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初めてづくしの入院生活(血のバレンタイン)

2020-03-29 03:53:00 | 雑事つれづれ

▲病室でも入口よりの自分のベッドからは外の風景が見えないため、閉塞感を感じるとデイルーム(トイレの隣)辺りまで松葉杖で移動。東側に開け。そこは約20キロ離れたスカイツリーも見える場所。月の昇るのもスカイツリーにゲイン灯が付くのも、ここで見た。

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 病棟を移動しても基本的に生活は変わらない。
 朝6時起床、8時朝食、12時昼食、19時夕食、21時就寝。決まっているのはこれだけ。
 ここに、リハビリが午前か午後に30分入る、週に2回シャワータイムが30分ある。

 手術した足は骨がくっつくまで時間がかかるので、主治医(ちなみに入院中に3回変わったし、退院してから4人目になった)はほとんど来ない。たまーにレントゲン室行く支持をもらって一人でレントゲンフロアに行き撮ってくる程度。レントゲンデータのみが主治医のもとに届き、様子を見てもらうという感じであった。
 自分以外の患者さんのところには週1ぐらいで主治医がやってくるのが妙にうらやましかったりw そうこうしているうちに大部屋の半数はメンツが変更となった。中には1泊2日で手術して退院していく人もいた。
 ちなみに私も6月には1泊2日の再入院が予定されている。

 病棟を移動した翌日、9時過ぎにリハビリに向かう途中のことであった。
 リハビリは通常担当スタッフ(理学療法士)が患者を迎えに来て、一緒にリハビリフロアに行く。足取りがしっかりしてくると、一人で時間に来てくださいとなる。
 この日もお迎えがきて、両松葉杖と左足で立ってエレベーターを待っていた時である。ただ立っていただけなのに、重心が後ろに行って、バランスが崩れた。

 「あっ」って声が出た時はすでに体は傾いていて、左足でケンケン後退し、松葉杖で支えようとしたが、そしてリハビリ担当者も自分に向かって手を伸ばしたが間に合わなかった。患部の右足のつま先2回とかかと2回、床についてしまった。まだ荷重禁止の時期である。
 エレベーターホールはナースセンターに面しており、そこには大勢の看護師も詰めている。そんなところでの転倒騒動であった。誰からも微妙な距離で、だれも、当然自分もこの事態に対応できなかったのである。
 リハビリ担当スタッフがエレベーターボタンを押すために私からほんの2・3歩離れたその瞬間の出来事だった。
 あまりの事態に呆然とする。顔は青ざめ、目には涙があふれてきた。ホント、自分でも原因がさっぱりわからない。ケガがまた悪化してしまったかもしれない。どうなるの、自分!? という状態。

 とりあえず、病室に戻って、リハビリは中止となる。
 さすがに主治医も様子を見に飛んできた。手術で切った小さな傷口の方にわずかに出血が発生していた。ほかに患部とかが痛いわけではない。しいて言えば、こんなことになってしまった心が折れそうで痛い…。
 骨の状況は外からは見えないので、レントゲンがオーダーされる。
 ショックで思考停止となり、ベッドの上で固まっていた。

 17時ごろ、整形外科に行くようにと指示が出る。レントゲン撮るのかなって出向くと、主治医じゃない人が出てきた。いわく、「今から装具をつくるので、足の型を取ります」。

 ふぇっ!?

 なんだかよく分からないが、装具をつくることになり、それが6万円もかかることと説明される。白衣を着たその人は医師ではなく、装具会社の社員だそうで。明らかに理解が追い付かないまま、足の型を取られ「1週間後に納品します」といわれる。えっとー、主治医の先生の説明はナシですか!?

 病室に戻ると、主治医が走ってきた。「装具をつくることにしました」
 う、うん、わかったけれど、センセ、順番逆じゃね!?

