ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県朝霞市、栄町4丁目「りっくんランド/陸上自衛隊 広報センター」続きです!!

2024-12-23 18:54:45 | ドライブ
 前回の「りっくんランド/陸上自衛隊 広報センター」の続きです

 外展示場の北側には西側から


 「94式 水際地雷敷設装置」です
 全長 11.8m、 全幅 2.8m(陸上姿勢)・4.0m(水上姿勢)、 全高3.5m
 全備重量 16トン(空車)、 乗員3人
 最高速度 50km/h(陸上車輪走行)、 11km/h〈6ノット〉(水中プロペラ推進)
 制作   日立造船


 「87式 自走高射機関砲」です
 乗員3人、全高7.99m、全幅3.18m、全高4.4m(起立)、全備重量約38トン
 速度 約53km/h、 武装 35mm(エリコンKDA)高射機関砲・・・2
 制作 三菱重工(車体)・日本製鋼所(砲塔)
 *エリコンKDAとは、第二次世界大戦終結直後、スイスのエリコン社(現在はドイツのラインメタル社に吸収合併)は、新しい砲弾規格である20mm×128弾を開発し、続いて1950年代初頭に、これを大口径化して開発されたのが、35mm×228弾である。
 35mm×228弾は、1950年代後半より、エリコンKDA/KDB35mm機関砲とともに運用を開始しました。
 同砲を採用したGDFシリーズの牽引式高射機関砲は、日本の陸上自衛隊が35mm2連装高射機関砲Lー90として採用したのを初めとして、世界的に広く採用されました。


 「89式 装甲戦闘車」です
 「愛称:ライトタイガー」
 乗員 10人、全備重量 約26.5トン、全長 6.8m、全幅 3.2m、全高 2.5m
 最高速度 約70km/h、航続距離 約400km
 装備 35mm機関砲・・・1、74式車載7.62mm機関銃・・・1
    79式対舟艇対洗車誘導弾発射装置・・・2
 制作 日本製鋼所(35mm機関砲)、三菱重工(砲塔・車体)、川崎重工(誘導弾発射装置)


 「74式 戦車」です
 乗員 4人、全備重量 約38トン、全長 9.41m、全幅 3.18m
 全高 2.2m(砲塔上面まで標準姿勢)、最低地上高 0.40m地上高変換可能
 登坂能力 約30°、旋回性能 超信地、最高速度 53km/h、行動距離 約300km
 武装 105mm戦車砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、74式車載7.62mm機関銃・・・1
 制作 三菱重工(砲塔・車体)、日本製鋼所(105mm砲)


 「90式 戦車」です
 乗員 3人、重量 50トン、全長 9.8m、全幅 3.4m(スカート付)、全高 2.3m
 登坂能力 約30°、最高速度 70km/h
 武装 120mm滑腔砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、7.62mm機関銃・・・1
 制作 三菱重工(砲塔・車体)、日本製鋼所(120mm砲) 


 現在陸上自衛隊主力の「10式 戦車」(ひとまるしきせんしゃ)ですが、2010年の調達開始から14年が経過しています
 乗員 3人、重量 43.3トン、全長 9.4m、全幅 3.1m、全高 2.3m
 最高速度 70km/h
 武装 120mm滑腔砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、7.62mm機関銃・・・1
 制作 三菱重工・日本製鋼所

 外の展示場から更に南西側へ


 駐車場端にポツンと一台だけ「水陸両用車(AAV7)」です
   「愛称:アムトラック」
 乗員 3人+21人・・・乗員3名戦闘員21名と言うことでしょうか
 全長 8.2m、全幅 3.3m、全高 3.3m、全備重量 21.8トン・・・重量が軽いのは水の上に浮かなければなりませんからね~
 最高速度(陸上)72km/h・最高速度(海上)13km/h(8ノット少々ってところですね)
 武装  12.7mm重機関銃・・・1、 40mm自動てき弾銃・・・1
 制作  BAEシステムズ社・・・1999年に設立されたイギリスの国防・情報セキュリティ・航空宇宙関連企業で、2020年現在も防衛関連企業として世界7位の事業規模を誇る企業です。

 更に南西側の「振武臺館」へ行ってみましょう

 掲示板の案内です
   振武臺
 戦前、ここ朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在しておりました。
 陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)にありましたが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転してまいりました。
 陸軍士官のなるには予科で約2年、その後の本科で約1年8ヶ月の教育訓練を受けなければなりませんでした。
 修学後、部隊での見習士官を経て少尉に任官するという制度となっておりました。
 また航空要員は予科終了後、入間(埼玉)いありました陸軍航空士官学校へと進みました。
 朝霞では終戦の昭和20年8月まで、57期生から61期生まで19147名の学生が学びました。
 振武臺記念館では当時の貴重な資料や所縁の品などを展示、古墳時代以来の朝霞の歴史と合わせて皆様に紹介しております。
 「振武臺」という名前の由来は昭和18年12月9日、昭和天皇が当校に行幸された際、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いからお名付けになられた学校の別称です。
 また本記念館の建物は、陸軍士官学校(本科)にありました「皇族舎」(皇族男子学生の特別宿舎)を昭和53年、隊員の手によって座間から移築した歴史的建造物です。

 西側へ回り込むと「振武臺」入口です

 説明版です
   陸軍豫科士官學校正門門柱
 この門柱は、陸軍豫科士官學校が昭和16年(1941年)10月から終戦まで、ここ朝霞の地で使用していたものであり、昭和53年(1978年)8月に、現在地から南へ約1kmにあった当時の正門を移設して保存しているものです。

