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復活の花火!

2020-07-28 12:21:00 | 花火

▲斜めに火を引く花火が4本走って、五芒星を成す(足りんけど)

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 ようやく、ようやく花火を見ることができた!

 1月25日以来だからちょうど半年ぶり。長かった、長かったよ…。好きなものを見れないのつらかったよ…。
(6月の「CHEER UP!花火プロジェクト」はウチからは見えなかった)

 今回の花火はプライベート花火である。

 打ち上げは大曲の煙火店「北日本花火興業」
 (花火会社を花火マニアは煙火店と呼ぶことが多い)
 日本には数百の煙火店があり、中には打ち上げだけというところもある。こちらの煙火店は花火の製造も打ち上げもするところである。

 この話を最初に聞いたのは6月のこと。だが、その日付は自分が恒例の出向に行く企画の校了日近くであった。いつも、校了前の週末はボロボロになって出社して必死に仕事をしていた記憶。出向先に3日泊まったなんてこともあった。
 今回も多分そんなことになるだろうという予測で出向に出た。そして渡されたスケジュールを見て絶望する。校了日が早まっており、その打ち上げ日にドンピシャになっていたのである。

 もうだめだ~。せっかくの貴重な花火なのに~( ノД`)シクシク…


 知っている人も多いだろうが、コロナ禍では「三密禁止」が常識となり、人々が集まる花火大会は2月ごろから中止が相次いでいた(冬だって春だって花火大会はあるのよ)。

 そんな環境下、どうやったら花火が打ち上げられるか…。とチャレンジしたのが6月1日の「CHEER UP!花火プロジェクト」であった。日時は直前に公表、場所は秘密のサプライズ打ち上げ。それが「三密」を回避する方法だった。

 だが、花火はただで上がるものではない。通常はスポンサーがついて、その費用で打ち上げられることが多いが、「CHEER UP!花火プロジェクト」は全国の煙火店側が身銭を切って打ち上げたものである。
 見ていた人は幸せな気持ちになったのかもしれないが、煙火店は夏の花火大会が中止となり、日々の活動もできず、経営的に苦境に陥った。そんな状況下で身銭を切って打ち上げてくれたのである。

 そんな状況を知っている人が、今回の花火を発注した。
 骨折であちこち飛び回れず、花火も全然見れない自分にも情報が回ってきた。

 とはいえ、その日!?


 だが、この状況を打開したのもコロナであった。
 この仕事の発注元(大手)はコロナ禍で売り上げ急降下。全同月比97%減とか壊滅的な営業数値となっていた。そんな状況下の仕事であったためトータルの仕事量が減り、また担当者各位も在宅やら計画休業やらであまりおられなかった。こういう条件下でより効率化が進み、なんと校了直前にその校了日が早まることになったのである。
 それが打ち上げ前日。

 自分、初めてコロナにポジティブな印象を持ったよ…(罹患された方々にはお見舞い申し上げます)。
 

 慌てていろいろ手配。
 出稼ぎの打ち上げ会を早々に辞し、荷造りをする。


 そして翌日北へ向かった。

 夕方、最寄り駅に降り立つ。いきなり知り合いの大御所に遭うw 
 一緒に現場に向かうと、河原にはもう人々が…。
 考えてみれば、彼らと会うのも1月以来だったりするんだよなぁ。自分は骨折後初復帰だし…。
 あいさつ大会始まる。だけど「密」はダメなので、観覧は分散して…。

 やがて西の空が赤く染まり、闇が下りてくる。
 そして地域FMから花火打ち上げのアナウンス。

 そして打ち上げが始まる。



▲先変化は北日本さんのお得意玉


▲花キキョウ芯と八方に葉落が彩りを添える


▲美しい八方の足元を虹が彩る


▲八方もバリエーション多く、美しい


▲発色の良い千厘の足元を虹が彩る


▲北日本さんの十八番である型物も忘れずにsmile



 とても個人スポンサーとは思えないほどの規模と内容で、本当にこれが花火復帰第一弾となったことはうれしいことだった。
 終わると同時に拍手が沸いた。そして、花火師との「光の交換」も行った。

 この花火は羽生結弦選手がフリーで使用した「SEIMEI」に合わせて打ち上げられたものである。自分はさらに、映画「陰陽師」の主役であった野村萬斎氏も大好きであるので、とてもうれしい花火だった。


