旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

松尾大社・京都最古の神社

2014-08-21 14:40:37 | 京都
2014年8月20日、お参りしました。
由緒書より「当社は京都最古の神社で、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って、生活守護神としたのが起源といわれています。五世紀の頃朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波の両国を開拓し、河川を治めて、農産林業を興しました。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、文武天皇の大宝元年(701)には山麓の現在地に社殿を造営されました。都を奈良から長岡京、平安京に遷されたのも秦氏の富と力によるものとされています。従って平安時代当社に対する皇室のご崇敬は極めて厚く、行幸数十度に及び、正一位の神階を受けられ、名神大社、二十
二社に列せられ、賀茂両社と並んで皇城鎮護の社とされました。室町末期までは、全国数十ケ所の荘園、江戸時代にも朱印地1,200石、嵐山一帯の山林を所有しました。」
御祭神は、大山咋神と市杵島姫命です。
『大山咋神は、古事記に「大山咋神またの名は山末大主神、此神は近淡海国の日枝山に座し、また葛野の松尾に座す鳴鏑を用ふる神なり」とあり、山の上部(末)に鎮座されて、山及び山麓一帯を支配される(大主)神であり、近江国の比叡山と松尾山を支配される神であったと伝えられています。
市杵島姫命は、古事記に「天照大神が須佐之男命と天安河を隔てて誓約された時、狭霧の中に生まれ給うた。」と伝えられる神で、福岡県の宗像大社に祀られる三女神の一神として、古くから海上守護の霊徳を仰がれた神です。』
京都市西京区嵐山宮町3
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一の鳥居

石碑



二の鳥居
赤鳥居の上部に、榊の小枝を束ねたものが数多く垂れ下がっています。これを「脇勧請」と称します。この形は、鳥居の原始形式を示すもので、榊の束は十二(閏年は十三)あり、月々の農作物を占った太古の風俗を、そのまま伝えていると言われています。

楼門
「左右に随神を配置したこの楼門は江戸時代初期の作と言われております。この楼門の随神の周囲に張り巡らせた金網には、たくさんの杓子がさしてありますが、これはよろずの願い事を記して掲げておけば救われると言う信仰に依るもので、いわば祈願杓子とも言われております。」





客殿

手水舎

拝殿

本殿
「大宝元年(701)秦忌寸都理が勅命を奉じて創建以来、皇室や幕府の手で改築され、現在のものは室町初期の応永4年(1397)の建造、天文11年(1542)大修理を施したものです。建坪35坪余、桁行3間、梁間4間の特殊な両流造りで、松尾造りと称せられています。箱棟の棟端が唐破風形になっているのは他に類例がなく、柱や長押などの直線と屋根の曲線との調和、木部・桧皮の色と柱間の壁の白色とが交錯して醸し出す色彩の美しさ、向拝の斗組・蟇股・手狭などの優れた彫刻意匠は、中世の特色を遺憾なく発揮しており、重要文化財に指定されています。また、本殿につづく釣殿・中門。回廊は、江戸初期の建築と伝われています。」











授与所

撫で亀さん(神使の「亀」)
古来「亀」と「鯉」は松尾大神様のお使いと伝えられています。中でも「亀」は健康長寿のシンボルとして親しまれてきました。

幸運の双鯉

樽占い

酒造神
『酒造については秦一族の特技とされ、桂川に堤防を築き、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できます。 室町時代末期以降、当松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。』

相生の松

カギカズラ野生地(京都市指定天然記念物)

椋の霊樹

一挙社、衣手社

金刀比羅社

祖霊社

伊勢神宮遙拝所

亀の井
滝の近くにある霊泉で、酒造家はこの水を酒の元水としい造り水に混和して用い、また延命長寿、よみがえりの水としても有名です。

末社

霊亀の滝
御手洗川の渓流は、四時涸れることのない滝がかかっています。



天狗の顔らしい・・・(鳥居の上の真ん中あたり)