 振武臺記念館です

 説明版です
   振武臺記念館
 この振武臺記念館は、昭和53年(1978年)3月に神奈川県座間市にありました陸軍士官學校の皇族舎を隊員の手によって解体移設した建物で、市ヶ谷から朝霞に移転した陸軍豫科士官學校に関する資料等を中心に展示されています。
 振武臺の由来は、昭和18年(1943年)12月、昭和天皇陛下が行幸された折に「将来益々 武を振るえ」と言った意味からお名付になられたそうです。
  注:皇族舎とは
 皇族(男子)が、陸軍士官學校や海軍兵學校で将校教育を受ける際に用意された特別の宿舎であり、本皇族舎は東久邇宮殿下〈ひがしくにのみやでんか〉(54期生)や賀陽宮殿下〈かやのみやでんか〉(55期生)が使用したと記録に残っています。


 「九九式十糎山砲」です
 (99式10せんちさんぽう)
 大日本帝国陸軍が1939年(昭和14年)に制式化した口径105mmの山砲です。
 日中戦争当時、中国軍からろ獲した105mm砲(仏製)を再設計し、分解運搬ができるように改良したものです。
 通常馬2頭で運搬しますが、悪路等では分解して10頭の馬を使用していました。
 最大で約7km(所沢インター付近まで)、有効射程は約4kmの射撃が可能です。
     昭和16年大阪陸軍造兵廠製

 *振武臺記念館の中の展示も見たいところでしたが、午前中の終了時間11時30分が迫っているので、戻ることにしました。

 では、次へ行きましょう
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埼玉県朝霞市、栄町4丁目「りっくんランド/陸上自衛隊 広報センター」です!!

2024-12-23 06:30:03 | ドライブ
 りっくんランド/陸上自衛隊 広報センターには、2015年5月以来の3回目の訪問(ブログ投稿)です

 陸上自衛隊朝霞駐屯地の国道254号線(川越街道)沿いにあります

 朝霞駐屯地は、いろいろな行事の度に総理大臣が出席するので、国道254号線は交通規制が行われたりもします

 国道254号線の「朝霞自衛隊」信号(北北東側)から入って直ぐ検問前を右へ進んで駐車場です

 陸上自衛隊 広報センターです


 駐車場脇に展示されているのは「96式 装輪装甲車」です
 日の丸を着けてイラク戦争後の支援活動で活躍した「愛称:クーガー」
 乗員10人、全備重量約14.5トン、全長6.84m、全幅2.48m、全高1.85m
 最低地上高0.45m、登坂能力約30°、最高速度100/h、行動距離500km以上
 装備96式40mm自動てき弾銃または12.7mm重機関銃・・・1
 制作 小松製作所
 *この96式装輪装甲車の後継機種が、一回り大きい実績のあるフィンランドのパトリア社製のAMVに決定した事でも話題になっていました


 こちらもイラク戦争後の支援活動で活躍した「軽装甲機動車」です
 「愛称:ライトアーマー」
 乗員 4人、全長 約4.2m、全幅 約2.0m、全高 約1.8m
 空車重量 約4.5トン、速度 100km/h、制作  小松製作所
 入口で入館申請書を書いて、入館します

 一階は、装備関係の展示や、映像関係での広報活動とシュミレーターを操作出来るスペースとなっています


 以前に訪問した時には「90式戦車」が展示してありましたが「16式機動戦闘車」です
 乗員4人、全備重量約26トン、全長8.45m、全幅2.98m、全高2.87m
 最高速度約100km/h、最高速度70km/h・・・*二重に最高速度が表示されているのは不明です
 装備105mm施線砲・・1、12.7mm重機関銃・・1、7.62mm機関銃・・1
 制作 三菱重工・日本製鋼所 

 中央には「攻撃ヘリコプター」ですが説明版を撮っていませんでした


 「偵察用オートバイ」です
 乗員1人、重量117kg、全長2135mm、全幅885mm、全高1210mm
 最高速度 135km/h、制作 川崎重工業
 *ウクライナ戦争では、オートバイで突撃するような報道がされていましたが、偵察任務だけで運用してもらいたいものです

 屋外の展示を見て行きます


 「UHー1H」ヘリコプターです
 乗員2(P)+11人、機体 全幅14.64m、全長17.39m(胴12.62m)
 全高3.95m、ローター径14.64m、制作 富士重工
 エンジン名称 T53ーKー13B、出力1100SHP(連続)×1、制作 川崎重工
 最大全備重量4309kg、巡航速度230km/h、航続距離440km
 *HU-1型のヘリコプターは、アメリカのベル・エアクラフト社が開発したモデル 204・205・212ヘリコプターのアメリカ軍における制式名称です。
 1959年よりアメリカ陸軍で採用され、ベトナム戦争などで活躍しましたので、1985年に公開された映画「ランボー怒りの脱出」でシルヴェスター・スタローンが操縦していたヘリコプターも「UH-1」型だと思われます。
 日本の陸上自衛隊の機種は205型の発展型で富士重工でライセンス生産されました。


 「75式 自走155mmりゅう弾砲」です
 乗員6人、全備重量25.3トン、全長7.79m、全幅2.98m、全高2.55m
 速度47km/h、装備155mmりゅう弾砲・・・1、12.7mm重機関銃M2・・・1
 制作 日本製鋼所(砲・砲塔)、三菱重工業(車体)


 「74式 自走105mmりゅう弾砲」です
 乗員4人、全備重量16.5トン、全長5.8m、全幅2.9m、全高2.39m
 速度50km/h、武装105mmりゅう弾砲・・・1、12.7mm重機関銃M2・・・1
 制作 日本製鋼所(砲・砲塔)、小松製作所(車体)


 「中距離多目的誘導弾」です
 システム構成 誘導弾・車載発射機及び発射装置用車両(試作品)
 全体重量 3.9トン、全長 4.8m、全幅 2.2m、全高 2.0m
 標定方式 赤外線画像標定及びミリ波レーダー標定
 誘導方式 赤外線画像誘導及びレーザセミアクティブ誘導
 射撃方式 車載及び地上布置、制作 川崎重工業


 「遠隔操縦観測システム(無人機)」です
 重量 275kg、全長 3.8m、全幅 1.2m、全高 1.3m
 最高速度 135km/h、制作 富士重工
 *ウクライナ戦争では、ドローンや無人機による偵察・爆撃など戦争のイメージが一変しています

 長くなりそうなので、続きとさせて頂きます<m(__)m>
 
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埼玉県和光市、新倉3丁目「長照寺の大イチョウ」(市指定)です!!

