開智2丁目は、松本市役所の北東約700mのところ
松本城公園の東側にある松本市役所から北へ濠沿いを約100mの「市役所北」信号を左(西)へ
約200mの「松本神社前」信号を右(北)へ入り、約200mで突き当りに開智小学校です
左へ、小学校校庭西側を北へ進むと小学校の北側に「旧開智学校」があります
現在、旧開智学校は改修工事中ですので、
駐車場を利用させて頂いて、周辺から松本城付近まで取材させて頂きました
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小学校西側フェンスに「松本市まちめぐり案内図」です
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南側から目的にしていたポプラです、ご覧のように地上50cm付近で幹を切られてしまっていますが、脇から枝を伸ばしています
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西側から
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北側から、元は高さ約12m、目通り幹囲5.8mの巨木でした、脇枝が大きくなってくれる事を期待しましょう
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旧開智学校です、現在改修工事中(再開は令和6年秋ごろを予定しています)ですが外観は道路から見る事が出来ます
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敷地南西隅に展示が有ります
1、開智学校開校まで
江戸時代の学校は、藩が運営し武士の子どもが学んだ藩校と一般庶民が多く学んだ寺子屋、ほかに儒学者などが開いた私塾といったみのがありました。松本藩では藩校崇教館を整備して朱子学を奨励しており、学問を大切にしてきたと言われています。
近代になると早くから学校の必要性が叫ばれ、近代的な学校の整備が全国各地で始められるようになります。
松本でも藩校崇教館が松本藩学、松本県学と名前を変えながら徐々に近代的な学校へと整備されていきました。
明治9年に旧長野県と合併し現在の長野県が成立すると、その翌年に筑摩県学が設置され、教育権令とも称された永山盛輝のもと学校教育の普及が一気に進みました。
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2、開智学校開校
開智学校は明治6年(1873)5月6日に開校しました。開校時からすでに1千人を超える児童数がおり、県下一の大規模な学校として盛大な開校式が催されました。
筑摩県学を母体として開校した開智学校は、教員数も多く教材の整備などがとても進んだ学校でした。多くの学校が先生1人しかいなかった当時、開智学校では正教員だけで30人以上もおり、長野県歌「信濃の国」の作詞者である浅井洌をはじめ優秀な教員がそろっていました。
開校当初の一般的な小学校の授業は、江戸時代以来の読み・書き・計算とあまり変わりませんでした。しかし、開智学校では「英学課」を設置して英語教育にもいち早く取り組んだ、先進的な教育を実践しました。英学課の教員は東京から立派な先生を招いており、新しい時代を生きる子どものために学びの整備に力を入れていました。
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3、疑洋風校舎の誕生
明治6年(1873)に開校した開智学校は、当初、筑摩県学の校舎となっていた全久院という旧寺院の建物を校舎としていました。しかし、新しい時代にふさわしい校舎が必要であると、開校当初から新校舎建設の動きが始まったといいます。
そうして明治9年に約1年の工事期間を経て、現在国宝に指定されている疑洋風校舎が竣工しました。
校舎の設計施工は地元大工の棟梁立石清重が担い、約1万1千円(現在のお金で約2億円※教員の初任給比較から)に上った工事費の約7割は地元の人たちが出しあって用意しました。
完成当時から「建築の出来は目今日本第一等」と称賛されており、竣工式典後に行われた一般公開には連日数千人の人が押し寄せたと言います。
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4、文化財指定と移築
明治9年(1876)に竣工した疑洋風校舎は、その後の水害によってたびたび壊れてしまいますが、その都度修理し大切に使われ続けました。
明治初期にできた疑洋風校舎は学校としては使いづらかったですが、卒業生を中心に早くから”校舎を大切にしたい”という意識が生まれており、90年近くもの間小学校の校舎であり続けました。
昭和36年(1961)には、明治初期の学校建築の様子をよく表している点が評価され重要文化財に指定されました。
昭和34年の台風による水害を契機に、開智学校脇を流れる女鳥羽川を拡幅する工事の実施が決まりました。校地を大きく削られることになった開智学校は、新校舎建築に伴い移転することになりました。
同38年から現在地での授業が開始となり、旧校舎となった重要文化財の校舎も現在地へ移転しました。その際に明治9年の竣工当初の姿に戻す復元工事も実施され、無くなっていた天使や竜の看板も復活し、往時の姿を取り戻しました。
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5、地域の宝から国の宝へ
旧開智学校校舎は、令和元年(2019)930日に国宝に指定されました。
近代学校建築では初めての国宝指定であり、近代建築に範囲を広げても全国で3件目の指定となりました。
国宝指定にあたり評価された点は主に2つです。
一つは、近代化を推進した開化の日本において、どのように洋風建築を受け入れていったかを良く示している点です。
二つ目は、近代教育最初期における校舎としての理想形を体現している点です。
これらはいずれも校舎建設に関わった人々が、新しい時代にふさわしく、子どもたちに最高の環境を用意したいという強い想いから生じたものです。
そして、完成した疑洋風校舎をずっと大切にしてきた歴代の人々の思いも、国宝の指定に至った大きな要因です。
*旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)・旧富岡製糸場繰糸所、東置繭所及び西置繭所に続く近代建築3番目の国宝指定となりました
では、
車をおいたまま次へ行きましょう