 時間はそれほど長いものではないが、個人で打ち上げるには当然大きな費用が必要となる。そしてその要望を聞いて、この花火を作り上げてくださった北日本花火興業の素晴らしさよ!
 ヘッドライトを振りながら、そっと涙をぬぐった。



出稼ぎ中

2020-07-05 00:58:00 | 雑事つれづれ

▲横浜外人墓地にて

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 2本足になった翌日、久々に会社行った。会社は開店休業中で、従業員の私は特別休暇という自宅待機状態だった。が、その状況が4月から続いており、会社としてもそろそろ何とかしないといけない…という状況に追い込まれていた。今回の呼び出しは、その対策内容を通知するという。

 まぁ、内容は当然のもの。クライアントが業務再開できないので、当然弊社も業務がほとんどない。すなわち収益が全くない状態。だから、お給料カットします。ボーナスもカットします。ちな、冬のボーナスはありません…というもの。
 いつか来るとは思っていたけれど、それでも仕事しないのに給料は出すというのは大変なことだと思う。

 幸か不幸か、たまたま自分は恒例の外部出向時期を迎えるので、給料カット分のほとんどは補填されるのだが、その出稼ぎ期間の日数のみである。


▲横浜のねこちゃーん

 ということで、その翌週、社外出向先へと向かう。
 今回は複数の高層ビルによって構築されたオフィスエリアへ。下層階には飲食店もコンビニも銀行もある。今までの何もないところとは全然違う。しかも、結構な高層階で、海が見えるは新幹線は見えるは飛行機は見えるわ…という環境。
 オフィスのデスクは透明なシールドによって区切られている。

 この仕事、回を重ねるたびに環境が改善されて、どんどんグレードアップされていく。さすが業界1位の会社はカイゼンがきっちりされていくなぁとその強さを知る。

 業務内容は、従来と変わらないものの、やはりコロナ禍の影響はあり、作業量は目に見えて減っていた。この減少分は、いろんなところにさらなる影響を与えることは明らかで、ほんと新型コロナの恐ろしさを経済面でまざまざと感じている。

 現在スケジュールのちょうど半分ぐらい。
 もうしばらくは出稼ぎモードが続く。



▲港の見える丘公園のバラ


抜釘手術、そして二本足へ

2020-07-01 00:16:00 | 雑事つれづれ
 1月末に骨折してから丸4ヵ月過ぎた6月頭、抜釘手術が予定通り組み込まれた。会社はまだほぼ休眠中のため、特に問題なく日付が設定される。ただまだコロナが完全に鎮静化したわけではないので、そのリスク対策としてCTで胸部をスキャンされた。肺炎の有無を確認するためである。その2日後に予定通り入院した。
 さすがに新潟から母や妹を呼び寄せるのは大ごと過ぎるので、今回も一人入院。全身麻酔手術に付き添いなしである(妹は腹腔鏡手術したばかりだったし)
 前回間に合わなかった高額医療費免除書面がまだ有効期限だったため、今回は、保証金を預託し、退院時に精算することになる。まぁ、プラスしても1万円ちょっとというあたり。

 松葉杖つきつき、病室に案内される。病室は以前入院していた大部屋であった。前のベッドの対面側。窓から一番離れている。まぁ、今回は2泊3日だからね。

 荷物を整理し、入院服(持参のTシャツとハーフスパッツ)になると同時に、各部門の医療関係者が書類を持ってわらわらやってくる。前回も聞いた麻酔の説明やら、栄養指導やら、看護方針やら、リハビリ計画やらを伺い、サインをする(一部は事前に渡されていた書類の署名提出)。
 それが終われば完全に暇となる。久々に宮城谷正光を読みつつ、夜を迎え、夕ご飯。翌日は手術日のため絶食。

 9時に就寝、6時起床。
 2日目は手術当日。

 7時に最後の水分補給をして、徐々に手術モードへ。すっ裸になってT字帯をつけ(今回はさらしを使った自作)ガウンを羽織る。9:00になったところで、松葉づえをついて一人で手術室入場である。
 狭い手術台の上によじ登り、また素っ裸にされる。まぁ、その前に麻酔で意識を失っているのだが…。