2024-12-22 06:44:55 | 巨樹・大木
 新倉3丁目は、和光市役所の南北東約3kmのところ

 和光市役所西側の桃手通りを北北東へ、約300mの「和光市役所入口」信号を右(東南東)へ、国道254号線です

 約400mの「⇐東京外環・和光」の標識に従って信号を左(北東)へ、県道88号線です

 約600mの和光インターチェンジ入口を右に別けて、側道の坂道を上ります

 約400mで信号の先を右へカーブします、そのまま「県道88号線大正通り」を進みます

 一度下って少し上ってまた下ってい行きます、約900mで、信号機手前を右(南南東)へ入ります、「坂下公民館通り」です

 約200mで右手に

 「真言宗 智山派 光明山 長照寺」寺号標です

 ここを右(西南西)へ入ると、道路右手に目的のイチョウが見えました

 東北東側から、右手に長照寺の庫裡入口です

 東側から、まだ塀があるので根元は見えません

 南南東側(坂下公民館の駐車場)から

 境内入口です

 境内に入って西南西側から見ました

 説明版です
   和光市指定天然記念物
     名称 大いちょう
       指定  昭和34年7月13日
       所有者 長照寺
   イチョウ科 落葉高木
   幹廻り 7.53m  樹高 29m  樹齢推定 700年(指定当時)
 和光音頭の一説に「ハァー空を抱えたあの大銀杏、雨やあらしに堪えてきた・・・」と唄われている。
 この大いちょうは、枝張り根張りともによく、根の先は、坂下公民館辺りまで達しており、樹乳もみごとである。
 以前は、その樹乳を煎じて飲むと乳がよくでるといわれ、地元の人達が服用したとのことえある。
 県内でも有数の大木で、秋の黄葉の時期は黄金色で覆われ、まことに雄大かつ美事な景観である。
 また、300kgを越える量の銀杏を実らせる。
 700年前というのは、鎌倉時代にあたりそれ以来現在まで新倉はもとより近郷の人々の生活や歴史を見つめつづけてきた生き証人と言えよう。
 *イチョウの葉のDNA調査では、国内でもわずかな特別の遺伝子を持つことがわかっている。また和光市のイメージキャラクターいちょうの妖精「わこうっち」のすみかでもある。
    昭和54年1月15日(令和2年3月1日一部加筆修正)
      和光市教育委員会・和光市文化財保護委員会

 本堂です

 本堂前から見ました

 北側から

 「名勝 大いちょう」の石柱です

 境内には、和光市のイメージキャラクター「わこうっち」です

 *2011年2月に誕生した「イチョウの妖精」趣味は散歩と日向ぼっこ、身体と頭は黄緑、顔は白ですが頭の扇状の部分は黄色く黄葉したイチョウの葉ですね

 では、次へ行きましょう
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茨城県潮来市、堀之内「二本松寺のマキ」(市指定)です!!

2024-12-21 18:36:12 | 巨樹・大木
 堀之内地区は、潮来市役所の北西約6kmのところ

 潮来市役所の南東側の国道51号線を南西へ進みます

 約3.6kmの「八代小入口」信号を右(北東)へ、県道189号線です

 約900mで信号を左(西)へ、約300mで「潮来市立牛堀中学校・小学校⇒」の案内板を右(北)へ

 約600mで「二本松寺⇒」の案内板を右(北東)へ、右手には「潮来市立牛堀小学校」です

 間も無く二本松寺参道入口が見えて来ます

 手前右手の駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 参道石段を上ります

 参道を進むと

 参道右手には大きなスダジイの木です

 更に参道石段を上がると本堂が見えて来ます

 手水舎です

 左手には鐘楼堂ですが、釣鐘はありません

 右手の庫裡前にはボダイジュです

 説明書きです
   菩提樹(シナノキ科)
 正保年間(1644~47)、当山第10世天栄法印が比叡山から移植したと伝えられる記念樹である。
 仏教の三大聖木(菩提樹・無有樹・沙羅双樹)のひとつで、ブッダは菩提樹の木の根元で悟りを得た。
     目通り2m、樹高12m、樹齢約350年

 本堂です

 庫裡と本堂の間の本堂右手(東側)に目的の「マキ」です

 「二本松寺の槇」の天然記念物標柱です

 南東側から

 東側から

 説明書きです
   水戸光圀公お手植えの槇
 元禄4年(1691)、水戸光圀公が、本堂改築寄進したときに、お手植えされたとい言われてる記念樹である。
 平成元年、大阪市の「樹医」山野氏に依頼し樹勢回復手術を行った。
     目通り3.5m、樹高13m、樹齢約320年

 北側から見ましたが、周りの木々で良く解からなくなってしまいました

 潮来市の天然記念物の取材が終わりましたので、霞ヶ浦の北側を通って埼玉へ帰ることにしましょう



 2024・12・12・10・50
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茨城県潮来市、大賀「 文殊院のカヤノキ」(県指定)です!!