神像館・庭園、拝観料500円
神像館には、御神像21体が常時拝観出来ます。特に重要文化財に指定されている老年・壮年男神像、女神像は平安時代初期の作で、等身大一木造りの座像で、我が国神像彫刻中最古最優秀品として有名です。」写真撮影不可のため画像はありません。
庭園は、昭和を代表する作庭家であった重森三鈴の設計により作庭された。庭園内の石は全て徳島、香川、愛媛県の緑泥片岩を使用した。
曲水の庭
「奈良・平安期に造られた曲水式庭園を範とした構成です。洲浜を伴った曲水の流れ、背後の築山の斜面に連続した石組、それをつなぐサツキの大刈り込みを配した構成となっています。」









即興の庭
「曲水の庭背後の宝物館と葵殿の間にある庭園で、当初の設計計画には全くなかった空間で、即興的に造り上げた庭園です。緑泥片岩、白川砂、錆砂利構成の枯山水形式の庭園です。」

上古の庭
松尾大社背後の山中にある磐座に因んで、造られました。据えられた石は石組ではなく、神々の意思によって据えられたものであると三鈴自身の説明があるとおり、磐座とは庭園ではなく、神々を巨石によって象徴したものです。ミヤコザサが植えられたのも、人の入れない高山の趣を表しています。」



蓬莱の庭
古典の手法(石組)と現在の手法(池の護岸)を巧みに取り入れ、蓬莱神仙の世界を池中の神仙島で表し、龍門瀑形式の生得の滝構成など、開放的でありながら精神性の高い池泉庭園となっています。」















車のお祓い所

西の鳥居

松尾大社の神饌田

石碑
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大徳寺・龍源院

2014-08-11 09:32:37 | 京都
2014年8月7日、お参りしました。
説明はパンフレットより引用。
大徳寺の塔頭で、南派の法源地本院として、由緒の殊に深く、大徳寺中で最も古い寺です。文亀2年(1502)大徳寺のご開祖、大灯国師より第8代の法孫である東渓宗牧禅師を開祖として、能登の領主であった畠山義元公、九州の都総督であった大友義長公らが創建された。
拝観料400円です。
京都市北区柴野大徳寺町82
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表門(重要文化財)
室町時代の建立です。四脚門切妻造、檜皮ぶきです。

境内

方丈(重要文化財)
室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全にとどめている唯一のもので、我が国の建築史上、最も枢要な存在です。方丈の棟瓦は、附玄関、表門の棟瓦と共に、京都八坂神社楼門の棟瓦と同じ室町時代最古の様式のものです。一重入母屋造、檜皮ぶきです。

滹泥底(こだてい)
庫裏の書院南軒先にある(阿吽の石庭)で、宗祖の臨済禅師が住まわれた。中国河北の鎮州域の南に流れる滹泥河の銘があります。その右と左の基礎石は昔、聚楽第のものと伝えられています。
少し黒いものが阿の基礎石





担雪井

庭園
方丈の前庭を「一枝坦」と言い、余分なものを取り除いた禅宗独特の枯山水庭園で神仙思想に説かれる蓬莱山の理想の世界を表現しています。蓬莱山とは不老不死の薬を持つ仙人が住む吉祥の島の事で、一面の白川砂を大海にみたてています。言葉では表すことができない悟りの世界を視覚的に表現したものが禅の庭園です。
手前より亀島、枝坦、蓬莱山、鶴島







開祖堂
開祖東渓宗牧禅師の塔所で、南北朝、鎌倉、室町初期時代の様式の粋を取入れた、昭和の唐様木造建築の代表作です。

開祖堂前庭

竜吟庭
方丈の北庭、室町時代特有の三尊石組から成る須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝えられ、青々とした杉苔は、洋々と果てしない大海原を現わし、石垣が陸地を表しています。

