ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

千葉県多古町、坂「坂日枝神社のスダジイとスギ・タブノキ」です!!

2024-12-15 19:43:49 | 文化財・樹木
 坂地区は、多古町役場の東北東約9kmのところ

 多古町役場北側の多古中央通りを東へ直ぐの信号を左(北)へ

 約300mで一時停止を右(東北東)へ、県道106号本町通りです

 約500mの三叉路は斜め左(北)へ、県道120号多古栗源線です

 道成に約3.2kmで信号を右(東南東)へ、栗山川大橋通りです

 道成に約2.0kmで一時停止を左(北東)へ、県道127号多古山田線です

 道成りに約1.9kmで斜め右(東南東)へ入り、 道成りに約1.8km山の端に沿う様に進み商店前の交差点を左(北東)へ

 約200mで三叉路を左へ進んで坂道を登って切通のところに

 左手に石段があります、坂日枝神社の入り口です

 少し北へ進んで、忠魂碑前に広場に車を止めさせて頂きました

 道路から境内に立つスギの大木を見ました

 すぐ南側に目的のスダジイ(幹は無くなっています)のヒコバエが見えます

 石段を上がると鳥居です、南向き(道路と平行)に立っています

 手水舎です

 南側から、スダジイの切株とスギです

 西側から、土手上に目通り幹囲5.2mの巨木です、切株ですが・・・

 北東側から

 スギの大木も土手上に生えています

 拝殿です

 本殿です

 本殿西側にも、タブノキの大木です

 北東側から、タブノキは二本立っています、手前が目通り幹囲3.8m、奥(西側)が3.2mの大木です

 北側から

 西側から見上げました

 車に戻ると、北側の畑にモミガラ蒔きをされていた方が、声を掛けて来ました

 車のナンバーを見て、気になったとのこと

 「私の親戚が、所沢市の安松に住んでいて、先日所沢まで行って来ました、帰りは牛久大仏を見ながら圏央道で帰って来ましたが便利になった」と、また、「日枝神社では、12月15日にお年寄りが集まって・なおらい・の行事が行われ、宮司さんは旭市の神社から来られる」と、「スギの大木には、子供の頃に先輩から海を見せてやる・と思ったら、無理やりスギの大木に登らされて、昔は先輩には逆らえなかった、でも太平洋は見えた」とのこと、忠魂碑には「自分の父親は戦時中の7月1日に、小笠原諸島の父島に向か途中で輸送船がアメリカ軍の雷撃で沈んでしまって、水死したのだろう、忠魂碑にも名前が記されています」とおっしゃっていました。
 12月8日は日米開戦から83年、終戦後、既に80年に成ろうとするということは、80歳を過ぎているのでしょう、良い話が聞けて、元気に農作業をされていることにも感動です

 では、次へ行きましょう






 2024・12・11・14・50
 
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千葉県佐倉市、先崎「鷲神社のケヤキ」(市指定)です!!

2024-12-15 06:31:25 | 巨樹・大木
  先崎地区は、佐倉市役所の西北西約9kmのところ
 
 佐倉市役所は、歴博や二度紹介させて頂いている佐倉城跡の東側です

 佐倉市役所東側の国道296号成田街道を北北西へ、佐倉城跡の台地を下ります

 約200mの「市役所下」信号を左(西)へ、道成りに進みます

 約2.6kmで国道は右へそれますが、そのまま直進し左へ大きくカーブして進みます

 約2.3kmで「八千代・印西・国道296号線⇒」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約600mの「臼井台」信号で、右からの国道296号に合流し、更に北西へ進みます

 約1.2kmの「上座」信号を右(北)へ、約1.9kmで三叉路は左(北西)へ

 約900mの称念寺前の三叉路を右(西)へ、約400mの先崎地蔵尊前で左(西)へ

 間も無く右手に鷲神社参道の案内板がありますので斜め右(北西)へ

 東向きの鷲神社境内入口です

 右手の道路を進んで、境内北側の道路脇の広場に車を止めさせて頂きました

 鷲神社社號標です

 鳥居です

 鳥居は佐倉市有形文化財指定されています、文面には・・・

 鷲神社の鳥居は、江戸時代中期の寛文13年(1673)に建立された石造の鳥居です。
 鷲神社別当正覚寺の住職・定宥が建立主となり、江戸深川の石屋五郎兵衛が製作しました。
 明神鳥居の形式を持つ鳥居の大きさは高さ388cm、横幅577cmを測り、市内にある石鳥居の中で最大級です。

 参道右手に境内社の祠が並びます

 保存樹林説明版です
   保存樹 佐倉市指定第17号  昭和48年3月1日
 区分   樹林
 名称   鷲神社境内木
 樹種   ケヤキ、イチョウ、モミ、アカガシ、スギ、スダジイ、ヤマザクラ
 所在地  先崎1580
 樹齢   ケヤキ約1000年(選定時)
      その他の木約300~400年(選定時)
 伝来等  承平7(937)年に安産の神を祀り神社が創立された。
      その際植えられたと推定されるケヤキの巨木を中心に、中世末期(戦国時代頃)に植えられた境内木と共に大切に管理保存されている。
 管理責任者 鷲神社氏子総代
     令和6年5月  佐倉市

 拝殿は、南向きに建っています


 立派な本殿です

 説明版です
   佐倉市指定文化財
     鷲神社の本殿・鳥居・ケヤキの大樹
 鷲神社の開創は「佐倉風土記」によると「承平7年(937)7月7日、慈恵僧正、朱雀帝の勅を奉じ、来りて此の神を祀る」とあります。
 本殿は、天保15年(1844)建立されたもので大工棟梁は立石菊右衛門藤原元隆(八千代市下高野)、柱や本殿四面の彫刻は星野理三郎政一(群馬県勢田)の手によるもので、大江山鬼退治を題材としています。
 建立にあたては、近隣の八千代市や印旛村などの人々から奉納金を募ったもので、神社に対する信仰の広がりがうかがわれます。
 鳥居は、寛文13年(1673)定宥が建立したもので、作者は深川の石屋五郎兵衛です。
 鳥居の形式は明神式で、石造の鳥居としては市内では比類のない大きなものです。
 境内にあるケヤキ(二レ科)にお大樹(樹高16m、目通り幹囲6.3m)は、当社開創と共に植えられたものと考えられ、応永年間(1394ー1428)の神社の火災により被害を受けた形跡があります。
 市内においてはこのような古木は珍しく、学術上からも貴重な資料といえます。
     本殿・鳥居  昭和53年 7月26日指定
     ケヤキの大樹 昭和37年12月22日指定
   昭和63年3月31日   佐倉市教育委員会

 *表記の「群馬県勢田」は「勢多」だと思われます、現在の前橋市周辺の市町村ですね

 もう一枚の説明版は、佐倉市民文化資産「先崎鷲神社の神輿及び御輿渡御」です

 拝殿の南側に目的のケヤキの大樹です、南側から

 「御神木」石柱が根元にあります

 東側から

 北東側から

 佐倉市指定天然記念物 鷲神社のケヤキの大樹」の標柱です、側面の文面には説明版とほぼ同様の内容が記されています

 北側から

 北西側から、神社の火事による被害と思われる、幹の中央部が枯れています

 境内西端には石碑が並びます

 では、次へ行きましょう



 2024・12・11・13・10
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栃木県矢板市、泉「矢板市立泉小学校・泉のえのき」(とちぎ名木百選・建指定)です!!

