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熊本地震

2016-04-28 21:55:00 | 新潟県中越大震災

▲長岡の白菊は戦災の被害者から、今に至るさまざまな慰霊のために打ち上げられる


 遅ればせながら、熊本地震の早期復興と被災された方の生活の早期再建をお祈りします。

 当初は新潟県中越地震を彷彿とさせる展開を見せた熊本地震は、最初、14日の震度7が前震とされ、その後、16日深夜に再度記録された震度7が本震とされた、今までに見たことのない大災害となったのは周知のことである。

 暗い時に発生する地震は、被災の全容が見えないから怖い。
 案の定、16日の朝には崩れ落ちた斜面や押しつぶされた家々が映し出され、10月24日の朝が思い出された。

 今日、余震は1000回を超えた。中越地震が2年で記録した回数を約2週間で超えたことになる。



 神戸、中越、東北とさまざまな地域で発生してきた大災害は、今後また別なところで発生しうるものである。それが日本である。


 次は自分がや被災者になるかもしれない、という危機感を、忘れずにいることが必要だろう。そのために何をしたらいいのか…。



 いくつか気になった点を自分への戒めとして記録しておく

●安易なリツィートをしない
 善意によるRTは大勢の人の目に触れる。だが、それは震災エリアのごく一部の人に向けての情報である。A町にいる被災者はB町の情報を得ても動くことができないのだ。そして大量の情報の中にB町の情報が埋もれていくリスク。もはや大量のRTは情報テロであるといっても過言ではない。
 少なくとも12時間以上前の情報はRTする必要があるか、特に非被災地の人は情報をきちんと精査する余裕を持ちたいものである。すでにその情報古くなっている可能性が高いからである。

●情報の真意を確かめる
 悪意のある、あえてウソの情報も流れた。センセーショナルかも知れないが、それが本当かどうかツイッターができる環境にある人はネットで調べることもできるはずである。

●あわてて物を送らない
 配送方法がない、配送する道がない、配送する人がいない(地元の人はみな被災者…)。もしどうしてもモノを送りたいのなら、自分でトラックを仕立てて、少品種大量物資(仕分けるのが負担にならないように)を荷台に詰め込んで、自分で運転する。

●政府・公的機関の支援は我々の税金で行われている
 だから、一生懸命働いて経済活動をして、税金を納めることが実は震災復興支援となる。
 東日本大震災でも言ったが、一時の自粛で得た1億円は1億円でしかないが、その1億円で経済活動をすればもっと増えるのだから、より支援額が増えることになる。


 首都直下型地震が来たら、被災者多数過ぎ、政府機関被災しすぎてパニック必至である。せめて水は倍量キープしなければなぁとセブンネットやアマゾンを見る今日この頃である。




▲昨年のやつしろの花火より。今年は、元々行かないつもりでいた(毎年は無理)。来年はきっと行くからね…。


▲昨年の長岡のフェニックス。今年は熊本への思いも込めてきっと…


星空と共に

2015-03-08 21:51:00 | 新潟県中越大震災

 仙台市天文台で昨年の3.11に公開されたプラネタリウムの特別プログラムである。


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 間もなく東日本大震災から4年という日を迎える。テレビなどもその方面の報道が増えてきた。そんな中、仙台天文台の「星空とともに」が都内で上映されると聞き、見に行ってきた


「星空とともに」
 東日本大震災の夜、大停電の被災地を照らしたのは、見たこともないような満天の星でした。
 その輝きに被災者たちは何を見たのでしょうか?
 被災者から寄せられた星と震災にまつわるエピソードをもとに、仙台市天文台が制作したプラネタリウム特別番組。


 昨年、仙台市天文台で3.11に公開された特別プログラム。その後全国のいくつかのプラネタリウムでも上映されていたが、なかなか見に行く機会がなかった。
 それが今年は都内2カ所のプラネタリウムで特別上映となり、行ってきた。



 10年前の新潟県中越地震の時、被災した母と弟、またそれ以外の友人知人親戚などから聞いた話の中で気になったのは、みんながみんな「ものすごいきれいな星空で、流れ星がいくつも流れて行った」というものだった。当然、一晩中の余震、それも震度5強以上の余震に20回以上見舞われながらである。
 小千谷は地方の小さな町である。夜はそれなりの照明がつくが、それも少し外れれば夜空には十分な星が見える。天の川だって、裸眼で見える。そんな環境なのに、わざわざ星空がきれいだったと口にするのは何でだったのかなってずっと思っていた。
 今になって思えば、地震で小千谷市のライフラインは完全にダウン。当然停電となり、真っ暗闇の世界である。唯一の発光体となった星々がきれいに見えたというのは、当然のことである(と当事者に教えられた)が、同じことが東北の震災現場でもあったのかという点に共感を覚えた訳である。

 中越地震が発生した時、当夜およびその後も何日か天気が崩れなかったのは何よりと思っていた。あのころは冬の訪れの第1波が来ることで、氷雨が降ってもおかしくなかった。
 東北ではあの夜、雪が降っていたことまでは覚えているが、その後の星空が広がったのは何かのメッセージだったのか…。



 都内での上映とはいえ、今回は足立区のギャラクシティと東大和市の郷土博物館という、中心部ではない地。ウチから見ると等しく離れている。当日の都合を考えて、足立区の方に向かった。

 西新井駅からすぐのところにあるギャラクシティ。無料上映ということで、整理券が配られていた。いざ、開場してみると席の埋まり具合は6割ぐらいといったところか。
 これは風化? それとも単なる宣伝不足?