 次の瞬間は手術終了となっていたw 抜釘手術全行程は約90分であった。
 4人目の主治医が、足から抜いたプレートとボルトを見せてくれた。さすがに血まみれではなく、ちゃんと洗浄済み。そして、抜釘した右足が痛いことに気付く。まぁ、せっかく閉じた傷口を再度切り捌いて金属を取り去ったわけだから当たり前であるが、前回はなかった感覚だ(痛み止めと麻酔を大量に入れられていた前回)。
 帰りは、ベッドで病室へ。この辺り全身麻酔がまだ効いていたので、また寝てしまい、全然記憶はない。2回目なのに、なんてこったい!
 病室に戻って一瞬目覚めたが、また麻酔に引っ張られて寝る。どうせ今日はご飯は食べられない。

 1時間ほどで覚醒。飲み物は15時まで摂取できない。喉乾いた~。
 なのに、尿意はある。めっちゃある。麻酔抜くために点滴で生食入れられているからね
 今回は短時間手術のため、尿管は突っ込まれなかった。とはいえ麻酔が効いている間はトイレに行くことは叶わず、ベッドに簡易トイレを突っ込んで排出するという。看護師さんを呼んで用意をしてもらったが、寝たまま排尿をするというのは意外と難しいものである。便器の位置を少し変えたり、上半身を起こしたりするものの、なかなか出ない、赤ん坊のころには散々していたことなのに、なんてこったい。
 ちょろっとだけ出して、いったん撤退してもらう。
 が、やはり尿意は再び襲ってきて、再度ナースコール。今度はうまくできた。

 ということで、安心して再度残り麻酔の揺蕩いに身を委ねる。

 15時になり、ようやく水分摂取の許可。麻酔も切れる時分なので、トイレも自分で行けることになる。
 とはいえ、歩くための装具をつけると傷に触れるので、結構痛い(>m<)

 本を少し読んだりしながら夕飯を待つ。当初手術日当日は朝から晩まで食事は出ない話だったと記憶していたが、大丈夫そうだからって夕飯OK指示が主治医からあったらしい(先生ありがとう!)

 
 そして3日目。退院日である
 朝食を食べたら、荷造り開始。今回は2泊3日風呂ナシだったので、着替えも不要で最低限の荷物のみ。薬剤師から術後の抗生物質と最低限の痛み止めを受け取る(前回の痛み止めが大量に余っている)。10時前に事務方から請求書を受け取り、窓口で差額を支払う。そして診断書の請求(保険申請用)。すべて終わり、看護師に忘れ物チェックをしてもらい、無事退院となる。
 ただ、手術跡はまだ痛いので今回もタクシーで帰宅。

 自宅療養中、参ったのは抗生物質。翌朝、顔が真っ赤にパンパンに腫れていた。薬名から調べると、副作用らしい。瞼の腫れがひどく、上瞼が1センチも飛び出る状態。目も明けづらい状態で、さすがに週明けに病院に連絡。

▲右目の腫れ。鼻のように高々と瞼が腫れている

 とはいえ、その薬は必要なので、呼吸困難とかでないのならそのまま飲み続けてほしいとのことだった。結局、その薬を飲み続けた5日間はずーっと顔が晴れあがっていた。手足とかのむくみは全然ないのも不思議なものだ。
 幸い、世間はまだマスク全盛であったから、顔が若干赤いのはともかく帽子をかぶってマスクをつけていれば疑われることなく日常の買い出し等はできた。

 薬を飲み切った翌日から、ようやく顔の腫れが引き、3日後には元に戻ってほっとした。あのままではアンパンマンにジョブチェンジをしなければならなかっただろうw



 1週間後再度病院へ。
 レントゲンを撮り、消毒をしたら、「じゃぁ、今日から装具を外していいから」のご神託が下る。

 えっ!? 本当に!?

 予想より早い展開に、上の空状態となり、もう履かなくていい装具を再びつけてしまうぐらいには混乱していたw
 まぁ、当初から「早ければこの日に松葉杖も取れるかも…」って言っていたから、ちゃんと右足用の靴も持ってきていたんだけれどねw

 リハビリルームに行き、松葉杖返却手続きをし、保証金を返してもらう。
 とはいえ、右足の筋肉はすっかりなくなっているので、ピョコタンピョコタンという動きになる。

 それも数日で何とか普通っぽく歩けるようになっていった。

 まだ階段等はエレベーターやエスカレーターがあれば使うけれど、もう、ほぼほぼ大抵のところは普通に歩ける。
 不安もなくなったので、昨日は今年初の飲み会に参加して千鳥足で帰ってきたぐらいである。