2024-12-14 18:40:40 | 巨樹・大木
 泉地区は、矢板市役所の北約4kmのところです

 矢板市役所東側の旧塩谷街道を北へ進みます

 約1.2kmで左からの建小津30号線に合流する様に信号を右(北)へ

 約1.3kmで県道左手に矢板市立泉小学校があります

 県道右側の泉郵便局の駐車場に車を止めさせて頂きました

 泉小学校校庭南東側の校門です

 校門前から校庭に立つ目的の「泉のえのき」です

 門扉のそば(南南西側)から見上げました

 説明版がります
   泉のエノキ
 このエノキは、樹齢推定300年、幹回り3.58m、樹高15.5m、枝張りは東西19m、南北21.5mという大きさです。
 泉城主の岡本氏が三島明神の参道に2本寄進したと伝えられています。
 その内の1本がこのエノキで(もう1本は、火災で枯れる。)、現在は泉小学校の校木として、愛称「甘実(あまみ)の木」と呼ばれ児童達をやさしく見守っています。
 また、このエノキは栃木県天然記念物に指定されているほか、県の名100選、市の名木10選のいずれにも選定されています。

 立派な泉小学校の校舎を見ました

*ちなみに「とちぎ名木100選」は下記の通りです
 県の「とちぎ100選」選定事業の一つとして、 県民と市町村から推薦された「名木」の中から、 「とちぎの名木100選選定委員会」において、市町村にも配慮して選定を行い、「とちぎの名木100選プラス1」を選び、 平成元年6月15日の県民の日に公表されたものです。
番号 名  称 所在地の地名
番号  名称         幹周  所在地             天然念物指定
1 那須のごようまつ      1.7 那須郡那須町湯本182
2 八幡のみねざくら      1.6 那須町大字湯本字八幡崎       県指定
3 芦野城址のこうやまき    5.4 那須町大字芦野(桜ヶ城址公園)   県指定
4 寺子のさくら        6.6 那須塩原市寺子
5 (×)赤坂のかしわ      2.9 那須塩原市越堀(熊田坂温泉神社)   県指定
6 木の俣地蔵のかつら    7 那須塩原市百村
7 逆杉(2本)       10.9 那須塩原市中塩原(塩原八幡宮)    国指定
           7.3
8 塩原八幡宮の大とち   4.9 那須塩原市中塩原11
9 塩原嶽山箒根神社の大すぎ  8.7 那須塩原市宇都野(嶽山箒根神社)
10 (×)雲照寺の大松      4.7 那須塩原市三区町(雲照寺)
11 成田山のゆずりは     3.2 大田原市本町1丁目(成田山)
12 高性寺のかや        3.9 大田原市薄葉1366
13 滝岡温泉神社のあかがし  5.8 大田原市滝岡宮内(滝岡温泉神社)
14 大野室のいちょう    6.5 大田原市寒井(三嶋神社)        県指定
15 磯上のやまざくら      4.3 大田原市両郷              県指定
16 西行桜         1.8 大田原市佐良土(法輪寺)
17 観音寺のしだれざくら   3.3 那珂川町吉田字寺屋敷(観音寺)
18 北向田のけやき     6 那珂川町北向田(向田神社)       県指定
19 馬頭院の枝垂栗      3.1 那須郡那珂川町馬頭188        県指定
20 戸隠神社のいちょう   5.9 那珂川町大内(戸隠神社)       県指定
21 鷲子山の千年杉    6.9 那珂川町矢又(鷲子山神社)
22 (×)観音寺のきゃらぼく 1.5 那須烏山市神長(観音寺)
23 太平寺のかや       3.5 那須烏山市滝395
24 八ヶ代西山辰街道の大ざくら 5.5 那須烏山市八ヶ代
25 八ヶ代菩提久保のボダイジュ 2.1 那須烏山市八ヶ代(地蔵堂)
26 白鬚神社の神木けやき    4.9 塩谷郡高根沢町宝積寺88
27 今宮明神のいちょう    4.6 さくら市馬場(今宮神社)
28 穂積小学校学校記念の松 2.6 さくら市穂積478
29 泉のえのき         3.6 矢板市泉378            県指定
30 塩田の笠松        2.8 矢板市塩田
31 荻野目のさいかち(2本) 2.9 塩谷町大字原荻野目
          2.9
32 船生のひいらぎ      3 塩谷町大字船生             県指定
33 長畑のひいらぎもくせい 2.8 日光市長畑522−2          県指定
34 法蔵寺のいとひば      3.4 日光市大桑町270
35 上三依観音堂の大いちょう 10.3 日光市上三依(観音堂)
36 熊野堂の大さわら      5.1 日光市上三依(熊野堂神社)
37 湯西川のねずこ大木     6.4 日光市湯西川字川戸(川戸氏神)
38 平家杉           7.2 日光市上栗山ネキシャ
39 日光のひめこまつ      3.2 日光市御幸町              県指定
40 日光太郎杉        5.6 日光市山内(日光東照宮)
41 金剛桜         4.1 日光市山内(輪王寺)           国指定
42 東照宮のこうやまき   4.4 日光市山内(日光東照宮)
43 中宮祠のいちい(2本)   4.2 日光市中宮祠(二荒山神社)      県指定
          3.7
44 磐裂神社御神木ひのき  3.1 日光市足尾町3−5430−2
45 粟野のかや         5.7 鹿沼市口粟野(稲荷神社)        県指定
46 寄居のえのき         4.6 鹿沼市久野
47 勝願寺の地蔵けやき    6.5 鹿沼市油殿(勝願寺)           県指定
48 加蘇山の千本かつら    8 鹿沼市上久我(加蘇山神社)        県指定
          6.6
49 喜久沢のつくばねがし  6 鹿沼市見野802 県指定
50 成就院のしだれあかしで    2.3 鹿沼市楡木町(成就院)       県指定
51 金剛定寺のかや      4.3 宇都宮市上桑島町1041        県指定
52 旭町の大いちょう      6 宇都宮市中央1丁目
53 新町のけやき         7.9 宇都宮市新町2丁目(八坂神社)      県指定
54 赤門のさくら         3.1 宇都宮市塙田1丁目(慈光院)
55 延命院のとちのき      3.4 宇都宮市泉町4−30
56 祥雲寺のしだれざくら 5 宇都宮市東戸祭1丁目(祥雲寺)      県指定
57 徳次郎のけやき(2本)    8 宇都宮市徳次郎町(智賀都神社)       県指定
            7.3
58 羽黒山神社の夫婦杉    4.5 上河内町大字今里字河内山(羽黒山神社)
59 下小倉下組大すぎ      3.8 宇都宮市下小倉町
60 下ヶ橋の三ッ股かや     5.1 宇都宮市河内町下ヶ橋          県指定
61 下高根沢安住神社のけやき 4.6 芳賀郡芳賀町下高根沢4079
62 日枝神社のすぎ       4.2 市貝町市塙(日枝神社)
63 九石のけやき         7.3 茂木町大字九石              県指定
64 小貫のいろはもみじ   3.5 茂木町大字小貫              県指定
65 西明寺のこうやまき    5.4 益子町大字益子(西明寺)        県指定
66 太子の笠松         1.4 真岡市亀山1丁目26−5         県指定
67 北中里のえのき       4 真岡市中
68 遍照寺のかや         6 真岡市中(遍照寺)            県指定
69 仏生寺のけやき(2本)    5.6 真岡市南高岡(仏生寺)           県指定
             5
70 沖のけやき       5.8 真岡市二宮町大字沖(大沖神社)        県指定
71 芳全寺のしだれざくら   2.7 真岡市二宮町大字久下田(芳全寺)
72 満願寺のかや         5.1 上三川町大字東汗(満願寺)
73 (×)石橋の大けやき   5.6 下野市下古山
74 (×)円宗寺のけやき    9.2 壬生町大字上稲葉(円宗寺)          県指定
75 西方のしだれざくら  3.4 栃木市西方町大字元
76 真上のけやき       8.1 栃木市西方町大字真名子
77 龍興寺のしだれざくら     3.2 栃木市都賀町大字大柿
78 家中小のナンキンハゼ    2 栃木市都賀町家中2740
79 大山寺のいわしだれざくら  2.5 栃木市平井町(大山寺)
80 (×)柴南薬師堂のもみ    4.4 下野市柴(柴南薬師堂)
81 龍興寺のしらかし    4.3 下野市薬師寺(龍興寺)
82 小宅八幡宮のかや    4.2 小山市小宅1289
83 城山公園のいちょう    6.1 小山市城山町1丁目(城山公園)
84 (×)胸形神社のえのき  5.8 小山市大字寒川(胸形神社)
85 野木神社のいちょう    9 野木町野木(野木神社)
86 雷電神社のしいのき    6.6 栃木市大平町大字富田字神ノ倉(雷電神社)
87 (×)千歳の松      1.9 栃木市岩舟町大字新里(新里不動堂)
88 (×)竜化の松      2.6 栃木市岩舟町大字下津原(高平寺)
89 藤岡神社のけやき(2本) 4.7 栃木市藤岡町藤岡(藤岡神社)
          5.7
90 植野小のスズカケ      4.5 佐野市植上町(植野小学校)
91 (×)佐野小のはくもくれん 1.7 佐野市金屋下町(佐野小学校)
92 東光寺のコウヨウザン    3.1 佐野市中町(東光寺)
93 出流原の「日の出」椿    2.1 佐野市流出原
94 鑁阿寺の大いちょう    9 足利市家富町(鑁阿寺)
95 足利学校跡のナンバンハゼ 2.5 足利市昌平町(足利学校跡)         県指定
96 竜泉寺のかや         8.1 足利市稲岡町(竜泉寺)
97 船越薬師堂のひいらぎ  2.2 佐野市船越町(薬師堂)     県指定
98 丸嶽山神社のけやき    7.6 佐野市多田町(丸嶽山神社)    県指定
99 葛生小の大けやき(2本) 4.4 佐野市葛生西1丁目(葛生小学校)
           4
100 宝出山のもみの木     4.8 佐野市秋山町(川野敏雄氏)
101 遊行柳           0.9 那須町大字芦野