松本城公園の東側にある松本市役所から北へ濠沿いを約100mの「市役所北」信号を左(西)へ
約200mの「松本神社前」信号を右(北)へ入り、約200mで突き当りに開智小学校です
左へ、小学校校庭西側を北へ進むと小学校の北側に「旧開智学校」があります
現在、旧開智学校は改修工事中ですので、
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小学校西側フェンスに「松本市まちめぐり案内図」です
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南側から目的にしていたポプラです、ご覧のように地上50cm付近で幹を切られてしまっていますが、脇から枝を伸ばしています
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西側から
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北側から、元は高さ約12m、目通り幹囲5.8mの巨木でした、脇枝が大きくなってくれる事を期待しましょう
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旧開智学校です、現在改修工事中(再開は令和6年秋ごろを予定しています)ですが外観は道路から見る事が出来ます
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敷地南西隅に展示が有ります
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1、開智学校開校まで
江戸時代の学校は、藩が運営し武士の子どもが学んだ藩校と一般庶民が多く学んだ寺子屋、ほかに儒学者などが開いた私塾といったみのがありました。松本藩では藩校崇教館を整備して朱子学を奨励しており、学問を大切にしてきたと言われています。
近代になると早くから学校の必要性が叫ばれ、近代的な学校の整備が全国各地で始められるようになります。
松本でも藩校崇教館が松本藩学、松本県学と名前を変えながら徐々に近代的な学校へと整備されていきました。
明治9年に旧長野県と合併し現在の長野県が成立すると、その翌年に筑摩県学が設置され、教育権令とも称された永山盛輝のもと学校教育の普及が一気に進みました。
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2、開智学校開校
開智学校は明治6年(1873)5月6日に開校しました。開校時からすでに1千人を超える児童数がおり、県下一の大規模な学校として盛大な開校式が催されました。
筑摩県学を母体として開校した開智学校は、教員数も多く教材の整備などがとても進んだ学校でした。多くの学校が先生1人しかいなかった当時、開智学校では正教員だけで30人以上もおり、長野県歌「信濃の国」の作詞者である浅井洌をはじめ優秀な教員がそろっていました。
開校当初の一般的な小学校の授業は、江戸時代以来の読み・書き・計算とあまり変わりませんでした。しかし、開智学校では「英学課」を設置して英語教育にもいち早く取り組んだ、先進的な教育を実践しました。英学課の教員は東京から立派な先生を招いており、新しい時代を生きる子どものために学びの整備に力を入れていました。
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3、疑洋風校舎の誕生
明治6年(1873)に開校した開智学校は、当初、筑摩県学の校舎となっていた全久院という旧寺院の建物を校舎としていました。しかし、新しい時代にふさわしい校舎が必要であると、開校当初から新校舎建設の動きが始まったといいます。
そうして明治9年に約1年の工事期間を経て、現在国宝に指定されている疑洋風校舎が竣工しました。
校舎の設計施工は地元大工の棟梁立石清重が担い、約1万1千円(現在のお金で約2億円※教員の初任給比較から)に上った工事費の約7割は地元の人たちが出しあって用意しました。
完成当時から「建築の出来は目今日本第一等」と称賛されており、竣工式典後に行われた一般公開には連日数千人の人が押し寄せたと言います。
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4、文化財指定と移築
明治9年(1876)に竣工した疑洋風校舎は、その後の水害によってたびたび壊れてしまいますが、その都度修理し大切に使われ続けました。
明治初期にできた疑洋風校舎は学校としては使いづらかったですが、卒業生を中心に早くから”校舎を大切にしたい”という意識が生まれており、90年近くもの間小学校の校舎であり続けました。
昭和36年(1961)には、明治初期の学校建築の様子をよく表している点が評価され重要文化財に指定されました。
昭和34年の台風による水害を契機に、開智学校脇を流れる女鳥羽川を拡幅する工事の実施が決まりました。校地を大きく削られることになった開智学校は、新校舎建築に伴い移転することになりました。
同38年から現在地での授業が開始となり、旧校舎となった重要文化財の校舎も現在地へ移転しました。その際に明治9年の竣工当初の姿に戻す復元工事も実施され、無くなっていた天使や竜の看板も復活し、往時の姿を取り戻しました。
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5、地域の宝から国の宝へ
旧開智学校校舎は、令和元年(2019)930日に国宝に指定されました。
近代学校建築では初めての国宝指定であり、近代建築に範囲を広げても全国で3件目の指定となりました。
国宝指定にあたり評価された点は主に2つです。
一つは、近代化を推進した開化の日本において、どのように洋風建築を受け入れていったかを良く示している点です。
二つ目は、近代教育最初期における校舎としての理想形を体現している点です。
これらはいずれも校舎建設に関わった人々が、新しい時代にふさわしく、子どもたちに最高の環境を用意したいという強い想いから生じたものです。
そして、完成した疑洋風校舎をずっと大切にしてきた歴代の人々の思いも、国宝の指定に至った大きな要因です。
*旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)・旧富岡製糸場繰糸所、東置繭所及び西置繭所に続く近代建築3番目の国宝指定となりました
では、
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