2024-12-21 17:56:34 | 巨樹・大木
 12月21日は冬至です、ユズ湯にはいってのんびりしていました

 では今回の投稿です・・・

 大賀地区は、潮来市役所の北約6kmのところ

 潮来市役所南東側の国道51号線潮来バイパスを北東へ進みます

 約900mの「須賀」信号を左(北)へ、県道50号水戸神栖線です

 約2.1kmで「鉾田・県道187号線⇒」の標識に従って、信号を左へ

 カーブして坂道を登って、丁字路を左(北東)へ、県道50号線の上を越えます

 約3.6kmで県道左手に文殊院入口です

 文殊院入口前の道路脇に車を止めさせて頂きました


  「天台宗 神宮寺」「大生山 文殊院」ですが並びが違いますよね

 説明版です
   潮来町指定有形文化財  建造物
     文殊院
       平成5年4月23日指定
 創立年代は、不詳ではあるが大生大神宮との関係は深く、大生山神宮寺文殊院と称し、牛堀町堀の内にある天台宗二本松寺の末寺となっています。
 阿弥陀堂・観音堂・地蔵堂の三堂が、横一列に建つ景観そのものが珍しく、建築としては、観音堂の宮殿棟札に元禄11年(1698)とあり、お堂そのものはそれよりも年代が古いと考えられるが、蟇股・束の様子からみて17世紀末のものと思われる。
 阿弥陀堂は、寛文5年(1631)奉納の厨子があり、阿弥陀如来像が安置されています。
 家内安全・厄除けなどの功徳があり、特に「いぼとり」の御利益には、近在からも参詣されています。
 観音堂には、十一面観世音菩薩像を本尊として、右に毘沙門天像、左に不動明王像の三尊が安置されていて、家内安全・安産・子育て・厄除けなど婦人方の信仰を得ています。
 また、観音堂は、行方坂東三十四札所の21番札所とされ、次のような観音巡拝御詠歌があります。
   おふらかに 浮身のかめと 思わひて 仏のみ法 いつも忘れじ
 地蔵堂には、地蔵尊像が安置されています。
 地蔵信仰には、極楽浄土に導くといわれる六地蔵、延命地蔵、水子地蔵などがあり、この信仰も厚く信仰されています。
          潮来市教育委員会

 南南東側入口から境内を進みます

 参道左手に目的のカヤです

 南側から

 南東側から、太い根が南側に伸びています

 東側から

 「文殊院のカヤノキ」の天然記念物標柱です、側面の文面には・・・
 高さ18m、枝張り15m、幹回り4.65m、推定樹齢約450年。
 平成7年(1995)10月25日、潮来市指定文化財天然記念物となる。

 北東側から

 北側から

 西側には大きな傷が縦に入っています

 薬師堂ですが、縁側が壊れてしまっています

 観音堂は比較的綺麗に管理されています

 地蔵堂です

 「文殊院(阿弥陀堂・観音堂地蔵堂)」の市指定文化財標柱です

 では、次は説明版にあった「堀之内の二本松寺」へ行った見ましょう



 2024・12・12・10・20
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茨城県潮来市、大賀「大賀のシイ」(市指定)です!!

2024-12-21 06:41:11 | 巨樹・大木
 大賀地区は、潮来市役所の北約6kmのところ

潮来市役所南東側の国道51号線潮来バイパスを北東へ進みます

 約900mの「須賀」信号を左(北)へ、県道50号水戸神栖線です

 約2.1kmで「鉾田・県道187号線⇒」の標識に従って、信号を左へ

 カーブして坂道を登って、丁字路を左(北東)へ、県道50号線の上を越えます

 約3.0kmで住宅先を斜め左(北西)へ入ります、両側には畑が広がっています

 約200m農道を進むと

 右手にスダジイの樹冠が見えました

 南側から見ました

 根元廻りは墓地に成っています

 「大賀のシイ」の天然記念物標柱です

 南西側から


 目通り幹囲6.2mの巨木です

 西南西側から

 では、次へ行きましょう



 2024・12・12・10・15
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茨城県潮来市、大生「大生古墳群・鹿見塚古墳」(県指定)です!!

2024-12-20 18:43:47 | 遺跡・史跡
 築地地区は、潮来市役所の北約4kmのところ

 潮来市役所南東側の国道51号線潮来バイパスを北東へ進みます

 約900mの「須賀」信号を左(北)へ、県道50号水戸神栖線です

 約2.1kmで「鉾田・県道187号線⇒」の標識に従って、信号を左へ

 カーブして坂道を登って、丁字路を左(北東)へ、県道50号線の上を越えます

 約2.5kmで、県道左手に古墳が見えました(県立水郷県民の森 大生地区の東端です)

 南側の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南東側から鹿見塚古墳を見ました

 古墳群の説明版です
   茨城県指定文化財
   史跡 大生古墳群
       昭和50年3月25日指定
 大生原大地には百余基からなる古墳群が存在し、県下でも最大の規模を誇る古墳群を形成している。
 この古墳群は古墳の集中状態から大生東部古墳群、大生西部古墳群、カメ森古墳群、田ノ森古墳群、に4大別されるが、この古墳群は大生神社の西側に位置し、県指定史跡鹿見塚古墳をはじめ、子子舞塚古墳址、天神塚古墳、白旗八幡塚古墳、なぢ20数基の古墳を包含する大生西部古墳群で面積8.8㌶の地域である。
 この古墳群は古墳時代中期の築造と推定され、旧時の状態を良くのこしている。
 大生原古墳群の被葬者が鹿島神宮と密接な関係のあったオフ氏一族の奥津城であったことは各方面から立証されているところである。
   平成30年3月      潮来市教育委員会・風土記の里保存会

 鹿見塚古墳の標柱です

 *鹿見塚古墳は、大生西部古墳群内に存在する盟主的な片耳式前方後円墳です。
 主軸は南西より北東に走り、全長約58m、前方部巾約32m、後円部直径約34m、同高さ約6mを有し、墳丘西側括部中央よりやや南に低い造出しを付設しています。
 さらに後円部がとくに高く突き出していることで特異な墳形をしています。

 東側から後円部です

 前方部を見ました

 南側から前方部です

 南西側から

 古墳接続部の西側には大きな作り出し(これが片耳か?)が確認できます

 北西側の内堀と外堀の間の中提が確認できます

 *県民の森の中を車で走ってみましたが、外には綺麗に草苅などの整備をされている古墳は見附られませんでしたが、道路から古墳の形を確認できるところが数基ありました。

 では、次へ行きましょう



 2024・12・12・10・00
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茨城県潮来市、築地「妙光寺のカヤ」(市指定)です!!