*リストとしては101件が指定されていますが、既に枯れてしまったものが10件となっています
 今回の7件を含めて既に68件を投稿させて頂きました、残り22件の「とちぎ名木100選」が見られそうですので、ご期待ください
注:数値は選定時のものです。 *は訂正した数値(平成19年現在推定)です。名称欄の(×)は、枯損等により消滅したものです。

 今回はここまでにします、まもなく陽が暮れそうですので埼玉へ戻りましょう
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栃木県塩谷町、原荻野目「荻野目のさいかち(2本)」(とちぎ名木百選)です!!

2024-12-14 06:31:05 | 文化財・樹木
 原荻野目地区は、塩谷町役場の南約2kmのところ

 塩谷町役場の西側の県道63号線を南へ、約600mで信号を右(南西)へ、国道461号線玉生バイパスです

 約500mの「玉生」信号を左(南東)へ、また県道63号線です

 約1.5kmの「原荻生目」信号を右(西南西)へ、約800mで道路右手(北側)にサイカチの木が見えて来ます

 手前の道路北側に広い歩道(旧車道)がありますので車を止めさせて頂きました

 東側から

 南東側から、二本のサイカチの大きな木が並んでいます

 「とちぎ名木百選 荻野目のさいかち」の標柱です

 説明版です
   塩谷町指定天然記念物
     さいかち(二樹)
       昭和49年6月6日指定
   ■樹高      25m(二樹)
   ■目通り周囲 2.87m(東側)2.70m
   ■推定樹齢      430年
 慶長2年(1597)宇都宮氏の家臣であった川上家は、宇都宮氏の滅亡とともに帰農し、代々庄屋を勤めてきたが、宇都宮氏の再興を祈願し、慶長3年(1598)に”再び勝”という意味を込めて再勝(さいかち)を門前に植えたものであると伝えられている。
 一対のさいかちは、いずれも樹勢が旺盛で毎年開花するが、雄花のみのため結実はしない。
 代々庄屋をつとめた川上家を象徴するようなこの二樹のさいかちであるが、荷役の馬の出入りが多かった庄屋には、馬の病気の特効薬でもあったと伝えられるこのさいかちは、なくてはならないものであったようである。
    塩谷町大字原荻野目224番地 川上家所有
      塩谷町教育委員会建之(平成28年3月)

 道路南側から見ました、街道奥の家が川上家でしょうか

 右(東側)のサイカチです

 左(西側)のサイカチを南東側から見ました

 南西側から二本のサイカチです

 西側のサイカチの西根元に天然記念物石柱です

 更に西南西側から見ました

 では、次へ行きましょう
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栃木県日光市、大桑町「法蔵寺のいとひば」(とちぎ名木百選・市指定)です!!

