高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

なぜに自然体験活動を仕事にしたのか その2

2023-01-04 16:05:52 | コラム風味

児童期

思い起こすと、親、特に父親が自然の中に連れ出してくれていた。小学5,6年生、中1は大阪豊中市に住んでいました。ハイキングやら海やらにけっこう連れて行ってもらっていました。 冊子インタビューで思い出したのは京都の鞍馬山でした。けっこうきつい登りでうっそうとした森の登山道を歩きました。 なんだか恐ろしくて、天狗が出てくるんじゃないかと怖かった記憶があります。(鞍馬=天狗の時代、 鞍馬天狗は正義の味方でしたがね・・)が、大きな木に登りました。

小学6年だっただろうか、林間合宿(という学校行事が当時ありました)。たぶん能勢だったのだと思うのですが、生まれて始めてキャンプを経験しました。 それがおもしろかったんでしょうね、(女の子と手をつないでペアになって歩いた肝試しの手の感覚しか覚えていないんですがね・・・)

 キャンプの面白さに目覚めて、中学1年になり、(これは)男友達と夏休みにキャンプに行きたいと思ったのですが、親たちはもちろん子どもだけでは許してくれませんでした。 しかし、どこでどうつながりがあったのか、たんと記憶がないし、親はもう死んじゃっているので確かめようがないのですが、西村さん(この名前は覚えている)という大学生が友達三人をやはり能勢だか箕面のキャンプ場に一泊で連れて行ってくれたのです。 この時は自分たちで食事を作り、始めて川で泳ぎました。 堰堤の手前の大きな堰堤池で足が立たない深さ、足に水草が触れて引きずり込まれるのかと恐怖で、必死に西村さんの後を追いました。 原体験というのでしょうか、その思い出は五感で鮮明に記憶しています。

そんな強烈な自然体験を提供してくれたあの西村さんは誰だったんだろうか・・? やはりアタシのそばには、自然にいざなってくれたイイ大人がいたのでした。

大阪の中学1年(豊中第二中学校)では、奥村先生という方が、私の自然体験をいざなってくださいました。これもまた課外で、近郊の低山にハイキングをしてくださいました。 それに味をしめてついには、友達同士で近くのハイキング道を子どもだけで辿りました。 その初めての冒険?は四人でゆくはずでしたが、友達のひとりが現れない・・公衆電話でその子の家に電話をかけたのですが、ツーツーとずっとお話中でつながらなかったので仕方なく三人ででかけました。道に迷いかけて半べそもんでしたが(たぶん迷っていない、ただ不安だったと思う)6,7kmの初心者コースを踏破しました。 翌日、学校で、来なかった子の家は火事で全焼したことを知ったという強烈なおまけつきの思い出です。

中2で、船橋に戻り、小学校時代の友人がたくさんいる海神中学校に再転入しました。この頃からひとりで高尾山方面にでかけるようになりました。以来、長男が生まれるまで元旦は山で過ごすことが通例になりました。 一度、陣馬山付近で帰路を間違えて本当に迷ったことがありました。 地図読みして歩いていませんから、これはどこにいるかもわからずに必死だったなあ。 ともかく下へ降りれば道路があるだろうと、藪こぎ状態でくだったな。なんとか相模湖に出て国鉄(JR)駅にたどり着き帰れました。

 

 

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なぜにして自然活動を仕事にしたのか? その1

2023-01-04 15:36:26 | コラム風味
自然体験活動を仕事に30年以上してきて、レジェンドなどとたまに言われたりしていますが・・、そんな爺さん等の半生を書き起こして冊子にしてあげようというスペシャルな企画がありまして、年末に数回、インタビューを受けました。なかなかよい機会であり、あれ、あんなことが今のアタシの人生に影響があったんだと自分でも気がつけました。

そして、若い頃、子どもの頃の写真を送って欲しいと編集者に頼まれていたのですが、高校時代や山岳ガイドをしていた頃の写真なんぞ残っているかなあ・・と、探すのを後回しにしていましたが、今日さっき、古い写真アルバムをひっぱり出してきたら、意外とありました。
 
どうして、自然活動を仕事にしようと思い実現してきたかと思うと、幼少期から中学・高校と私を自然に連れ出してくれた身近なおとな達がそれぞれの時期にいたことを思い起こしました。
 
まずは、幼少期
生まれは千葉県船橋市西船にある浅間神社の境内に隣接した生家でした。鎮守の森があり遊び場所にことかきませんでした。小学校時代は学校から帰ってくれば暗くなるまで、その森の中を駈けずりまわっていました。神社の石段の横にある松ノ木に登り枝が折れてみごとに転落し、2,3日寝込んだことがあったなあ。飼い犬が死んだときは、親父と森の中に穴を掘って埋めた。 幼児期は海神保育園 ここは徒歩15分くらいでその地にしては商店街の中にありましたが、保育士さんが課外に近所の沼地や林に小人数で連れて行ってくれました。 ここでミズカマキリを捕まえたことは今でも感動した思い出として記憶に張り付いています。 先生もきっと、「すごいねー、よくやったねー」と存分に褒めてくれて、私の自己肯定感をおおいに育んでくださったんだな・・・。
 
幼児、小学低学年の頃は、高台から東京湾や富士山も見え、田んぼや畑ばかりだった。が、首都の衛星都市だったので、どんどんと開発されて住宅地となり駅周辺にはビルが建っていきました。 そんな環境の変化をまざまざと体験した世代です。
 
 
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