高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

自然体験をなぜにして仕事にしたか その4

2023-01-07 16:01:27 | コラム風味

年始、人生のふりかえり物語の続きですぅ。 (またも長いです) 大学卒業から北海道自然体験学校NEOS設立まで。

 さて、大学を卒業して農業機械の輸入商社に入り、北欧やヨーロッパに入社2年目から年に1,2度出張をさせてもらえました。農機だけではこれからはダメだろうということで、私は外国為替。輸入デリバリーの事務仕事と並行して、農機以外の日用雑貨や建築資材の営業もしました。この時の北欧での体験も今のアタシに大きな影響を与えています。(これを書くとさらに長くなってしまいますので割愛しますが・・・) フィランドでもスエーデンでも若い私でも一応バイヤー(買い手)ですから、接待をしてくれるのですが、(まっお金を掛けてなんかいられないということもあるんでしょうが・・)だいたいにおいて「うちの街をみてください」ということで都市郊外の住宅地や自宅に連れてゆかれるのです。それがまた、森の中にあって、多くは真冬に行ったのですが、スキー場や室内プールがあり、家には暖炉に薪ストーブととても豊かでゆったりとした自然の中での生活があるのです。 将来はそんな暮らしがしたいなあと思わされましたな。

が、20代の後半に社長と衝突してしまい、輸入商社を会社を止めました。(この社長からは仕事の厳しさをたんと学ばせていただきました) 時は、バブル経済と言われた右肩上がりの高景気でした。すぐに引く手があって、退職後3日目には転職ができましたが、そこは不動産開発会社・いわゆるデベロッパーでありました。 そこで、複合レジャー施設開発という仕事場をもらい、札幌新川にビッグシップという船の形をしたいわゆる健康ランドという建物の開業準備室という勤務となりました。担当役員とスタッフ3名という小世帯部署でしたが、なにから何までやりました。 設計段階から内装・インテリア計画、必要な汁器、部署ごとの制服、人員計画と人件費と見積もり、ランドリーは自前でしたので、その機械の選定(実際のランドリーに実習にもゆきました。)スタッフの募集や面接取り仕切りと徐々に準備室員は増えましたが、・・4人で始まった準備室は1年半後の開業直前にはパートさんも含めて200人を超える規模となりました。 時は昭和天皇が病床でお亡くなりになるかならないかの自粛ムードの頃でオープンが延期に延期を繰り返し(準備が間に合っていなかったので、長生きしてくださいと祈ったなあ・・)したが、正月にオープン。 ここでは、最上階にあったスポーツフロアー(アスレチック機器、エアロビクスなどのスタジオ、競泳もできるサイズのレジャープール有り)のフロアーマネージャーとなりました。チーイントラクター級からフロントスタッフまでヘッドハンティングしたり、プログラム作り、スタッフ研修とてんてこ舞いでした。正月オープン時は物珍しさもあって連日大入り満員。艦(船ですから)に入ったら1週間ほど外にでられない大忙しで、宴会場の着ぐるみ劇に出演したり、ラーメンどんぶり洗い、アイスクリーム売り、ランドリーの洗濯物たたみと、七変化。なんでもやりました。 ヤクザに絡まれてその対応に飛び回り(特にリストラ社長命令で子どもの水泳教室を閉鎖する時に、子どもを通わせていた母親・ヤクザのおカミさん(父親は銃刀法違反で服役中だった・・・)との対応交渉はたいへんだったなあ・・人生でただ一度、土下座をして謝った)と・・・、かなりの人生経験を積まされました、残業手当がほとんどないマネージャークラスにはユンケル皇帝液や牡蠣エキスが配られたり、今なら労基違反ものでしたなあ・・(健康ランドならぬ、社員にとっては不健康ランドと揶揄していたな)。 バブル経済は24時間回るようになると、会社トップから末端社員まで本気で信じていて、スポーツフロアーの営業は平日は深夜0時まで、休日前は深夜2時までとされて(風呂と全艦は年中無休24時間オープン)、昼10時出勤、就業見回りを終えての帰宅は朝3時、4時と夏には空が明るくなる頃に帰宅するという昼夜逆転の生活となりました。 スタッフの忘年会などは、予約したスナックに深夜1時集合なんて。。、むちゃくちゃだったよなあ・・。 しかし、商社マンと違った、世の中全体のあらゆる仕事というものが一度に知れたような凝縮した数年でしたな。

話は自然体験と仕事にもどして・・、実は、ここで始めた水泳教室の子どもたち向けに夏休みキャンプを実施したのが、お金をいただいての初めての有料自然体験キャンプでした。(赤井川村で2泊3日。10数人の参加だったかな・・)

 

1年半ほど現場をしたあとに本社に戻されて、千葉幕張の土地開発コンペ要員となり、東京に単身赴任をさせられました。千葉県が所有する土地を払い下げてもらう、そのために何を建設するかの競争コンペでした。当社は「21世紀に向かう健康複合施設」というコンセプトで開発計画をプレゼンすることになりました。その案を作るという大役でした。計画から現場体験をしたビックシップを下敷きにスポーツ・健康に関わるジム、プール、ショッピングモール、飲食店が入る総合施設を企画提案することになりました。 しかし、ここで大きな問題にぶつかりました。コンペを組む設計会社(日建設計という最大手のひとつ)から、「千葉県は今、老人をあずけっぱなしにしてしまう健康ランドが林立していて、社会問題化しているので、高齢者という言葉は使わないほうがいい」という注文でした。 21世紀(2000年代ですね)の経営にも耐えうる施設開発をせよという命と反するわけです・・・。悩みました、アイディアが出てきません・・・。