2024-12-13 18:45:00 | 巨樹・大木
 大桑町は、日光市役所の北約5kmmのところ

 日光市役所の西側道路を北北東に出て、約100mで信号を左(西北西)へ、国道119号線です

 約1.2kmの「春日町」信号を右(北北東)へ、国道121号線です

 約2.8kmの「倉ヶ崎新田」信号を斜め左(北東)へ、旧道の国道121号線です

 約2.1kmで国道が右へ直角に曲がるカーブを左(西南西)へ入ると

 約100mで斜め左に入り法蔵寺参道入口です

 *一度本堂前まで参道左側の車道を上がって駐車場に入りました
 *このブログ 2020年04月14日で、2020年桜、栃木県日光市、大桑「法蔵寺のシダレザクラ」で一度紹介させて頂いております

 法蔵寺寺号標です

 参道石段をのぼって参道を進みます

 山門の赤門です、柱には徳川家菩提所、新田義貞公御令孫開創と書かれています

 説明版です
   徳川将軍御許  赤門
 江戸時代、当地には徳川御三家の本陣が置かれました。
 法蔵寺は、本陣防御と徳川家歴代尊位菩提のため、正保2年(1645年)法蔵寺第9代曄運上人の時、隣村より当地に移転。大規模増築がなされました。
 その際、徳川家菩提所として、将軍より赤門を冠する旨の御許が下りました。
 明治戊辰戦争の戦火の難を逃れた貴重な建造物です。

 参道右手南向きに六地蔵様です

 左手西向きに地蔵堂「子安子授延命地蔵尊」です

 右手に鐘楼です、どなたでも搗けるようです

 境内案内図に説明書きです
   徳川将軍より赤門を許された寺
     赤門の寺「法蔵寺」縁起
 法蔵寺は、正式には「真命山 心光院 法蔵寺」といい。宗派は浄土宗です。
 南北朝時代、後醍醐天皇の朝廷(南朝)の総大将を務めた新田義貞公や新田家一族を弔うため、義貞公の孫にあたる良徳公により1389年(康応元年)に創建されました。
 江戸時代、日光東照宮へ全国の諸大名が参拝するようになると、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)本陣が、日光街道から少し奥まった当地「大桑宿」に置かれました。
 それに伴い法蔵寺は、本陣防衛と徳川家歴代尊位菩提のため隣邑より当地に移転。徳川家の多大な助力とご寄進により、法蔵寺は下寺約二十数ヶ寺を抱え、また伽藍が大増築され、名実ともに大規模寺院となりました。
 このとき将軍家から徳川家菩提所の証として「赤門」を冠することを許されました。
 明治に入り、法蔵寺は戊辰戦争(1868年)で新政府軍による計画的な焼き討ちにあい、「赤門」を残し灰燼に帰しました。
 現在、本堂横にある「カシノキ」にお焼けただれた木肌が、戦火の凄まじさを物語っています。
 法蔵寺のご本尊様は、女人守護・女人厄除に霊験のある「阿弥陀如来像」です。
 境内には、赤門をはじめ天然記念物・とちぎ名木百選「法蔵寺のいとひば」、地域最古の「庚申塔」、子育子授延命「地蔵尊」があるほか、多数の念佛講の碑が残されています。
 また、とげぬき観音「如意輪観音像(秘仏・1月ご開帳)」「徳川歴代将軍位牌」「地獄絵図十幅(十王絵図・8月公開)」「大涅槃図(2月公開)」など数多くの寺宝が伝わります。
 また、当寺は天皇勅許の十夜法要(11月開催)を古くから継承しており、その法要で鳴らされる「一子相伝 十日十夜双盤念佛」は全国的にも伝承が少なく、法蔵寺が念仏を柱とする信仰の拠点である由緒を知る貴重なものです。

 本堂です、目的のイトヒバの樹冠が見えています

 本堂前にも六地蔵様です

 本堂裏側に廻って来ました、寺務所の裏の位置に目的のイトヒバです

 西側から

 「とちぎ名木百選 法蔵寺のいとひば」の標柱です

 説明版ですが薄くなってしまって読めませんでした(ネットからの説明文です)
   日光市指定文化財
     法蔵寺のイトヒバ
 種類    天然記念物
 員数       1本
 樹高      24m
 目通幹囲  380cm
 枝張り   東5.0,西5.0、南5.0、北5.0m
 推定樹齢  約350年
 指定理由  由緒あるイトヒバの巨木
       法蔵寺はもと倉ヶ崎にあったが、江戸時代初頭の正保2年(1645年頃)現在地に移封した。
       この木はそのときに植栽されたものと考えられる。
       戊辰戦争の際、寺は焼けてしまったが、このイトヒバは焼けずに残った。
       とちぎの名木百選にも選ばれている。
   昭和41年3月22日指定    日光市教育委員会

 西南西側から

 南西側から

 南側から見上げました

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栃木県日光市、長畑「長畑のひいらぎもくせい」(とちぎ名木百選・県指定)です!!

2024-12-13 06:30:21 | 文化財・樹木
 長畑地区は、日光市役所(旧今市市役所)の南約6kmのところです

 *日光市は、平成18年(2006)3月20日に今市市、(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村が新設合併して現在の日光市が発足しました。
 合併により面積は関東地方で最大、全国の市でも岐阜県高山市、静岡県浜松市に次いで全国第3位となり、栃木県全体の約22%を占めています。
 
 日光市役所西側の道路を南西へ、約200mで信号を左(南東)へ

 道成りに約1.2kmで東武鉄道日光線の踏切を渡ります

 約1.1kmの「鹿沼・土沢IC/国道121号線⇒」の標識に従って信号を右(南)へ

 約3.5kmで「長畑⇒」の標識に従って信号を右(西)へ

 約2.0kmで信号を左(南)へ入ると

 右側に「日光市立落合西小学校」の校庭が広がります

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 校庭の東端(校庭東側入口そば)に目的のヒイラギモクセイです

 北側から

 北西側から

 説明版です
   栃木県指定天然記念物
     「長畑のヒイラギモクセイ」
    所有者    日光市
    樹高    5.0m
    枝張り 東西7.0m 
        南北6.0m
    推定樹齢  400年
 ヒイラギモクセイは、モクセイ科の亜高木で、ヒイラギとモクセイの雑種と考えられており、花は白色である。
 本県ではその数が少なく、日本の南部に多い木である。
 明治28年(1895年)、現在の落合小学校の開校を記念して、土地の人が寄付したもので、秋には多くの花を咲かせ、モクセイと同じ匂いを放つ。
 この樹種では、これ程の巨樹は稀であり、県内でも最大級である。
 *幹囲は根元近くで2.8mあるそうです。

 「とちぎ名木百選 長畑のひいらぎもくせい」の標柱です
 
 西側から

 南西側から

 南側から見ました

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栃木県鹿沼市、見野「喜久沢神社・喜久沢のつくばねがし」(とちぎ名木百選・県指定)です!!

2024-12-12 19:38:22 | 巨樹・大木
 見野地区は、鹿沼市役所の北西約5kmのところ

 鹿沼市役所を東へ出て約150mで「市役所前」信号を左(北)へ、国道121号日光例幣使街道です

 約1.1kmの「御成橋西」信号で、国道121号線を右に分けて直進します

 道成に約4.3kmで「喜久沢神社」の社號標を斜め右(北)へ入ります

 赤い鳥居を潜り真っ直ぐに進みます

 道の奥に防獣柵が見えましたので、車を道路脇に止めて行きました

 社號標です、側面には「萬里小路中納言藤原藤房卿遺跡」と彫られています

 社務所の建物の後側にツクバネガシの樹冠が見えました

 喜久沢神社参道(南西側)から根元が見えました

 参道から少し上がって西側から目的のツクバネガシです

 「とちぎ名木百選 喜久沢のつくばねがし」の標柱です

 説明書きです
   栃木県指定 天然記念物
     喜久沢のツクバネガシ 1本
        所有者    喜久沢神社
        昭和56年12月2日指定
 樹高26m、胸高周囲6m、枝張り東西34m、枝張り南北33m、推定樹齢600年
 ツクバネガシは、ブナ科の常緑高木で、本州中部以南の山野に自生し、本県では県の南部の照葉樹林の中で少数見られます。
 枝の先の葉がやや輪状にならんで付くため、「つくばね」に見立てて、この名が付けられています。
 喜久沢のツクバネガシは、喜久沢神社の杉植生林の中で、周囲の杉と枝を接しながらも、その雄大な姿を見せています。
 地上約2mのところで3本の太い枝に分かれ、それがさらに傘を広げたように四方に枝を広げ、天を覆っています。
 その樹勢は、極めて旺盛です。
     栃木県教育委員会・鹿沼市教育委員会