2024-12-20 06:30:53 | 巨樹・大木
 築地地区は、潮来市役所の北約4kmのところ

 潮来市役所南東側の国道51号線潮来バイパスを北東へ進みます

 約900mの「須賀」信号を左(北)へ、県道50号水戸神栖線です

 約2.1kmで「鉾田・県道187号線⇒」の標識に従って、信号を左へ

 カーブして坂道を登って、丁字路を左(北東)へ、県道50号線の上を越えます

 約600mで「妙光寺参道」の看板の先を斜め右(北東)へ

 約400mで丁字路を右(東)へ

 すぐ左に、妙光寺の参道が南向きに開いています

 すぐ先の左側(北側)庫裡の入り口に駐車場があります


 日蓮宗 本圀山 妙光寺です

 山門をくぐって参道を進みます

 右手の土手の上に本堂の屋根と境内に太い幹が見えます

 さらに石段を上がります

 石段の中段から右手(東側)の本堂前境内に目的のカヤです

 北側から

 東側から、推定樹齢600年、目通り幹囲4.0m(目測)の大木です

 「妙光寺のカヤ」の天然記念物標柱です

 南側から見上げました

 本堂です

 説明版です
    本圀山妙光寺
 この寺は文永2年(1265)、宗祖日蓮大聖人の直弟子、中老僧一乗阿闍梨日門上人の開基、当時隣村の水原村に居住していた油井但馬守国光、横山遠江守勝光が鎌倉参勤の際、日門上人を招請し一宇を創立したのが始まりである。
 即ち本圀山妙光寺と号し、常陸国最初の日蓮宗の古刹である。
 その後、正応3年(1290)中道院日正上人によって現在地に移転される。
 往昔は朱印等があったが、記書消失のため上地となるなど一時退転の形勢となりまいしゃが、16世日遥上人の時、代官矢野九郎右衛門、郡奉行萩原庄右衛門、芦澤伊賀守、三木五兵衛等の力により水戸藩から費用を仰いで9間27間の客殿を建立した。
 元禄12年(1699)19世徳大院日具上人の時、徳川光圀公より費用を下附され4間4面の本堂を造営した。
 堂内の日蓮大聖人の御尊像も同時に奉納され、また法華三昧堂の正面の額は光圀公自筆の書である。
 20世日孝上人の時、徳川綱條公より祈祷料として玄米50俵を下附された。
 現在の本堂は、寛永年間(1624~1643)の再建にして、寺宝には、日蓮聖人直筆の御本尊並びに御消息断片、日門上人直筆御本尊、徳川光圀の書簡、光圀拝領の蒔絵法衣箱、状箱、硯箱、紺紙金泥法華教開結10巻などがある。
 行事に、春秋彼岸会、盂蘭盆施餓鬼会、4月28日の開宗会、10月13日のお会式法要、冬至の星祭法要がある。
           (41世住職 遠山 友隆)
        記
 市指定文化財   建造物   法華三昧堂   
          天然記念物 カヤの木
   平成30年9月     潮来市教育委員会

 さらに参道石段を上って見ました

 法華三昧堂です

 市指定文化財(建造物)標柱です

 さらに上への参道を進みます

 御堂がありますが、お名前が分かりませんでした

 では、次へ行きましょう



 2024・12・12・09・50
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茨城県潮来市、上戸「長国寺のマキ」(市指定)です!!

2024-12-19 18:32:58 | 巨樹・大木
 上戸地区は、潮来市役所の西北西約3kmのところ

 潮来市役所の南東側の国道51号線を南西へ進みます

 道成りに約2.5kmの「上戸」信号を斜め左(北西)へ、県道5号線です

 約1.2kmで右手に

 長国寺の参道が南西向きに開いています

 「曹洞宗 大興山 長国寺」寺号標です

 *大掾氏の一族で行方地方に進出した景幹の4人の子供が行方四頭(小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)となり霞ケ浦北側と北浦の地域を鎌倉時代から長い間支配が行なわれました。
 *長国寺の本尊は聖観音で、創建は島崎城主第13代島崎左衛門尉長国で、文明2年(1470)の開基とされ永正年間(1504~1521)に現在地に移転したといいます。

 参道を進みます

 途中で通行止めになりますので、右(東)へ入っると、庫裡の前に参詣者用駐車場が有りますので利用させて頂きました

 参道の真ん中には、スイレン鉢が並んでいます、今朝は寒かったので氷が張っています

 参道左手の墓地の中に目的のマキです

 南側から

 南西側から、マキは墓地の間に立っています

 「長国寺のマキ」の天然記念物標柱です
 
 *牛堀町指定天然記念物 第12号
     長国寺の槙   1樹
       管理者   長国寺
       指定年月日 昭和44年8月1日
 イヌマキの雄樹で、根回り4.10m、目通り3.20m、樹高約20mである。
 枝の張り東西16.70m、南北11.20m、樹齢は約400年です。
 主幹は地上約3m、5mのところから支幹を5岐に分株している。
 樹勢もよく、天然記念物としてきちょうである。
     平成4年3月1日   牛堀町教育委員会

 *平成13年(2001)4月1日に 牛堀町は潮来町に編入されました。

 西側から

 東側から見上げました

 北東側から

 本堂です

 本堂前から見ました

 では、次へ行きましょう



 2024・12・12・09・10
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茨城県潮来市、潮来「西円寺の潮来の大イチョウ」(市指定)です!!