中央に高く突出する奇岩が須弥山で、魏々として聳えたち、人間は勿論、鳥も飛び交うことの出来ない、唯一人として窺い知ることの出来ない、真実の自己本来の姿、誰もが本来具えもっている超絶対的な人格、悟りの極致を形容表現しています。須弥山石の前にある円い板石が遙拝石と言い、この理想、目的に一歩でも前進し、近づこうという信心の現れです。

東滴壺(とうてきこ)
庫裏と書院の間にあります。日本最小の石庭といわれ、極めて小さな石庭でありながら格調高く殊に有名です。庭の右側に平たい一枚の板石が置かれ円い波紋は一滴の水が滴り落ちる姿を表しています。一滴の水が小川となり大河となり、ついには大海となる様に、一滴の大切さ、一滴がそのまま大海につながっている事を表現しています。


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大徳寺・瑞峯院

2014-08-11 09:24:17 | 京都
2014年8月7日、お参りしました。
当院は、室町時代の九州豊前豊後の領主でキリシタン大名として有名な大友宗麟公が、大徳寺開山大燈国師から徹岫宗九禅師に帰依し、禅師を開祖として創建された寺です。
拝観料400円です。
京都市北区柴野大徳寺町81
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表門

境内





室内







奥に井戸

中庭



独座庭
寺号、瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園です。中国の禅僧百丈禅師が、独座大雄峰と呼唱された禅語から銘じられ、独座庭と言います。





方丈(重要文化財)
天文4年(1535)に建造されたもので、室町時代の禅宗方丈建築の遺構をとどめ、建築史上、貴重な存在です。

露地

閑眠庭(方丈裏)
「閑眠高臥して青山に対す」の禅語から銘じられ、閑眠庭と呼んでいます。中庭にあるキリシタン灯籠を中心に、七個の石組からなり、縦に四個、横に三個の石の流れが十字架に組まれ、万人の霊を弔っています。


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大徳寺・高桐院

2014-08-11 09:09:53 | 京都
2014年8月7日、お参りしました。
高桐院(こうとういん)は大徳寺の塔頭の一つです。細川幽斎公の長子忠興三斎公により慶長6年(1601)に建立されました。三斎公は織田・豊臣・徳川の三時代に、一貫した精神で身を処した戦国時代切っての智将であるが、公はまた利休七哲の一人として茶道との深いえにしによって有名です。茶道の奥義を究め、歌道をたしなみ、文武両道に秀でた哲理の人でした。
拝観料400円です。
京都市北区柴野大徳寺町73-1
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参道に趣があります。

表門

竹林

唐門

振り返って

右に曲がって

境内


室内











庭園

















建造物






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大徳寺(臨済宗大徳寺派の大本山)

2014-08-11 09:00:18 | 京都
2014年8月7日、お参りしました。
臨済宗大徳寺派の大本山で、山号は龍寶山です。
鎌倉時代末期の正和4年(131)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創しました。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興しました。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めました。 勅使門から山門、仏殿、法堂、方丈と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備しています。
京都市北区紫野大徳寺町53
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南門

総門

境内から

勅使門(重要文化財)
総門を入った境内のほぼ中央に建っています。桃山時代の建築で、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門です。慶長造営の皇居の南門を移建したものと伝えられています。

三門(重要文化財)
桃山時代建築の建造物です。応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、のち千利休居士により二階部分が設けられ金毛閣と名づけられた。 山門とは龍宝山の門、三門とは三解脱門(空門・無相門・無作門)のことで、一端、山門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生せんことを意味するとみこと。柵がありいいアングルがないですね。