 そして、よし、今から抜糸するよって…。え、このベッドの上でですか!? 今ですか!? 小さいはさみで糸を切ってピンセットで糸を外していくのだが、これがビミョーに痛い。そしてこういう小さなケガがとっても苦手な自分は意識が途切れそうで…。慌ててタオルで目隠しして見ないことにした。全部終わった後、ベッドの上には血で真っ黒になった糸の残骸が点々と残っていた。

 この日の動揺っぷりはこの後も続き。夕食のカレーをごはんのラップを取らずにぶっかけてしまうという暴挙に出る。なお、この日はバレンタインで、イチゴムースにはハート形のイチゴが載せられていた。


 翌日、朝食後。ようやくレントゲン撮影。
 戻ってきて、意を決しててトイレに行く、松葉杖で…。まだ昨日の恐怖がある。いつものトイレに行くだけで脂汗をかく。心臓がバクバクする。めっちゃ慎重にトイレに行き、めっちゃ慎重に病室に戻る。

 午後、リハビリがあり、車いすで行く。この日から装具使用に向けたプログラムに変更され、右足の筋トレも本格的になる。

 この辺りから、新型コロナの感染者が国内に出てきた。病院の雰囲気も少しずつ変わってきた。


 そんな中、「銀の匙」の最終巻が発刊。退院するまで見られないなぁ(病院の売店では扱っていなかった)と嘆いていたら、友人が手配してくれていた。ありがたい。


▲持つべきものは友人である。ありがとう\(^o^)/



初めてづくしの入院生活(中編)

2020-03-23 00:21:00 | 雑事つれづれ

▲リハビリ室と同じフロアにある病院のレストラン。天気の良い日は富士山が見えた。コーヒー解禁されてからは、結構通っていた

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 手術後も基本患部荷重禁止で、トイレに行くのに看護師さんを呼んで連れて行ってもらうという日々は変わらず。

 手術翌日からリハビリ。
 初日はまだ尿管つながれたままでのリハビリで、小水袋をぶら下げてリハビリするというシュールな状態。尿管付けたまま、パンツをはいて、ズボンはいて、パンツ&ズボンから尿管引き出している状態。なお病室では小水が溜まる袋がむき出しなのだが、さすがにリハビリ室ではそれはあんまりなので、目隠しの色付き袋がその上に被せられる仕様。
 平行棒とか松葉づえとか初日からチャレンジだよ。松葉杖って脇の下で支えているんじゃなく、腕で挟み込んで支えるということを知る。
 なお、この日のリハビリの成果次第で、尿管が外れるか継続かの決定が行われるので、メッチャ頑張った。とはいえリハビリ時間って20~30分程度なのよね。初めの方は足の機能確認の体操なので、全然リハビリしている感覚がない。術後から足指動かし放題だったし…(ウチの家族はみな足指が達者)
 無事尿管を撤去して人間らしくなった。

 リハビリは1日20~30分程度なので、以後は自主練とかなのだが、まだ全然自分に自信がなく松葉杖はなかなか進まず、しばらく歩行器でよたよた動いていた。



▲【グロくてスマン】術後5日目にリハビリの過程で包帯を取られる。そのすきにスマホで撮影。足の甲と内側のサイドの2カ所にメスを入れられている。母の大腿骨手術もそうだったが、私も手術痕はテープで覆うタイプだった。ちゃんと糸で縫い合わせて、その上をテープで覆っていた。この医療用テープ、はがす時も全然痛くない。

 術後1週間、そろそろシャワー浴びたいなぁ(それまでは温タオルでの拭清のみ)と思って看護師さんに話をしてみたら先生に聞いてみると…。昼食後、執刀医が傷口を見に来て、これなら大丈夫と上記のテープから防水シートに変わる。これで頭を洗える~! しかし、患部荷重不可でのシャワータイムはなかなか移動が難しかった、お風呂イスに座ってしまえば平気なんだけれどね…。