2024-12-19 06:53:55 | 巨樹・大木
 潮来地区は、潮来市役所の西南西約1kmのところ

 潮来市役所の南東側の国道51号線を南西へ進みます

 約1kmの「土木事務所入口」信号を左(南)へ入ると、右手に市営駐車場が有ります

 ここに車を止めさせて頂きました

 100m程を南南東へ歩くと

 右手に目的のイチョウが見えました


 浄土真宗 大谷派 梅龍山 西円寺です

 東側から見上げました

 「潮来の大イチョウ」の天然記念物標柱です

 *総本山は東本願寺。
  元禄5年(1692)親鸞の嫡孫、如信(大洗磯原の願入寺を創建)の弟子、潤信が開基と伝わる。
  長勝寺・西円寺・普門院(現在は延方にあります)と並んでいたため「中寺(なかでら)」と呼ばれる。
 *長勝寺は前回紹介のボダイジュのお寺です。

 南東側から

 一茶の句碑です

 本堂です

 本堂前、(北側)から見上げました

 東側道路の南東側から境内のイチョウを見ました


 では、次へ行きましょう




 2024・12・12・08・50
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茨城県潮来市、潮来「長勝寺のボダイジュ」(市指定)です!!

2024-12-18 18:52:43 | 文化財・樹木
 潮来地区は、潮来市役所の西南西約1kmのところ

 潮来市役所の南東側の国道51号線を南西へ進みます

 約1kmの「土木事務所入口」信号を左(南)へ入ると、右手に市営駐車場が有ります

 ここに車を止めさせて頂きました

 すぐ南側の道を西へ入って、直ぐ左(南)への道路を約100m進んで交差点を右(西)へ歩きます

 間も無く右手に長勝寺の参道入口です

 「長勝禅寺」寺号標です
 *臨済宗妙心寺派に属し、海雲山と号する古刹です

 参道を進みます

 山門です

 説明版です
   県指定有形文化財
     長勝寺山門
       昭和33年(1958年)3月12日指定
 この山門は普門院において、元禄6年から13年(1693~1700年)までかかって建立され、完成間近の同13年徳川光圀の命令によって長勝寺に移築されたものである。
 構造様式は三間一戸・二重二階門。屋根は上層を入母屋造り杮葺風銅版葺、下層も同じ杮葺風銅版葺である。
 軒は上層が二重扇棰、下層が二重平行棰を用い、さらに丸柱の根元に礎盤、上層の柱間装置に桟唐戸を用いた禅宗様式の建築である。
 全体には紅柄塗がほどこされ、優美な趣もうかがえる。
     平成24年4月      潮来市教育委員会

 さらに参道を進みます

 参道右手に「勢至堂」です 

 参道左手の墓地入口に目的の「ボダイジュ」です

 南側から

 「長勝寺のボダイジュ」の天然記念物標柱です

 東側から

 北東側から見ました

 すぐ北側には、梅の古木です

 古木然とした幹です

 まだまだ芽は堅いようです

 説明版です
   文治梅
  古野者那也 曾毛加摩久良能 鐘乃銘  鳳後
 長勝寺の鍾銘により右大将源頼朝を開基とする。
 公お手植え伝説もあり、寺の創建文治元年の年号に因んで、文治梅と称す。
 古木ながら花も禅寺の由緒に一段と香りを添える。

 *源頼朝公お手植えと伝えられる文治梅(ぶんじばい))、長勝寺創建の文治元年に因んで命名されています。 

 句碑です

* 三角形の句碑には俳人・伊能鳳後の句「古野者那也 曾毛加摩久良能 鐘乃銘」(このはなや そもかまくらの かねのめい)が刻字、文化11年(1814)建立されています。

 本堂の仏殿です

 説明版です
   県指定有形文化財 長勝寺本堂   昭和33年3月12日指定
 この本堂は方7間、一重入母屋造茅葺で棟上に源氏の定紋「笹りんどう」を配し、周囲は板葺「もこし」がある。
 内部天井は周囲を化粧屋根裏とし、中央に鏡天井が張られている。
 内部構造は唐様の手法になり、中央後方来迎壁前に高い唐様須弥壇が背面に突出して脇仏壇がある。
 外部の組物なども唐様で内外ともに一段基上に建つ堂々たる唐様建築である。
 建立年代は詳かでないが、軒廻りその他細部に桃山時代の様式手法がうかがわれる。
 規模雄大な建築で、禅宗建築として唐様様式の貴重な遺構である。
     平成24年4月     潮来市教育委員会

 復興資金寄付要請の説明版です

 鐘楼です

 銅鐘です

 説明版です
   国指定重要文化財  銅鍾(附鍾銘拓本)
            明治44年8月9日指定
 この銅鍾は、元徳2年(1330年)北条高時が下総国府城主千葉五郎禅門道暁との発起により、長勝寺の創建者である源頼朝公の菩提の為に寄進したものであり、鍾銘並びに序文の作者は、鎌倉円覚寺16世清拙和尚(大鑑禅師)で、鋳物師は甲斐権守卜部助光である。
 法量は、総高115cm、身高84.8cm、笠形高5.4cm、竜頭高24.5cm、口径66.3cm、撞座中心高19.9cmの鋳銅、上下帯は無文で、乳は4段4列になっていて、撞座は2個正位置にあり、小型であるが鎌倉期の特徴を良く示し、まことに気品の高い形状をしている。銘文も刻字もすぐれ、名鍾にはじないものである。
 また銘文中に「客船夜泊常陸蘇城」とあり、当時の潮来の情景を知るうえからも貴重な資料である。
     平成24年4月      潮来市教育委員会