西側から

北側から

仏殿(重要文化財)
第一世大現国師により創建せらるるも応仁の乱にて消失、一休和尚等によって再建されるも、寛文5年(1665)那波常有によって改めて建造した。





法堂(重要文化財)
仏殿の北にあり、寛永13年(1636)小田原城主稲葉正勝の遺命によって、その子正則が寄進したものです。

平康頼之塔

黄梅院、拝観謝絶

徳禅寺、拝観謝絶

興臨院、拝観謝絶





正受院、拝観謝絶。



三玄院、拝観謝絶


大仙院







庭園の写真も不可のため、拝観しませんでした。

芳春院、拝観謝絶

如意庵、拝観謝絶



龍泉庵、拝観謝絶

一期一会、この言葉が遠方からお参りに来た者の心に響きます。合掌。

聚光院、拝観謝絶



鐘楼



孤篷庵、拝観謝絶



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建勲神社(織田信長をお祀りする神社)

2014-08-10 11:41:11 | 京都
2014年8月7日、建勲(たけいさお)神社にお参りしました。
説明書より『織田信長をお祀りする神社で、通称「けんくん」神社と呼ばれる。天下を統一した信長の偉勲を称え、明治2年(1869)に命じ天皇により創建された。同8年(1875)、別格官弊社に列せられ、社地を船岡東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。船岡山は、平安京正中線の北延長線上に位置し、平安京の玄武(北の神)として造営の基準点にされたという場所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町天皇の勅命を受け、主君である信長の廟所と定めている。信長着用の紺糸威胴丸、桶狭間の合戦で信長が戦利品として持ち帰った義元左文字と称される太刀、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。10月19日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄11年(1568)に初めて入洛した日を記念したものである。」
京都市北区紫野北舟岡町49
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鳥居(登録有形文化財)
『京都府下最大の「木造明神型素木造」で、使用材は耐久性に優れる台湾阿里山産の紅檜である。今では大口径の紅檜は全く入手困難であるため素木造の大鳥居は極めて貴重な国民的財産であり、木の素材の美しさと自然な趣を醸す貴重な文化財である。』

参道

案内図

手水舎(登録有形文化財)

参道・狛犬

拝殿(登録有形文化財)

神門(登録有形文化財)

本殿(登録有形文化財)

貴賓館(登録有形文化財)

大平和敬神
「建勲神社御祭神 織田信長公は元亀天正の乱世に一早く日本国家の安泰と国民の幸福とに意を用い広く海外進出の礎を固められる明治天皇より特に建勲の神号を賜り別格官弊社に列せられるここ船岡山に邦家鎮護世界平和の大神として奉斎されている。」



義照稲荷社

船岡妙見社


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引接寺(千本ゑんま堂)

2014-08-09 13:50:09 | 京都
2014年8月7日、お参りしました。
正式名は光明山歓喜院引接寺(いんじょうじ)で、高野山真言宗の寺院です。寛仁年間(1017 - 1021年)、定覚により開山されたと伝えられています。文永10年(1273)、明善律師によって中興されました。
京都市上京区千本通鞍馬口下ル閻魔前町34
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引接寺塔婆(十重石塔)
至徳3年(1386)の銘を持つ十重石塔(重要文化財)があり、紫式部の供養塔とされています。




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釘抜地蔵(石像寺)

2014-08-09 11:55:49 | 京都
2014年8月7日、お参りしました。
説明書より「正しくは光明遍照院石像寺という浄土宗の寺院で、「釘抜地蔵」「くぎぬきさん」として親しまれている。弘法大師(空海)の開基と伝えられ、もと真言宗であったが、重源上人が中興してから浄土宗となった。地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩立造は弘法大師の作と伝えられ、もともとは諸々の苦しみを抜き取るという信仰から苦抜菩薩と呼ばれていたが、それがなまって釘抜地蔵となった。一説には、手の病気に苦しむ商人の夢に地蔵菩薩が現れ、手に刺さっていた二本の恨みの釘を抜いて救ったことから釘抜地蔵と呼ばれるようになったとも伝えらる。地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(重要文化財)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は高さ約1.2m、元仁元年(1224)、伊勢権守、佐伯朝臣為家によって彫られ、翌年、開眼供養した銘がある。観音堂には行基の作と伝えられる観世音菩薩を祀っている。境内には弘法大師三井の一つという加持水がある。また、この地は鎌倉時代初期の歌人、藤原定家、家隆が住んだ所ともいわれており、定家の墓ともいえるものがある。」
京都市上京区千本通上立売上る花車町503
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大報恩寺(千本釈迦堂)