 北西側から

 北側から、支柱に支えられています

 北東側から見上げました

 参道西側にはモミジと欅、杉の大木です

 参道を進みます

 参道石段です

 喜久沢神社碑です

 関東東北豪雨の記念碑です
   関東東北豪雨被災本殿等修繕復旧事業竣工記念碑
     聞が澤への想い  地域の和と絆をもって ここに築く
         平成31年(2019)4月吉日
 経過概要
 当神社は、地区内の守り神として、古く南北朝時代(1330年の頃)、後醍醐天皇の側近として活躍された万里小路藤原藤房卿が、この地に隠遁されていたことから、藤房卿を主祭神として弘化4年(1847年)に創建され、以来、菊沢地区をはじめ多くの方々により祀られてきた神社であります。
 地区名である「菊沢」の由来とされる当喜久澤神社が、平成27年(2015年)9月10日から11日にかけ、周辺地域にも甚大な被害をもたらした関東東北豪雨により、これまでに類のないほどの大きな被害を受けました。
 豪雨により流れ出た土砂・流木により本殿、拝殿が土砂に埋まり、また、本殿は流木により一部崩壊しました。
 さらに参道は、雨水流水により3m余の深さまで掘削され、その土砂は、参道入口付近の畑にまで達していました。
 その被災した本殿等の修繕復旧のため、総代会いおいて協議・検討し、地区自治会・各種団体等の協力を得て、平成28年7月3日に喜久澤神社本殿等修繕復旧事業推進委員会を設置しました。
 その後、度重なる会議にて修繕方法や寄進募集について協議を深め、一致団結のもとに寄進募集活動に取組み、多くの方々のご協力のもと目標額を達成することができ、本殿等の移動修復工事とともに境内等の整備を進めてまいりました。
 また、裏山の土砂流出への今後の対策として、県への要望を重ね、保安林の指定を受け、二段のコンクリート土止めの施工となりました。
 被災後3年7か月の期間を要しましたが、地区内外の多くの人々の温かな気持ち・和・絆をもって、ここに竣工の日を迎えることができました。
 これ偏に、地区内住民をはじめ、崇敬者皆様の深いご理解とご支援によるものと、厚くお礼を申し上げます。
 この後も末永く地域の安全と繁栄発展、さらに多くの皆様のご健勝を見守り下さるよう祈願を込め、ここに記念碑を建立いたします。

 イチョウの切株からはヒコバエが成長しています

 手水舎です

 再建なった拝殿です


 本殿です

 本殿裏側の沢奥にはコンクリート土止めが見えました

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栃木県栃木市、都賀町家中「家中小学校のナンキンハゼ」(とちぎ名木百選・市指定)です!!

2024-12-12 06:30:00 | 文化財・樹木
 都賀町家中地区は、栃木市役所の北北東約5km、東武鉄道日光線「家中(いえなか)」駅や駅前(東側)には栃木市都賀総合支所のあるところです

 栃木市都賀総合支所の東約1.0kmの所に「栃木市立家中小学校」がります

 栃木市都賀総合支所東側に県道3号線を北へ直ぐの「家中駅入口」信号を右(東)へ、県道296号線です

 約900mで「家中小学校⇐」の案内板を左(北北西)へ入ると

 まもなく右手に「家中小学校」が見えてきます

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 校庭西側の入り口です、後方の建物は体育館です(校門はもう少し北側にあります)

 入口の直ぐ南側に目的の「ナンキンハゼ」です

 北西側から

 西側から

 説明版です
   栃木名木百選
   町指定天然記念物
     ナンキンハゼ(中国名 烏柏・ウキウ)トウダイグサ科シラキ属
    目通り     1.9m
    木の高さ   17.0m
    枝張り  東西10.0m
         南北12.0m
    樹齢      約80年
 ナンキンハゼは、中国原産で中国には千年の昔から栽培されていました。
 この木の実から油やロウを採っていた実用木です。
 今は秋の紅葉が美しいので観賞木として珍重されている。
 このナンキンハゼは、本校の校長である刑部真一先生が日露戦争の戦勝記念に植栽したと伝えられ、根張り樹相ともにこのようにみごとな老木は、珍しい。
    昭和57年1月11日   都賀町教育委員会

 *都賀町は、平成22年(2010)3月29日に、 栃木市、大平町、藤岡町と合併し、新・栃木市の一部となりました。

 南西側から

 南側から見上ました

 *道路と校庭の間はビオトープとなていた、鯉が泳ぎ、タニシやカワニナ等の貝類を見ることが出来ました

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栃木県佐野市、秋山町「宝出山のモミノキ」(とちぎ名木百選)です!!

2024-12-11 18:31:00 | 巨樹・大木
 ここからは、2024年12月7日に墓参りの次いでに、「とちぎの名木百選」の取材出来ていなかった分の一部の取材をしてきました

 秋山地区は、佐野市役所の鉾北西約23km、佐野市役所葛生庁舎の北西約12kmのところ

 平成17年(2005)2月28日に(旧)佐野市・安蘇郡田沼町・葛生町が新設合併し新たに佐野市となりました、

 秋山地区は、旧葛生町の北西端の広い地区です、雪で峠路が閉ざされない内は林道大荷場木浦沢線で、鹿沼市上粕尾へ抜けることが出来、二輪車のツーリングコースとなっています

 佐野市役所葛生庁舎西側の国道293号線を北へ

 約300mで秋山川を葛生大橋で渡って直ぐの信号を左(北北西)へ、秋山川に沿う様に県道200号(正雲寺バイパス)を進みます

 約3.0kmで「⇙秋山、県道200号線」の標識に従って「仙波」信号を左(西北西)へ

 道成に約9.2km秋山川の谷を詰めて行くと

 「栃橋」の直ぐ先に

 「宝出山のもみのき⇒1.0km」の標柱があります

 ここを入りますが間も無く砂利の林道に変わります

 約800mで林道分岐に木材の集積所があります、ここは直進して右の林道に入りました、目的地までは150m程です

(ここに車を止めて歩いて行くことをおすすめします、右側に林道の奥は林道が崩壊していて約400mで通行止めでしたのでバックで戻って来ました)

 左手の斜面のスギ林の中に目的のモミノキが見えました

 すぐ先の林道脇に標柱が建っています

 「とちぎ名木百選 宝出山のもみの木」です

 すぐ脇を上がると杉に注連縄が渡してあります、奥に石祠が見えますので鳥居の代わりの結界となっているようです

 石祠です、お名前は分かりませんが山神様だと思われます

 モミノキを南側から見上げました

 南西側から、南側の太い根が斜面の重力を支えているようです

 南東側から、目通り幹囲4.8m、樹高38m、推定樹齢300年と大木です

 東側から、幹の北側の面にはマツ科らしい樹皮が見られました

 では、次へ行きましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・M-1号墳」です!!