 内容は、当日の夜空を写しながら、被災者の星空にまつわる体験談が朗読されるといったものである。特に、劇的な展開があるわけでもない。
 ただ、この手の話はまだ「こころの鍵」を緩ませてしまい、つい10年前のことを思い出してしまう。ハンカチを忘れたことを後悔した。




 都内以外でも全国で上映している→ 
 大抵3.11に関連した上映なので、期日限定なのが残念だな。



米に釣られて映画を見に

2014-03-29 20:06:00 | 新潟県中越大震災

▲東中野のテツの撮影ポイントより。正面にあるビル群はかつてここに暮らしていた時にはなかったものだ

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 久々に映画を見てきた。
 夢は牛のお医者さん(https://www.teny.co.jp/yumeushi/

 新潟のテレビ局が制作したドキュメント映画である。もともとは「ズームイン朝」のコーナーの一つとして取材したものが、継続され、いったん終了したものの、その中の女の子が高校生になってもその時の夢を追いかけていると知って取材を再開したというものらしい。
 映画化のきっかけは「東日本大震災」だったと、プロデューサーは言った。なんとか日本を勇気づけたい、頑張っていることを見せたいという思い。だけどローカルテレビ局ではそれが全国に発信できないもどかしさ。その思いを突破するための映画化だったという。

 映画ならどこにでも配給できる、どこでも見てもらえる。

 もちろん、大手でもなんでもなく、まして初めて「映画」を作るわけだから勝手がわからない面もある。それでも今日、新潟と東京(@ポレポレ東中野~4月下旬まで)で公開となり、この後もいくつかの映画館で公開が決まっている。

 私がこの映画を知ったのはほんの2日前のことである。朝日新聞の東京綿(いわゆる地方面)に出た記事でのことだった。
 実は映画が苦手な私。真っ暗中で映画の光は実はけっこう眩しく感じるらしく、見ているだけでコメディでも涙が止まらなくなるからだ。
 だから見に行く映画は結構マイナー路線が多い。だって大手モノは2年もしないうちにテレビで流れるからさ。だけどマイナー系はまずオンエアされないだろうから、いいと思ったら見に行くしかないだろう…って、あきらめの境地で行くわけである(笑)。



▲こういう風に桜と菜の花と車両が撮れる。運が良ければ4本並走だって…。まぁ、その筋の方は、ここで珍しい車両(臨時列車とか団臨とか)を撮るのだが。


 見に行くきっかけは、2004年の中越大震災で山古志の牛救出大作戦に、この映画の女性が関わっていたということを知ったからである。
 あの地震で、山古志の人々が全村避難となった際、真っ先に思ったのは「牛、どうなっちゃうの?」ってことだった。
 山古志は小千谷の東山と同じく、牛の角突きが残る地。現在は国の重要無形文化財にも指定されている。つまり、山古志の伝統である。その伝統をも手放さねばならないのか、とテレビに映し出される惨状を前にどこにもぶつけようのない怒りとか哀しみとかがないまぜになっていた(錦鯉に対しても思ったんだけどね)。それに、角突き牛とは別に肉牛も飼っていることもうっすら知っていた。
 その後、山古志の牛がヘリで救出されることを知り、安堵したものである(それでも助けられなかった牛は何頭もいたが)
 報道では、ヘリコプターが牛を何匹か入れた移動用柵を吊り下げられているところぐらいしか見られなかったわけだが、やはりあの現場には牛飼いとともに県内外の獣医が協力していたというものである。

 まだ大きな余震の危険性もある中、牛の状態を確認し、直前に麻酔をし柵に乗せる。鯉池をつぶた土砂崩れに巻き込まれて動けなくなった牛を泥だらけになって救出し、やはりヘリに乗せる。そんなことをしていたらしい。
 正直、このシーンは奥歯を強くかみしめなければ見られなかったが(マリのときはフィクションすら正視できなかった)、やはり見てよかったと思った。

