▲2005年8月2日 最初のフェニックス
ただ、ただ、涙した
すでに新潟ニッポーなど新聞が伝えるように、今年の長岡まつり(8/2・3)の初日の2日は、大型花火の1番がフェニックスとなるようだ。
その目的は、このたびの東日本大震災の犠牲になられた方へ祈りを捧げ、何十万人もの被災者の皆さんに勇気を与えるためとのこと。
この件で、長岡まつり協議会のブログ(実行委員長が運営)が炎上気味である。その多くは、最初に打ち上げるのは反対という意見。
「最初にメインディッシュを上げるなんてばかげている」
「一番すごいものを最初に上げたら、後の花火がショボク見える」
「最後がフェニックスじゃなければ締まらない。最後にいったい何を上げるの?」
「今年は平日だから、仕事が終わってから行くと間に合わない」
「まだ暮れきらない空に上げるなんて、花火師さんに対しても失礼だ」
などなど…。
うーん、どうにもこうにこういう意見に共感できない。
それは私が「被災地」小千谷の出身だからかもしれないのだが…。
▲2006年8月3日 フェニックス
この年のバランスは一番よかったのでは
もともと、「長岡の花火」の歴史はお祭り騒ぎではない。
現在の祭りは、1945年8月1日の夜に行われた空襲の1500名弱の被災者の魂を慰め、復興の礎としようとしたことから始まった。
すなわちこの花火の根底にはずーっと「追悼」の理念が流れているのである。
それは現在も綿々と続き、前夜祭には灯篭流しが行われ、花火大会の最初には2日間とも「追悼の尺」から打ち上げが始まる。
▲2007年8月2日 フェニックス
ようやく型物のフェニックスを捉えられるようになった。これは冒頭に上げられるフェニックス
そして2004年10月23日、新潟県中越大震災が発生。
長岡は市中こそ甚大なる被害は発生していなかったが(あくまで山間部に比べれば、である)、山間部には深刻な被害が発生していた。
この地震の被害のシンボル的に扱われるものの一つに、旧山古志村の全村避難が上げられる。旧山古志村は、翌春に長岡市に合併する予定であった。
山間部を縫うように走る道路は、大規模な地殻変動と田んぼや鯉池が崩壊したことで寸断破壊され、村は完全に孤立した。長島村長(当時)は、余震続く中、現状での復旧は難しいと、全村避難を3日目に敢行した。
ほんの少しの間、のつもりで最低限の荷物を持ってヘリに乗り込んだ村民たちは、最終的に3年近くの避難生活を送るようになる。
長岡大手高校の避難所から郊外の仮設住宅に集団で移った村民は、新たに畑を耕し、互いに助け合いながら、村に戻れる日を待っていた。
▲2008年8月3日 フェニックス
ちょっとマンネリ気味?
何もかも山を離れ、何もかも慣れない避難生活。
時に荒れ、時に涙した村民の心の支えとなったのはラジオから流れてきた平原綾香の「ジュピター」であった。歌詞の「ひとりじゃない」に慰められ、助けられたという。
このエピソードは広く知られ、翌2005年に震災復興花火(フェニックス)を上げる際、そのテーマソングに「ジュピター」が決まったのはごく自然の流れだったのだろう。
なお、フェニックスは実は地震被害だけを復興対象としているのではない。地震以前、2004年7.13水害によっても長岡市は被害を受けており、そして震災後の冬はおよそ20年ぶりの豪雪となった。これらからの総合的な復興の意味をも背負っている。
追悼で始まった長岡まつりらしい試みである。
当初から10年限定で上げると宣言している。それは、復興には10年はかかるだろうからということである。
え、もう復興したんじゃないの? って感じる人も多いだろう。
確かに日常生活はほぼ元に戻った。でも心は…。
私の同級生に本当に生死の境を切り抜けた人がいるが、彼女がその時のことを話せるようになったのは5年後のことであった。まだまだ心は思うままにならない。
それにね、山間部を行くといまだに復興工事の跡が残っているんだよね。しょうがないけれど、本当はこのコンクリートで固められたところには緑の植物が生い茂っていたはずなのに…と思うと、なかなかすっきりしないのだよ。ちょっと心が内向きになっているとあの白いコンクリートは包帯のように見えてきて、思わず落涙してしまうこともある。
あくまで個人的な意見だが、私はあのコンクリートが旺盛な自然に覆い隠されるその日まで、復興は完了しないのだと心の中で思っている。
▲2009年8月3日 フェニックスに二尺玉が組み込まれるようになる
デジイチでの撮影開始
だから、あのフェニックスはすべての「被災者」に捧げられたものだと思うんだよね。
それを今回は、東日本大震災の「被災者」に祈り捧げようという。
長岡に限らず、新潟県には今、福島などから非難してきている人が何千人もいる。小千谷にもいる。今回は多分長岡市内で避難している人が対象だろうが、そういった避難者を長岡花火に招待して、このフェニックスを見てもらうのだという。
それは長岡花火の根底にある「追悼」にふさわしい。
いろんな問題や非難はあるだろうが、それは決して根本的な問題ではないと思う。長岡の花火が長岡の花火である限り、その意義は揺るがないと思う。
フェニックスを見ると涙が流れてくるという人は多い。
そのほとんどは感動なんだろうけれど、あそこで見ている人のすべてがその思いだけではないだろう。
地震の記憶とその後の苦労の記憶、そしてそれでも今こうやって平和に花火を見ることのできる感謝の気持ちがないまぜになって、心からあふれてきたものが涙になっているのではないだろうか。でないと、私の涙の説明は付かない。
▲2010年8月2日 ニューフェニックス(二尺玉6玉中4発)
真っ暗で無いときのフェニックスが心配という人もいたが、私は実はワクワクしている。
暮れなずむ空の蒼いキャンバスに咲く花火は、夜の花火とはちょっと風情が異なり、実はとっても好きだったりする。例年、長岡花火はそんな状態から打ち上げ始めるので、最初のウチはわざと長めにシャッターを開けて意識的背景を青くして撮っていたりする。
当然、花火師もそういう状況を想定してプログラムを組んでくるのだろうから(欽ちゃん頼みますよ)、どんなフェニックスを見せてくれるのか期待している。
あ、でも二尺(今年は3発らしい)は多分錦冠だからちょっと迫力不足になっちゃうかもね。↑上の画像は、二尺が4発写っているのだが、奥の方が明るい。なんとなく奥の方がO社様のような気がするのだが…。であれば、こちらの色の方が藍空には負けないぞ。
まぁ、それはそれでいいのだが…。
だって、6枚のフェニックスはすべて表情が違うじゃないか。