2024-12-11 06:30:59 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・Mー4号墳と復元住居」を見て、公園の西端の流れ山と小二子古墳の間を北へ戻って来ました

 北駐車場側に大きなモニュメントがあります


 南側から見ず時計のオブジェです

 東側から

 説明プレートです
   水時計のオブジェ
 このモニュメントは、「時の広場」の中心に広場のランドマークとして造ったものです。
 モニュメントのテーマは、史跡の持つ長い時間の経過と市のキャッチフレーズである「水と緑と詩のまち」です。
 多くの人々に親しんでもらえる事を願い、親しみやすいオブジェと水の演出を組み合わせ、ユーモラスな動きを交えた詩情豊かなモニュメントとしてデザインしています。
          平成8年11月設置

 大室古墳群・M-1号墳は、北駐車場のすぐ東側です

 案内図です

 南側から見ました

 説明版ですが、表示内容が読めなくなっています 
   内堀遺跡群 Mー1号古墳 (帆立貝式古墳)
 公園整備に先立ち実施した発掘調査(昭和63年度)の結果に基づき、平成5年度に盛土と芝張りによって往時の姿を想像し再現したものです。
 二列の石張り(鉄平石)は周堀の範囲を表しています。また、この下には発掘調査の終わった古墳がそのままの形で保存されています。
 帆立貝の形をしたこの古墳は、発掘調査の結果、全長は周堀を含め約37m、幅は約39mであることがわかりました。
 墳丘の上部は後世の耕作によって削られていたので、高さや形ははっきりしませんが二段で造られていたようです。
 石室もすでに壊されていましたが、石の跡から両袖型の横穴式石室だったと思われます。
 墳丘からは円筒埴輪や人物、盾持ち人、馬、靫、鞆、鉾、帽子などの形象埴輪などが多数出土しました。
 前・中・後の三二子古墳(国指定史跡)と比べれば小規模ですが、墳丘に数々の埴輪を立ち並べ、威風を誇っていた当時の姿がしのばれます。
 墳丘の下の土や周堀を埋めて土の中の火山灰、また出土遺物等から、6世紀後半に造られたものと思われます。

 南西側から、復元した墳丘にはあちこちに登った跡が深い溝になってしまっています

 西側から

 西北西側から

 北側から、少し北側が高くなっているので、形が分かりやすく思います

 北東側から

 東側から、帆立貝の丸い形ですね

 南東側から見ました

 では、埼玉に戻りましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・Mー4号墳と復元住居」です!!

2024-12-10 18:43:46 | 遺跡・史跡
 次は、Mー4号墳です


 全体模型の南側から南西へ進みます

 北東側の通路出口から石に覆われたMー4号墳が見えました

 北側から回り込むと

 西側からの入り口です

 西側からMー4号墳です

 南側から、葺石に覆われて築成時の様子を再現しています

 東側から、埴輪が並べられています

 竪穴式住居です

 説明です
   竪穴式住居 平成10年8月10日完成
 大室公園内の内堀遺跡の発掘調査により得られた資料をもとに、古墳時代(6世紀)の竪穴式住居を建設しました。
 住居は市内小中学生等を中心とした住居建設体験学習に参加して下さった方々のご協力で完成しました

 高床式倉庫です

 説明です.
   高床式建物 平成11年8月8日完成
 大室古墳群が造られた頃、人々が集団で農業を営んで暮らしていました。
 当時、このような高床式の建物は、ムラの共同倉庫として、大切な種モミの保存などに用いていたと考えられています。
 復元されたこの建物は、夏休みに実施した歴史体験学習の一環として、市内の小中学生のご協力を得て完成したものです。


 平地式住居です

 説明です
   平地式住居 平成12年7月30日完成
 大室古墳群が造られた少し前の時代(今から1600年ほど前)になると、竪穴式住居・高床式建物に加えて、地面を掘り込まない平地式住居が出現します。
 住居としては竪穴式よりすすんだつくりで、冬は竪穴式、夏は平地式に住むというように住み分けることもあったらしいと考えられています。
 この建物は、夏休みに実施した歴史体験学習の一環として、市内の小中学生のご協力を得て完成したものです。
 また、この建物は、中に丸太を使ったイスとテーブルを置き、南半分と東側には壁を取り付けないで、休みながら古代住居エリアが見渡せるように休憩所として機能を持たせました。
         前橋市教育委員会・文化財保護課
 *ここに名を綱れている方々も40代ちなって社会の中心で仕事されていることでしょう

 綺麗なネコさんがいました

 猫に餌を与える人達へのお願いですね

 古民家(旧関根家住宅)は休館日でした

 *12月から3月の間は、土・日・祝日だけ(年末年始は休館)の開館に成っています(4月~11月の休日は月・火・水曜日(祝日を除)です)

 では、北口駐車場の東側のM-1号墳へ行きましょう
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・小二子古墳」です!!

2024-12-10 06:35:45 | 遺跡・史跡
 大室古墳群の北西端の前方後円墳が「小二子古墳」です


 南側の広場から「前橋市指定天然記念物 大室公園のコナラ」です

 南東側から、後方に「小二子古墳」の墳丘が見えています

 説明版です
   前橋市指定天然記念物 大室公園のコナラ
     指定年月日 平成23年3月29日
     所在地   前橋市西大室町2142 大室公園
 本コナラは、小二子古墳の南側で後二子古墳の西にある。コナラ、クヌギ、やムクノキからなる小さな林の南端に位置し、この株の南側は開けた草原になっている。
 株は、地上から0.9mで3本に分かれ、中央の主幹は地上から2.7mでさらに2本に分れている。
 幹周は3本の幹周の合計として610cm(252+215+143cm)、樹高21.5m、根周り8.82m、枝張り、東西25.7m、南北24.5m、であり、虫害の痕跡もなく樹勢は旺盛で葉の数・量とも多く、成長を続けているものとみられる。
 この測定結果は、本件の記録からからみて、県内では幹周の最も大きなコナラに属すると思われる。本コナラが、現在まで存続できたのは、大室古墳群内にあって伐採を免れてきたためであろう。
 コナラは、小二子古墳の周辺や大室古墳群の中に数多く存在しており、大室古墳はこの面でも貴重な場所であると考えられる。
 なお、大室古墳は赤城山の山体崩壊による「流れ山」の存在と貴重な草本も含む平地林として、古墳群とともに保護されるべき存在である。 
            前橋市教育委員会
 *コナラに関しては、このブログの2017年10月23日に「大室公園のコナラです」で紹介させて頂いております、その時にも各古墳も少しだけ紹介していました。


