、馬頭観音立像(木造)、賓頭盧尊者座像(木造)等。
参道右側の目的のクロマツです
西側から、目通り幹囲4.7mの大木です
北西側から
参道左側にも二本のクロマツの大木です
句碑です
説明版です
太田白雪句碑
新城市裏野
白雪は寛文元(1661)年、新城(現在の新城市町並)の庄屋に生まれ、家業を継いだ。
若くから俳諧に志し、元禄4(1691)年10月、芭蕉を鳳来寺へ案内した頃から俳諧の精進は目覚ましく、地方俳壇の中心となった。
白雪はまた、郷土史の研究にも没頭し、数々の著書を残した。
老後は、孤独のうちにも信仰と古典研究に生きて、享保10(1735)年6月、75才で死去した。
句碑は、白雪の225年忌にあたる昭和35年、その菩提寺である当寺に建てたものである。
なお、墓もこの寺の墓域のほぼ中央にある。
山雀の 胡桃まはさん 雪の宿 白雪
昭和61年8月1日 新城市教育委員会
*山雀は「ヤマガラ」のことです。
山門です
参道を進みます
参道左手に石仏が並びます
大きな本堂です
では、次へ行きましょう