 これは全編のホンの一要素に過ぎない。



▲真横から見るとこんな感じ。金網の間にコンデジのレンズを突っ込んで撮る


 主人公となった女性は、現在も一人の獣医として新潟県内で働いている一般人である。そのリアルな獣医の生活も初めて知るものだ。
 直腸検査ってリアルだとやっぱしアッパまみれなのねーとか、牛を押さえつけるのって大変だなぁとか、子牛の誕生の瞬間とか、産んだ直後の母牛のアクションの早さとか、作られた物語よりもリアルに見せられる方が説得力がある。

 ちなみに直腸検査については荒川弘の「銀の匙」5巻辺りを読むべし。


 そして、2カ所ほど猫がいい仕事しています(笑)



 東中野は10年近く私が住んでいた土地。あのころとはだいぶ変わってしまったけれど、桜並木はすくすく大きくなって見ごたえが出てくるようになった(特に神田川沿いの方)。まだ桜は満開ではないけれど、チョコッと春気分を楽しんできた。
 いやぁ、アトレヴィ内のカフェスペース2カ所はいい眺めですな~。
 そして鉄道撮影ポイントに立って気付いたのだが、前の方に建っているどれかのビルがスカイツリーを隠してしまっているのが多大なる残念だったりする。




▲本日先着200名様にお米(JA協力)と蕎麦(松代そば善屋協賛)をプレゼントと聞いたのでしっかり釣られて初回上映に行ってきた。
贅沢をいうのなら、同じ協賛でもヤスダヨーグルト(大好物!)の方がうれしかったのは小声で…



8年経ちました

2012-10-24 00:12:00 | 新潟県中越大震災
 わずかに日付変更線を越えてしまったが、10月23日は新潟県中越地震の発生した日である。今日で8年。月日は過ぎ去るが、記憶は廃れない。
 東日本大震災の被災者も8年経ったら元の生活に戻って楽しめるようになるといいと思うのだが

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/41346.html 山古志イベント

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/41325.html 長岡イベント

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/41310.html 二十郷

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/41298.html 川口


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121023-00000070-jijp-soci.view-000

1日遅れだけど、区切りとして

2011-10-24 23:49:00 | 新潟県中越大震災

▲ミュージックスターマイン@やつしろ全国花火競技大会
 今年は煙とかレンズとか、いろいろ全敗である。

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 本来なら昨日の日記に書くべき内容である。

 毎度のことで恐縮だが、昨日は新潟県中越大震災から7年という日である。今年は福岡空港で「その時」を迎えた。
 小千谷市では合同慰霊祭などが開催されたそうである。


 7年ともなればもうその時の状況を探すのは難しいと思うのかもしれない。しかし、そうではない。震災メモリアルとして、被害そのままに残しているところがある。
 ひとつが、妙見のがけ崩れ現場。親子が乗った車が巻き込まれ、4日後に男の子だけが救出されたという、あの現場である。あそこでは「ごく一部」を除いて崩れた岩や土砂はそのままあそこに残されている。
 ごく一部というのは、元々県道が通っていた個所である。この県道は、私のようは小千谷東部に住まいのある人間にとっては、長岡へ行くメインルートである。路線バスもここを通る。
 もともとは国道17号線であったが、バイパス造成によって県道に格下げされただけで、古くから地元の人々には欠かせない道であった。当初は被害のおおきさに廃道も検討されたらしいが、無事復活してくれてうれしい。
 で、この県道を通すところのみ、土砂を掘り下げて復旧させた。2年半かかった。すなわちそこは土砂の脇をすり抜ける道となっている。
 それ以外の土砂は今も信濃川に向かって投げだされている。多少草木は生えてきているが、対岸から見えるそれはやはり異様だ。
 昨日、そこに震災メモリアルパークがオープンした。

 この震災メモリアルパークはこのほかにも旧山古志村の木籠地区(稼働閉塞に伴う上流の土砂流入による集落の埋没)、旧川口村の木沢地区(GPSにより確定された震央の棚田)にも設置されている。

 さらに、震災メモリアル拠点も3か所オープン。
 長岡市はIT機器を用いた、被害の記録。小千谷市は当時の避難生活を時系列に再現した記録。旧川口町は、生活再建に欠かせなかった地域の人々のつながりの記録をテーマに、あの地震を忘れない、語り継いでいくことを目的とした施設を作った。

 詳しくはこちら→http://c-marugoto.jp/index.html
 このHP、施設オープン前からのものなので、あまりわかりやすいものではないのだが(オープン後は新しいバージョンにしてほしいものである)、一応公式なので…。



 3月以降、大震災といえば、それは東日本大震災を差すようになった。
 この新潟の地震ですら、ここまでにするのに7年かかった。このたびの地震がここまで到達するのに果たして何年かかるのだろうか…。



 ちなみに個人的なことであるが、実家のそばにあるもう一つの家「生家」はあの地震の際に飛びあがって、基礎から外れてでもそのまま7年も建っていた。この10月、その生家はとうとう取り壊された。
 これで我が家も震災関係はひと段落である。