 「小二子古墳」を「後二子古墳」の北西端から見て行きます

 小二子古墳の後円部です

 後二子古墳で表記した「史蹟 後二子古墳並小古墳」の標柱です、した3文字「小古墳」が小二子古墳の事です

 北側から

 西北西側から、墳丘に埴輪が並べられています

 説明版です
   ~埴輪のデパート~ 国指定史跡 小二子古墳
 小二子古墳は、全長38mと小規模ながらも、2段築成の前方後円墳です。
 この古墳は流れ山と後二子古墳に挟まれたせまい空間に造られています。
 後二子古墳と同時期に方向を揃えて造られていることから、後二子古墳とかかわりの深い人物の墳墓であると考えられます。
 石室は、石を抜き去られたために破壊を受けていました。さいわい入り口部分は、壊されずに残されていて、石室のふさいだ状態がよくわかりませんでした。
 石室の前からは、墓前祭祀に用いた土器や火を燃やした跡が見つかりました。こうした様子も復元されています。
 小二子古墳からはたくさんの埴輪が発見されました。人物・馬・家・大刀などの形象埴輪や円筒埴輪は、大きく後円部と前方部の2つのグループに分けられ、設置されています。

 西側から

 前方部に並べられた盾や靫型(矢入れ)埴輪・馬などの象形埴輪です

 馬や人物埴輪です

 武人の埴輪も並んでいます

.後円部の上にも多くの靫型(矢入れ)埴輪や翳・大刀・鞆・朝顔形円筒埴輪などが並んでいます

 説明版です
   小二子古墳 (6世紀後半)
 この古墳は、後二子古墳とともに「史跡後二子古墳並小古墳」の名称で史跡に指定されています。
 墳丘の長さ38mの小前方後円墳で、後二子古墳と西の山の間に向きをそろえてはめ込むように造られています。
 〇後円部の埴輪群
 家形埴輪の周りに翳(さしば)が立ち、その外側に大刀・靫・鞆・盾が取り囲んでいます。
 〇前方部の埴輪群
 盛装の男子・武人・巫女・農夫等の人物や馬・盾・靫が並びます。
 このような埴輪は、下段に置かれることが多く、前方部上に置かれたこの例は珍しいものです。
 〇埴輪の復元
 復元した埴輪の種類と数や位置は、下段の平坦面や周堀に崩落していたものから想定しました。
 埴輪の位置と形の不確かな部分は色を薄くしてあります。
 〇石室
 石室は壊されていましたが、全長6m、奥壁部分で幅1.8m、高さ1.8mの横穴式石室とみられます。
 石室の入り口は石で塞がれ表面は粘土で覆われていました。
 〇墓前のまつり
 後二子古墳と同じように、石室の入り口付近に焼土が二カ所あカ、儀式に使われた土器が出土しました。

 石室入口です

 南東側から

 東南東側から後円部です

 次は、南側の広場を下って南西側の古民家へ行きましょう 
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・後二子古墳」です!!

2024-12-09 20:33:23 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・中二子古墳」に続いて「大室古墳群・後二子古墳」です

 中二子古墳の北西側に位置します、北側の駐車場側から近付きます

 公園案内図です

 北西側に「史蹟 後二子古墳並小古墳」の標柱です

 史跡 後二子古墳(うしろふたごこふん) 昭和2年(1927)4月8日指定
   「埋葬の 儀式を偲ぶ 後二子」
 前・中二子古墳より小さい前方後円墳です。
 墳丘から人・馬・家などの埴輪が出土しています。
 円筒埴輪列の中には親子猿の付いたものもあります。
 造られたのは6世紀後半とみられます。

 北西側から前方部です

 後円部です

  ~巧みな石室造り~ 国指定史跡 後二子古墳
 後二子古墳の石室も前二子古墳と同様に明治11年に開けられました。
 今回の調査によって築造方法にいくつかの工夫がなされていることがわかりました。
 地中を掘って石室を低く造ることで墳丘の盛土を節約しています。
 また石室が低いために地面を掘った通路により出入りが行われました。
 前庭部には、儀式に使われた煮炊きの跡や土器がまとまって出土した様子が復元されています。
 石室は南に開きますが、古墳は北側から見た方が大きく立派に見えます。
 円筒埴輪も、石室の前に復元されているように南側は小さな埴輪が間隔をあけて使われていましたが、北側には大きな埴輪が設置されていました。
 また、円筒埴輪に「親子猿」や「犬」の小像が付けられていました。
 形象埴輪のうち馬形埴輪は、大阪府四天王寺宝物館にある「人が乗る馬形埴輪」と同じ制作者の埴輪であることがわかりました。

 後二子古墳の北側周堀の中提を東へ進み、後円部を見ました

 前方部です

 東側から二段築成の後円部です

 南東側に回り込みました

 後円部南側に石室の入り口です

 説明版です
   史跡 後二子古墳
     横穴式石室
 〇石室の特徴
 死者を葬る玄室を広くした両袖型石室で、大きい石を使っているところに特徴があります。
 玄室は間仕切石で二つに分けられ、奥には遺骸とともに装身具・大刀など、手前には武具・馬具・須恵器が置かれました。
 この石室は墳丘の基壇面を掘り下げて造られ、入口までは基壇面を堀くぼめた墓道がついています。
  副葬品
 ○武具ーーー大刀2振・大刀金具2・小刀2振・鉄鏃若干
 ○装身具ーー金環11個
 ○馬具ーーー轡片
 ○須恵器ーー高杯・提瓶
  石室の比較
 ○石室の長さ、石の大きさ、天井の高さを前二子古墳の石室と比較しましょう。
 後二子古墳ーー6世紀後半ーー石室全長約9.50m、幅2.7m、高さ2.2m
 前二子古墳ーー6世紀初めーー石室全長13.89m、
  円筒埴輪列
 ○墓道両側の埴輪列に違いがあるのはなぜでしょうか。
 墓道西側ーー3・4条突帯まじりの2条突帯埴輪列。
 墓道の右側から並べはじめた大型埴輪が足りなくなったりこわれたりしたため、小型円墳用の小さな埴輪が補充されたのでしょうか。
 墓道東側ーー4条突帯の大型埴輪列
 見晴らしの良い東側から北側にかけて、大型の埴輪を配置することにより、古墳をより壮大にみせようとしたのでしょうか。
  墓前のまつり
 ○奥に見えるのは、石室の入り口前で行われた儀式に使われた土器の一群です。
 土器の特徴からこうした儀式が何回か行われたと考えられます。
 葬られる死者と最後の飲食を共にする儀式が行われたのでしょうか。
 ・土器:土師器(甕・鉢・杯)
    :須恵器(高杯・𤭯(はそう))
 ・鉄器等(小刀・鉄滓(てつさい))
 ・焼土 (火を焚いたあと)
 ○出土した土器(土師器)を特徴から古い順に色分けしました。
 6世紀後半から7世紀前半にかけての土器が見られます。

 東側の大型埴輪列です

 西側の小形の埴輪列です

 石室です

 周堀南側中央から後円部です

 前方部です

 堀底から西側です

 墳丘に上がってみましょう

 前方部です

 後円部です

 後円部頂上から前方部を見ました

 前方部から後円部を見ました

 戻って周堀の南西側から

 西側から前方部と堀を見通しました

 直ぐ右手(西側)の、「小二子古墳」を見てみましょう
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群馬県前橋市、西大室町「大室古墳群・全体模型」です!!