▲術後7日に包帯グルグルから防水シートにチェンジ。これでシャワー浴びれる~。
サイドの術口から浸潤が広がり、1日ごとに記録されていた。2日で湿潤は止まった。


 そうこうしているうちに、術後2週間という当初の入院期限が迫ってきたころ、突如病室お引越しが発生。これは退院フラグか!?と思ったが、本来の病棟への移動とのことであった。それまでいた病棟は、救急用で、ようやく整形外科の病棟が空いたということでの急なお引越しとなった。


▲病室変更で従来の4階から5階へお引越し。大部屋なのは変わりなく、ただ角部屋的な位置のため、ほかのベッドスペースよりわずかに広かった。途中までは車いすも併用だったため、車いす置き場として重宝した

 以前の病棟との違いは、騒がしさである。
 整形外科は体の骨とか関節とかが患部であって、体全体が弱っている人はあまり多くない。基本、患部以外は元気な患者である。なので、結構訪問者も多く、おしゃべりも多い。何しろ基本元気だから、しゃべるしゃべるしゃべる。それも割と大きな声でしゃべっていたりするので、はっきり言ってやかましいのである。一応電話は別のところでするように言われているが、看護師がいなければお構いなしで話している隣人もいたりして、静かに療養したい向きには不適かも。
 こちらも基本は元気だからいいんだけれど、うるさすぎても逃げる場所がないのはちょっときつかった。

 あと、最近のおばあたちのネット活用はすごい。前の病棟では80台のご夫婦ラインとかほほえましくかった。そんなスマホはもちろんほぼ全員が持ち(さすがに中坊は持ってなかったようだが)、向かいの推定70代後半のおばあは1日中Ipadを見ていた。麻雀ゲームとかしたり動画とか見たりしていたようだ。最近の病室にはLANケーブルも通常設置されており、それらを使えば楽々ネット生活である。そして病院って宅急便とか配達してくれるので、ネットで必要なものを入手することだって可能だってことを知る。
 昔はミニPCを持っていたが、それを手放して10年以上たって後悔するとは…。

 PC買ってから入院すればいいじゃないかって言った人がいたけれど、本当にそれは正しかった。まぁ、骨折した足で新宿行ってられなかったし、診察即入院となった当日ですら一時帰宅の荷造りと諸連絡だけで外出時間2時間もオーバーしちゃっていたし…。


初めての手術

2020-03-22 22:06:00 | 雑事つれづれ


 1月30日(木) 初めての手術である。

 手術開始は9:45より。ということで朝食抜き。水の摂取も7時まで。全身麻酔だからね…。
 母と妹は9:00頃到着。手術着に着替えたのは9:30過ぎだった。T字帯、使い捨てだからだろうが付け心地あまりよくないね。今後のために綿ふんどし作ろうかなって本気で思った。
 医療関係者で真っ先に来たのは麻酔部隊。前日に作ったルートにテストで生理食塩水を入れたのだが、これが痛い。脂汗をかくほどに痛い。麻酔医がこれは正しい位置にルートが取れていないとなり、急遽作った別ルートから点滴開始。
 時間になって車いすに乗って手術室のあるフロアへ…。ガウンの下はT字帯一丁なので、意味もなく恥ずかしい。手術室に行ってきまーすって手を振って入ると、ドドンと手術台が鎮座していた。まずはこいつに乗らねばならない。手術する右足は絶対荷重不可なので左足のみを頼りに手術台に腰掛け、よじ登る。
 すると一斉に周りからワーッと手術スタッフがやってきて、いろいろいろとバイタルなどの装置を付ける。首から上は麻酔医がついて、チューブ状の三角呼吸器を口に押し当てて深呼吸するように言われる。過去に友達に聞いた通り3呼吸目で意識を手放した。

 この後、口や尿道への挿管が行われ、手術となったらしい(もう意識はない)