 客殿入口です、傍らのモミジは紅葉が半分終わって、紅葉の時期の終わりに近付いています

 説明版です
   海運山 長勝寺
 この寺は文治元年(1185)源頼朝の開基、寺号を長勝と名づけた臨済宗の妙心寺派の古刹である。
 元禄年間(1688~1704)伽藍の荒廃を惜しんだ徳川光圀は堂宇を修復し、妙心寺の253世住持をつとめた太嶽祖清禅師を中興開山として迎えた。
 その後、徳川幕府から朱印十石並びに寺領地を与えられている。
 老杉林立する稲荷山を背景にした境内は参道も長く、阿弥陀三尊仏を本尊とする仏殿、山門はともに豊かな唐様建築の遺構で禅寺の風格を保ち、また中朱門の中の庫裡・書院等も元禄の建物で水戸家ゆかりの宝物を収蔵している。
 寺宝第一の古鍾は北条高塒の寄進、元徳2年(1330)の鋳造、中国から来朝して鎌倉円覚寺等に住した清拙正澄禅師が由来を記し、銘にある「客船夜泊常陸蘇城」の語は、中国蘇州を彷彿させる水郷潮来の景観を伝えている。
 境内には、頼朝創建の年号に因んだ文治梅と称する古木のほか、徘聖芭蕉の「旅人と我名呼ばれむ初しぐれ」の一句を刻した時雨塚、鹿島記行で地元の自準亭松江との交流を示す連句の碑もあって一段と風趣を添える。
      記
 国指定重要文化財  工芸品   銅鍾(附・鍾銘拓本1巻)
 県指定文化財    仏殿・山門・方丈・書院・庫裡・玄関・隠寮
           絵画    源頼朝画像、太嶽大和尚頂相
           彫刻    木造阿弥陀如来像及び両脇侍像、摩訶迦葉尊者立像
           工芸品   高麗焼茶碗
 市指定文化財    絵画    滝見観音竜虎図(3幅)
           彫刻    毘沙門天立像
           書跡    豊太閤手翰
           天然記念物 菩提樹
       潮来市教育委員会

 では、次へ行きましょう




 2024・12・12・08・40
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茨城県潮来市、辻「辻のアオガシ」(市指定)です!!

2024-12-18 06:31:15 | 巨樹・大木
 辻地区は、潮来市役所の有る地区です、市役所の北東約500mのところに「辻のアオガシ」があります

 潮来市役所を南東側へ出て、国道51号線(潮来バイパス)を北東へ進みます

 約450mでの感応式信号を右鋭角(南西)に入ると

 道路左手に大きな木が見えて来ました

 右手の墓地前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 北側から見ました

 北西側から、アオガシの立つ高まりは古墳です

 西側から

 アオカシの立ている古墳は、「中辻古墳」です

 *円筒埴輪や土師器が見つかっている東西14m・南北17m・高さ約1.8mの方墳だそうです。

 「辻のアオガシ」の天然記念物標柱です

 南西側から

 南側から見ました

 では、次へ行きましょう



 2024・12・12・08・10
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茨城県潮来市、新宮「延方公民館のクスノキ」(市指定)です!!

2024-12-17 06:36:24 | 巨樹・大木
 新宮地区は、潮来市役所の東北東約3kmのところ

 潮来市役所を南東側へ出て、国道51号線(潮来バイパス)を北東へ進みます

 約2.9kmの「延方西」信号を左(北)へ入り、すぐ先の丁字路を右(東)へ

 間も無く左手(道路北側)に「延方公民館」があります

 公民館の駐車場に車を止めさせて頂きました

 駐車場の東側に目的のクスノキです

 「延方公民館のクスノキ」天然記念物標柱です、公民館の所在地はかつての「延方村役場跡」です

 *昭和30年(1955)2月11日に 延方村は潮来町・大生原村・津知村とともに合併し新「潮来町」が発足しました。

 西側から

 南側から、目通り幹囲約4.5m(目測)の大木です

 南東側から、公民館の職員の方が出勤してきました

 東側から

 北側から見上げました

 では、次へ行きましょう



 2024・12・12・07・50

 
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茨城県神栖市、息栖「息栖神社御神木のスギと宮桜・オガタマノキ」です!!

2024-12-16 18:31:02 | 巨樹・大木
 息栖神社の続きです、境内の木々を見て行きます
 

 東国三社息栖神社社號標です

 水郷筑波国定公園特別地域説明版です
 自然の景観と環境を保護するために、この区域は、自然公園法に基づく「特別地域」に指定されています。
 特別地域内で、工作物の設置や木竹の伐採、指定植物の採取など、景観や自然生態系に影響を与えるような行為を行う場合には、県知事の許可が必要となります。
 自然保護と環境美化のため、皆様のご協力をお願いいたします。
   水郷筑波国定公園指定植物一覧(34科124種)  昭和56年3月23日告示
     以下略ですが、ランなどの草本類が多数を占めています

 境内案内図です、社殿手前右側に「オガタマの木」左に「宮桜」、拝殿西側に「御神木」が表示されています

 神門です

 参道左側、ばしょうの注連縄の句碑の先に注連縄の巻かれたスギですが、目的の御神木ではありません

 参道右手の境内社の先にはオガタマノキ(招霊の木)です

 北側から、細い幹の木です

 東側から見ました

 参道左手の那岐(ナギ)の木です

 「宮桜」です、南東側から見ました

 拝殿です

 目的の御神木です、西側から

 南西側から

 南側から、手前には「宮杉」です

 ズームアップして見ました

 東側から見上げました


 本殿です

 では、次へ行きましょう




 2024・12・12・07・20
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茨城県神栖市、息栖「東国三社・息栖神社」です!!