2024-12-09 06:31:38 | 遺跡・史跡
 後二子古墳の南側の広場に古墳の「全体模型」があります

 南側から

 説明です
   大室古墳群
 6世紀頃、赤城南面を代表する古墳が同じ台地の上に並んで造られました。また、すぐ東からは堀と柵で囲まれた豪族の屋敷跡(梅木遺跡)も見つかっています。
 古墳の大きさ・高さ・堀の様子などから前二子古墳から中二子古墳の頃が最も栄えたとみられます。雄大な赤城山を背にくりひろげられた古代人の営みにおもいをはせてみませんか。
 *南から造られた古墳
 赤城南面のゆるやかな台地と河川によって削られた低い谷地が入り組んでいます。
 大形の前方後円墳は西側の台地の上に同じ向きに南から順に造られました。
 ☐生活の場:集落
 台地上には6世紀の集落もあり、発見された35軒ほどの住居跡の中には一辺が10mをこえるものもあります。
 ☐生活の場:水田地域
 東を流れる桂川沿いや南に開けた低い土地では、水田が作られていました。

 東側から

 説明です
   梅木遺跡(5世紀後半から6世紀初め)
 豪族の屋敷跡。一辺65mほどの方形部分の周囲を柵でかこみ、その外側を幅5m、深さ1mほどの堀がめぐります。
 柵列の様子と張り出しがあることから西側にが入口と見られます。屋敷内部は、桂川の氾濫で削られていましたが、日本で最初に発見された三ツ寺Ⅰ遺跡とよく似たつくりです。時期的に、前二子古墳との関係が考えられます。
 △浅間山・榛名山
 西方にある浅間山や榛名山は、今までに大噴火をくり返してきました。
 その時に積もった火山灰との関係で、古墳が造られた時期を知ることができます。
 前二子古墳や中二子古墳の下層から6世紀初頭の榛名山の火山灰層が見つかったことから、古墳が6世紀初頭以降に造られたことがわかります。
 *三ツ寺Ⅰ遺跡推定復元模型(かみつけの里博物館提供)
 群馬町(現高崎市)にある5世紀後半の豪族の屋敷跡。
 内部は、「まつりごと」を行う部分と「くらし」の部分に分かれていたと推定されます。

 北側の説明です
   県内有数の古墳群
 大室の古墳は、6世紀代の三つの大前方後円墳と二つの小前方後円墳、ほかに5基の円墳からなる県内有数の古墳群です。
 これらの古墳は、M-2号墳が竪穴式の小石室のほかは横穴式石室をもちます。

 西側の説明です
 △多田山丘陵
 大室古墳群東方の多田山丘陵には、かつて30基ほどの古墳がありました。
 家形埴輪で有名な赤堀茶臼山古墳(5世紀中頃)や唐三彩の枕が出土した多田山12号墳(7世紀後半)などがあります。
 ☐のちにできた五料沼
 五料沼は、江戸時代に堤を築いてつくられました。
 古墳時代は、北から細い流れが入る谷地でした。
 沼の中からも住居跡が見つかっています。
 △石の山
 古墳の周辺には、赤城山の噴火のなごりの小山がいくつかあります。
 古墳群の北西の山には、古墳の石の掘り取り跡があります。

 公園案内図です

 では、埼玉に帰ることにしましょう


 
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群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・中二子古墳」です!!

2024-12-08 18:31:06 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・前二子古墳」に続いては「中二子古墳」です

 大室古墳群で一番大きな前方後円墳が中二子古墳です

 大室古墳群南駐車場から西へ進むと中二子古墳の後円部です、手前に外堀、中提を隔てて奥に二段築造の古墳です

 古墳群の案内図です

 「史蹟 中二子古墳」の標柱です

 説明版です
   ~大富豪の栄華~  国指定史跡 中二子古墳
 中二子古墳は、大室古墳群の中で最も大きく立派な古墳です。内堀や中堤、外堀が全周し、墳丘は葺石で覆われ、内堀に工事や儀式のときに通った「わたり」が存在します。
 かつて中堤は新堤沼を造るため、南側を大きく削り取られてしまったため、その部分を復元して中堤が一周している様子を再現しました。復元された中堤の上には、古墳を外敵から警護するために立てられた盾持人埴輪と円筒埴輪が、密接して並べられた様子も復元されています。
 この古墳からは、たくさんの埴輪が出土しましたが、その中から、円筒埴輪に人の顔が小さく表現された珍しい埴輪がみつかりました。日本全国でも数例しかないものです。
 また、形象埴輪のほとんどと円筒埴輪の一部に、海面骨針の化石と結晶片岩の砂粒が入ることから、藤岡市周辺で製作された埴輪が運ばれてきたと考えられています。
 中二子古墳では、石室が見つかっていません。どのような石室に、どのような副葬品が納められているかという謎が残されています。そこで、この古墳は墳丘に立ち入らず、外から見学するようにしてあります。いつの日かその謎が解明される時がくるかもしれません。

 左手(南側)には、前二子古墳です
 
 史跡標柱の所を右(北西)へ進むと、中提への降り口です

 中提から前方部です

 後円部です

 中提の上が遊歩道に成っています、西側から東側を見ました

 古墳の北西側の内堀と中提そして外堀です

 内堀のブリッジと後円部です

 前方部です

 北西側の説明版です
   史跡 中二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
     「中二子 威容きわだつ 埴輪列」
 大室古墳群の中で最大の前方後円墳です。周りには二重の堀をめぐらしています。
 墳丘や中提上には、密接して並べられた埴輪列が確認されています。
 埋葬施設としては、後円部に横穴式石室が営まれていたと推定されています。
 この古墳が造られたのは6世紀前半とみられます。

 北西側の内堀です

 中提を南へ進むとまた前方部へ渡るブリジットです

 南西側から前方部です、木の大枝が倒れていました

 中提に円筒埴輪が並べられています

 外堀を渡って南西側から中提に並べられた円筒埴輪です

 前方部です、外堀の外側(南側)の遊歩道を東へ進みます

 南東側から前方部を見ましたが、木々のためよく分かりませんね~

 後円部(南側から)も墳丘の様子はよく分かりません

 東側から外堀です

 説明版です
   史跡 中二子古墳
 墳丘の長さは111mで、二重の堀を含めると170mにもなります。
 この大きさや内容から赤城南麓地域を支配していた大豪族の勢力が最も栄えた頃の首長の墓と考えられます。
 ■埴輪
 墳丘の上下の平坦面や中提には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。
 ■中提の復元
 円筒埴輪の間に盾持人と朝顔形埴輪が規則的に配置されていました。これをもとに埴輪列を再現しました。
 ○葺石ーーー二段に築かれた墳丘や中提内側の斜面は山石や河原石で覆われています。
 ■中提複眼前の断面
 中提は6世紀初頭の榛名山の火山灰層の上に土を盛って築かれています。
 このことから古墳は6世紀の前半に造られたことがわかります。

 中提の円筒埴輪を見ました

 次は、五料沼の西側を北へ進んで「後二子古墳」へ行きましょう
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