 気が付けば肩をがくがくゆすられて、起きてくださーいと大きな声で起こされた。のどがひりひりすることから、挿管されたことはすぐにわかったが、結構声って出るんだなぁと…。手術台からベッドに移されており(これは自力じゃないんだ)痛くないですか~、痺れはないですか~といった会話を通じて異常がないことを確認されると同時に、なんか周りでばたばた片付けられている。
 麻酔から覚めたとはいえ、まだ完全覚醒ではない。
 手術室を出たところで母と妹の顔を確認したような気はするが、その後はまた眠りについたらしい。ベッドは病室に戻り、点滴とか足マッサージ器(血栓防止)とか酸素吸入器とか付けられ、ようやく家族と話をした(らしい→記憶があいまい)。妹に銀行管理と追加の着替えを依頼し、再度眠りにつく。

 15時ごろ妹と母は戻ってきた。着替えの予備を受け取り、妹と母は新潟へ帰っていった。

 痛み止めなどが点滴されており、手術した足の痛みは全くない。右足には固定材が添えられ、包帯がグルグル巻かれている。麻酔が抜けきっていないというのもあり、夜までうとうとうとうとと寝る。この日は朝から晩まで絶食なのでホント、寝るしかないのね。覚醒時にノートにメモを取ってみたりするが、書いているうちに眠くなる。
 血栓防止のため、足を圧縮する機械の音がプシュープシューと音を立てるのを聞きながら何度も覚醒と睡眠を繰り返す。
 尿道に管を突っ込まれていると尿意というもが発生しないことを知る。排出している感覚もないが確実に袋に尿が溜まっていっているという不思議。ちなみに大きい方は看護師を呼んで簡易便器をベッドに入れて横になったまま自力でするというものらしかったが、幸い便意は催さなかったので使用することはなかった。

 そしてただひたすらにひたすらに眠るのみ。

 なんかこうもっと劇的な展開とかあるのかと思っていたけれど、患者としてはただおとなしく手術されるだけということが分かった。他者へ全て委ねるだけ。赤ん坊と違って自我があるだけにもどかしかったりするもんだなって思う。

初めてづくしの入院生活(前編)

2020-03-22 20:50:00 | 雑事つれづれ

▲執刀医のサイン

 奈良から帰宅した1月26日夜。ひたすらネット検索をした。
 奈良で手術が必要かもしれない状況と知ったからには、それなりの病院に行かねばならない。
 扁桃腺炎でよく行くA病院は整形外科はあるが手術はせず、必要なら手術のみ別の病院に頼むらしいのでパス。
 アレルギーでお世話になっている一番近いB病院にも整形外科はあり、手術もしているらしいので、こちらを第1希望とする。ただ、この病院某分野で大変人気が高く、わざわざ遠くからこの病院に来る人も言うというから(すごい競争率らしい)、保険もかけねば…。
 ということで、バスでの行き来になるがこの界隈の中核C病院も調べる。すると、整形外科に長じていることがわかる。あれ、ここイイんじゃね!? ネックは若干遠いってことか(バスで10分程度)