2024-12-16 06:30:37 | 文化財・寺社
 ここからは2024年12月12日の取材分です

 息栖地区は、神栖市役所の西約4kmのところ

 神栖市役所南側の国道124号線を西北西へ向かいます、約900mでガソリンスタンドの手前を左(南西)へ入ります

 約1.9kmの交差点を右(西北西)へ、約1.6kmで一時停止を斜め右(北西)へ、県道260号神栖外環道です

 約500mで左手に「東国三社 息栖神社」の案内板がありますので信号を左(南西)へ入ります

 左手は息栖神社の境内地です、約200mで左手の案内板を左に入ると「ニノ鳥居」前の駐車場です 

 参道のニノ鳥居です

 振り返ると道路の先に一の鳥居は常陸利根川に面して建っています

 東国三社息栖神社社號標です

 水郷筑波国定公園特別地域説明版です
 自然の景観と環境を保護するために、この区域は、自然公園法に基づく「特別地域」に指定されています。
 特別地域内で、工作物の設置や木竹の伐採、指定植物の採取など、景観や自然生態系に影響を与えるような行為を行う場合には、県知事の許可が必要となります。
 自然保護と環境美化のため、皆様のご協力をお願いいたします。
   水郷筑波国定公園指定植物一覧(34科124種)  昭和56年3月23日告示
     以下略ですが、ランなどの草本類が多数を占めています

 境内案内図です

 参道右手に昭和39年7月の息栖神社造営碑です

 説明版です
   息栖神社
 息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を大同2年、右大臣藤原内麿の命に依り、現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
 史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑條、授常陸国 正六位上於岐都説神従五位下」の於岐都説神とは、息栖神社の事とされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)
 古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあった事が記されている。
 祭神は、現在岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、海上守護・交通守護の守り神と奉られている。
 江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曽名所図会、新編常陸国誌)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑「此里は気吹戸主の風寒し」は、その関蓮を物語っていると思われる。
 社殿は享保元年に建替えられたたが、それが昭和35年10月消失し、昭和38年5月に新たに完成した。
 末社(高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮)
      中略
    令和5年3月  神栖市教育委員会

 鳥居を入ると左手には稲荷神社です

 石燈籠の並ぶ参道を進みます

 手水舎です

 説明版です
   息栖神社の由緒について
 息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、天鳥船・住吉三神を相殿の神として祀られており、古くから国史にも見え(三代実録に書かれてある於岐都説神社)がいまの息栖神社です。
 鹿島・香取・両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社です。
 岐神(くなどの神)は厄除招福・交通守護の御麗格の高い神で、鹿島・香取の大神と共にその先頭に立たれ国土の経営にあたられた。
 天鳥船神(あめのとりふねの神)は航海・航空の守護の御霊格が高く、古事記に(天鳥船を建御雷神に副えて遣わす云々)とあり、鹿島の大神の御先導を務められた神であります。
 (住吉三神)は海上守護・漁業関係の御霊格が高い三柱の神様である。
 このように五柱の神々を祀られているので、古くは息栖五所明神とも称された。
    以下略

 神門です

 説明書きです
   おきすの津(港)と碇
  大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思わざらむ   (柿本人麿)
  今よりはぬさとりまつる船人の 香取の沖のに 風向うなり (藤原家隆)
 広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社の所在する息栖の地は、おきすの津(港)とよばれて、周辺の陸地との交通上の船着場として、大きな港としての役割を果たしていた。
 徳川時代になると、幕府の拠点江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷地帯・銚子川口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。
 これらの長距離輸送には、当然大型船舶が用いられ、その往復途上、息栖の津に立寄っては、息栖の神々に航路の安全と、家族の安泰とを祈願した。
 この碇はそうした祈りを込めて、息栖の神に献納された物であろうが、それが何船によってのことかさだかではない。
 けらども潮に晒され、鉄片のはがれ落ちた碇の姿から、道の奥(東北)と坂東(関東)との間にたって、物資輸送に励まれた船人の、遠い昔を偲ぶ手掛かりとなっている。
     *帆柱ぞみをつくしなる大船の かとりの浦の見るめからねど(利根川図誌より)
          神栖市教育委員会

 参道左には

 力石と

 芭蕉の句碑です

 参道右手に境内社(説明版の末社)が並んでいます、左に4社合祀(鹿嶋神社・伊邪那岐神社・高房神社・奥宮)と右に5社合祀(香取神社・手子后神社・八龍神社・江神社・若宮)で祀られています

 石碑が並びます、新し石碑には「鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる 」の藤原時朝の歌です

 更に東側に歌碑です、右側に諦如法師、左に稱佛法師の歌が彫られています

 説明版です
   息栖ゆかりの歌碑
 鎌倉時代に編さんされた「新和歌集」(藤原為氏撰)の中には、息栖周辺を詠んだ歌が収められています。
 その歌の表題は、「藤原時朝、鹿島のおきす社にまいりて彼社僧に十首歌すヽめ待ちける」とあり、次の歌は、そのうちの一首です。
   *海原や沖つ潮合に立浪の鎮めがたきは心なりけり  理然法師(息栖神宮寺僧)
 なお「息栖の歌」とは別に「新和歌集」には、渡り鳥「ほととぎす」の歌があります。
 この三つの和歌は、藤原時朝が、鹿島詣での際、歌仲間と船中で十首詠んだうちの三首です。
   *鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる         藤原時朝
   *われのみを待ちつる暮を郭公(ほととぎす)またたか為に鳴てすくらん  諦如法師
   *里とをき山のすそのヽほととぎすたか為になく初音成らむ        稱佛法師
 ☆新和歌集十巻
 和歌。鎌倉時代に藤原為氏の撰した私撰集。「新式和歌集」「宇都宮打聞新式和歌集」ともいわれ、正嘉2年(1258)11月1日から正元元年(1259)8月15日前後までの間に生立したといわれています。
 ☆藤原時朝(笠間時朝)
 鎌倉時代の歌人で、勅撰集にも選ばれており、三十三間堂をはじめ、各地の寺院に奉仏、納経をしています。
 また、常陸国笠間荘の領主となり笠間氏を称し、初代笠間城主となりました。
     平成15年3月   神栖市教育委員会・神栖市歴史民俗資料館

 拝殿です


 本殿です

 拝殿北側には、旧社殿で使われていた礎石です

 次は、境内の木々を見て行きましょう





 2024・12・12・07・10
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