2014-08-09 11:17:51 | 京都
2014年8月7日、お参りしました。
真言宗智山派の寺院で、山号は瑞応山です。通称千本釈迦堂と言われています。鎌倉時代初期の承久3年(1221)、求法上人義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立しました。
京都市上京区今出川七本松上ル
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山門
千本釈迦堂の表札があります。

稲荷神社
山門入って左にあります。

北野経王堂願成就寺
境内の西側にあります。
説明書より「このお堂は、足利三代将軍義満の時、明徳2年(1391)11ケ国の大領主陸奥大守山名氏清が将軍家に叛いて挙兵した「明徳の乱」に於いて逆に義満により"内野の原"にて討滅されてしまった。その翌年に将軍義満は叛いたとは言え、氏清とその一族のかつての功労武勲を重んじ、あるいは戦に倒れた敵、味方の兵士達の追福の為、壱千百人の僧侶を集めて供養し、引続き応永8年(1401)に北野社の社領に東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し、「北野経王堂願成就寺」と名付け毎年10月、10日間に亘って万部経会及び経典書写などの仏事を行い供養していた。この行事は「北野経会」と呼ばれて京洛最大の行事となり、代々の幕府により引継がれていた。尚、応永期には大部の経典、「北野社一切経5千5百余巻」(重要文化財)が書写奉納された。観世謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謡ったものである。この大堂も江戸期に入り荒廃甚しく遂に寛文11年(1671)に解体縮小されて小堂となり仏像及び一切経5千余は本寺である当山に移され保存されています。」

不動明王堂

本堂(国宝)
1227年(安貞1)創建時のままで、京洛最古の古建築です。入母屋造、檜皮葺。桁行(正面)五間、梁行(側面)六間で、正面に一間の向拝を設けています。



布袋尊

おかめ塚
大工棟梁高次が千本釈迦堂の建立にあたり四天柱の1本を誤って短く切ってしまった。心優の毎日に対して妻の阿亀がいっそうのこと斗組にすれば助言で本堂は完成したのです。阿亀は女が助言したことが世間にもれきこえば・・と完成を見ずに「いっそこの身を夫の名声に捧げましょうと」決意したのです。高次は上棟の日に亡き妻の面を御幣につけて飾り冥福と大堂の完成を祈ったといわれています。そして供養塔も建て菩提を弔っています。



観世音菩薩

阿亀桜

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報土寺(浄土宗知恩院派)

2014-08-09 09:43:55 | 京都
2014年8月7日、お参りしました。
現地説明書より「浄土宗知恩院派に属する寺である。平安時代の貞観元年(859)、行教上人が真言宗の寺として創建したものと伝えられている。 その後、応仁の乱などにより荒廃したが、永禄2年(1559)、選誉照阿上人により、浄土宗の寺院として、相国寺惣門の東南に再興された。 以後、浄土宗の念仏道場として栄え、江戸時代の寛文3年(1663)頃に、現在地に移転した。 表門と本堂が重要文化財に指定されており、本堂は正面七間、側面六間、入母屋造、本瓦葺の浄土宗本堂の典型的な建物で、寛永6年(1629)に建立され、寺地移転に際し移築されたものである。 また、当寺が所蔵する木造阿弥陀如来立像(重要文化財)は、正嘉2年(1258)7月12日の造像銘があり、もとは、近江(滋賀県)の八幡宮に祀られていたものと伝えられている。」
京都市上京区仁和寺街道六軒町西入四番町120
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表門(重要文化財)

本堂(重要文化財)

八幡宮・光吉稲荷社

境内
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