 このご時世、飛び込みで行っても診てもらえないことが多いので、予約方法も確認。
 翌朝9時に電話をかける。
 まずはB病院。ところが門前払い。当日の予約は受けておりません。直接病院に来られても見られません…Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
 続いてC病院。こちらは紹介状がないとダメっぽい。だが、一応奈良の病院でもらった紹介状(宛名は無記名)はあるし、データもあるからそこを強く推す。いったんは断られるも地域連携室の方に、掛け直すように言われる。言われるままに掛けてみたら、先生に聞いてみますと…。30分後に掛け直すよう言われる。
 待ち時間に第4の病院候補を探す。隣駅の大きな病院かなぁ…。なんて検索しているうちに30分経ち、ドキドキしながら再電話。
 「あ、大丈夫です。今から来られます?」との返事\(^o^)/ 行き先が決まった。
 とりあえず奈良の診察データを持って、病院へ行くバスに乗る。
 病院に入って、手続して、整形外科で待つ。待つ。待つ。待つ…。時は刻々と過ぎていき、気が付けば昼を回っていた。そして1時過ぎ、中待合に入るように指示され、そこでまた30分待つ。
 ようやく入った診察室で、ようやく先生と初対面。奈良のレントゲンとCTデータ(受付で提出済み)を見つつ、靱帯の間隔が広がっていて、骨折している可能性があるが、このデータ(奈良のデータ)では、はっきり映ってないから、今からレントゲンとCTを取り直してきてくれる? って放射線科送り。2階に行って、再撮し、整形外科に戻る。そこでさらに30分以上ステイ。お昼食べていないからオナカスイタネ。
 2時過ぎ呼び出されて、先ほど撮ったレントゲンを見ながら状況説明。通常2ミリのところが4ミリの間隔になっている。4ミリ開いているということは、骨折していると思われるので、手術します。今日から入院してくださいって、一気に衝撃的展開。

 え!? 今日から入院ですか!?Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 そっからは怒涛の展開。
 会社に電話して、入院のことを告げる。事務方が来て、入院の手続きを進める。入院に必要なものを調べる。入院する部屋に連れていかれる(ベッドが満杯だからと個室へ通される)。前日奈良から出したクロネコさん荷物の受け取り時間を調整する…。そういった病院での手続きが終わって、家にたどり着いたのが16時。早々に、奈良の巨大バッグを受け取り、その中から、入院に持っていけるものをピックアップ。着替えとか下着とかなんだかんだと詰め込み、ドラッグストアで必要なものを購入し、予定より1時間以上遅れて病院に戻る。
 冷めきった夕食(夕食時間から大幅に遅れた)を食べて荷物を整理。奈良の土産としていたねりきりの和菓子をナースに預ける( ノД`)シクシク…
 トイレに行って就寝。え!? 21時が就寝なの!? で、起床は6時ですか…。そうですか。

 完全介護と聞いていたけれど、その意味がよく分からず、トイレも杖をついて行っていたわい、翌日看護師に怒られる。完全介護ってトイレもひとりで行けないって教えてくれないとわからないよ…。

 ということで、翌日よりトイレに行きたくなるとナースコールを押す。ナースが来て、車いすで自分をトイレに連れていくということになる。なお、翌朝東京は雪だったが内窓からは雪の降っているさまはあまり分からなかった。テレビを見ていた方がわかりやすい。

 午後になり、大部屋が空いたからって、お引越し。なお自分はベッドに乗せられたままの移動となり、何もかもが看護師さんがしてくれた。

 手術は入院の4日後。もともとふっとい足がケガの影響でパンパンパンの腫れており、この腫れを引かすためにひたすらアイスノンで冷やす日々(腫れたままではプレートとか入れても収まらないと言われる)。何もすることがない。アイスノンがぬるくなるとナースコールで換えを要求し、トイレに行きたいとナースコールで知らせ。何もすることなくベッドでうだうだする。
 大部屋は入り口に近く、窓は遠く、視界はカーテンで区切られた天井のみ。

 3日目、新潟から母と妹が翌日の手術に備えて上京。手術準備も進む。
 前々日から前日にかけて、手術の様式やら麻酔の方法やら、看護の方針やら、術後のリハビリの計画やら、栄養士の指導やら次から次へと人がやってきては説明し、サインをひたすら書く。主治医が来て、後で執刀医が来るからねって言われ、ようやく執刀医と顔を合わせる。執刀医、足の腫れ状況を見て、これなら手術できるからといい、手術する足に「手」とマジックで書いて去る。その後看護師さんに「足なのに手って書くなんて変な先生だよねー」と笑われる(病院界隈では手術部位にマークをするのは当たり前らしい)

 夜、麻酔関係医や看護師が3名やってきて、麻酔ルートを取る。当初は背骨も出ているから部分麻酔で行こうという話だったが、麻酔医が全身麻酔で行こうという話になった。その方が楽だし嫌な思いをしなくて済むしって言っていた。どっちにしてもこちらは入院も手術も初めての体験なので、ただただお任せしますとしか…。

▲腕にルート確保して針が刺さったまおやすみなさい

初めての若草山焼き

2020-03-21 03:14:00 | 花火

▲花火と山焼きは同時には行われず、先に花火が上がって、その後に山焼きが行われる。したがって、今回ここにアップされている写真すべてが花火写真と山焼き写真を同じ画角で撮影し、合成したものとなる。※7号玉は片貝煙火


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 1月以来間が空いてしまった。その顛末はまた別の機会に書くとして、とりあえずようやく若草山焼きの現像ができたので、アップしていく。

 奈良の若草山焼きは古くから行われている行事である。そこに花火が上がり始めたのはいつからかは調べていないが、出回っている画像の多くは花火と山焼きが一緒に写っている。近年は全国から仕入れられた質の高い花火が上がるということで、花火マニアも注目する冬の花火となっている。
 自分は、今年が初観覧となる。ここ数年、気にはなっていたが、単純に手配を忘れていたりでなかなかお目にすることが叶わなかった。今回は、かなり早い段階で宿の手配をし、12月の内にぷらっとこだまやら、夜行バスやらを手配していた。

 諸事情で場所取り競争には参戦できず、夕方になってからのっそりのっそりと奈良公園へ向かった。仲間が取ってくれていた場所におじゃまさせていただき、どの方向に花火が上がるか教えていただきと、至れり尽くせりの状況。
 真っ暗になり、深々と冷えてきて、ようやく花火打ち上げである。


▲いきなり野村さん7号イルミネーションとかぶち込んでくるし


▲七色牡丹 4号(マルゴー)


▲順番的には小山さん


▲翠風 5号(マルゴー)


▲小山さんの7号であってる?


▲この7号も?


▲ワイド打ちもあるよ、なお、比較的遠くに陣取っているので、それほどでもないw


▲奈良名物鹿花火。このころはまだコロナ云々が広まっていなかったため外国人観光客が潤沢にしかせんべい与えていた


▲シカが終わったらすぐ千輪来るからって教えてもらえたが、トラ間に合わず…。


▲青芯虹色グラデーション 5号響屋大曲煙火


▲華キキョウ芯キラキラ菊 10号北日本花火興行


▲玉名が話題になっていた「大仏さんの後光」。小山煙火さんの美しい10号玉でした


▲スターマインでフィナーレへ


▲花火終了


 花火が終了してしばらくすると、山焼きが始める。火を放つラインというのが決まっており、そこから上に向かってちろちろと火が登っていく感じ。
 それを機械的に数秒おきにシャッターを切る。いいカメラには〇秒ごとに自動でシャッターを切る機能があるらしいが、自分のカメラにはそんな機能は付いていないので、適当な感覚で手動でシャッターを切っていくw
 一般の観光客の方は、ほどほどに山が燃えたのを見ると引き上げるのだが、こちらは、かなりの範囲が燃えないと撮影が終わらない。
 周りは仲間ばかりなので、安心して撮影していられるが、一人だったらかなりしんどいなw

 30分以上か、もっと後までだったか覚えていないが、結構最後まで粘って撮った。

 なお、上記のような画像をつくるには、コマ撮りした山焼きの写真を何枚か重ねる必要がある。今回の山焼き写真はそうやって42枚重ねているものだったりする。人によっては3ケタ単位を重ねるらしいよ。ひゃーΣ(゚Д゚)



 ということで、花火観覧日より大分遅れてしまったが、花火の画像のみを上げておく。

 まさかこの後、花火の中止がここまで連続するとは思わなかったなぁ…。



※0329加筆修正