しかし、あるとき、突然に気が付いたのです。当時は三十二、三歳になったころでしたが、21世紀に高齢者になるのは、ほかならぬアタシじゃあないか!!と。 今目の前の高齢者問題と、私の時代の高齢者問題はまったく違うものになるだろうと・・、思い至ったのでした。  それからは筆がスラスラと進みました。 コンペ結果は、最終4社に残るまでゆきましたが、残念ながら落ちましたが・・、(で、今はロッテマリンスタジアムになっています・・・)

それからです・・。アタシが高齢者になるまでは 「まだ、30年もあるじゃあないか!!」「アタシが楽しく幸せになる老後社会を創ってゆけばぁ、いいじゃん!!」となったのです。 しかし、札幌へ戻ると、今いうところの「バブル経済の崩壊」が起こりました。 ビックシップも経営が思わしくなくなり、全体人員削減計画を担当させられ、私が築きあげてきたスポーツフロアーのリストラを先行実行もしました・・。水泳やエアロビクス・ジャズダンスのインストラクターや室内遊具を置いた子どもの国コーナのスタッフ達に「君は来週から、ゴルフ場のキャディか、売店担当のどちらかを選んで欲しい」と無茶な要求をして、「マネージャー(私)を信じてついて来たのに・・!!」と泣かれました。上層部が決めたことを現場で実行した仕方ない立場ではありましたが、なんともアタシは阿漕なことをしたんでしょ!!と、恥じ入ります・・・   

そして、ハード造りのこの不動産開発仕事に嫌気がさして、2度目の転職。(半年位、次の任務が決まるまでマンション販売の広報室長なる(何もわからないので)部下の書類に可のハンコを押して、上司部長に決裁をとるというつまんない仕事だったのですが、これからどうすんべっと将来を考える時間がたっぷりとありました)残って宅建資格をとって高齢者マンションの企画販売してくれとの話はありましたが、景気に左右され、状況によってはトップの経営判断に重きがあり、突然に事業変更がある、長いスパンではソフトを組み上げることができないという仕事、不動産開発業に愛想をつかしました・・ 

そのときに、スポーツクラブのインストラクター養成をしている専門学校の経営立て直しに引きがあり、参画をすることにしました。そこの理事長に   アウトドアインストラクターの養成コースも設けて欲しいという条件を出して転職したのでした。 100人入学すると2年目になるときには1/3は退学してしまうという専門学校でした。ここでも教員の大リストラを断行して経営というか、カリキュラム改善をして、3年目には退学者は数名なるという結果を残しました。

そして、未来に私自身が、自然の中で楽しく幸せになる仕組みを創ろうと、事業内起業のカタチで北海道自然体験学校NEOSを立ち上げて、それらを担う人材養成をロングスパン、自分のライフワークとして始めたのでした・・・。

(冒頭写真は、BIG SHIPの舳先からの全景、看板は経営が変わっての屋号に変わっていますが・・)       

 

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なぜに自然体験を仕事にしたのか その3

2023-01-07 12:53:26 | コラム風味
(今回も長い文章です・・・)
高校受験は必死こいて千葉県立千葉高校へ入学。田舎の中学では成績もトップであったが、ここへ来て、世の中にはなんて頭がいい(頭の回転が速い)連中がいるんだと井の中の蛙は驚いたのでした。そして、勉学よりも山登りに関心が高まったのでした。しかし、当時は学園紛争が激化するちょっと前でした。中学の恩師からは「山岳部は活動家がいるらしいから入部なんかするんじゃあないよ」と忠告されていた。入部してみると、本当に活動家がいて、最初の文化祭の山岳部の展示は「三里塚闘争(千葉成田空港拡張のために反対する農民に対して国が土地の強制代執行をするのを阻止しようとした闘争)」であった。現地の闘争拠点に張った拠点テントやら闘争の様子を写した8mm映像を流したりしていて。。???。実際にそのために高校留年した4年目3年生がいました。が、3年生が卒業してからは私の高校生活は山岳部が中心でした。

ここでも、私を自然に誘うオトナがいました。 顧問の桜井先生。千葉校山岳部は、当時高校山岳部はどこも夏合宿は北アルプス縦走、ちょっと力のある高校は南アルプスを目指すのが一般的でしたが、我部は群馬と越後の県境の大学ワンダーホーゲル部が目指すような道なき藪尾根をたどるという冒険的な1週間合宿をしていました。今日のサイトから目の前のひと山越えるのに一日ががりで反対側の鞍部にたどり着くというような藪こぎがあり、水汲みに谷まで降りるというような山行でした。 そんな場所にやんちゃな高校生に付きそう桜井先生は今思うとすごい人だったなあと感心します。 その留年先輩も同行して私に多大な影響を私に与えてくれました。(彼は卒業後、当時先鋭的なクライマー集団の山岳同士会に所属しネパールのジャヌー北壁遠征に参加し亡くなりました・・合掌)
 
大学は一浪して北海道大学へ。高校山岳部の部長副部長の関係だった同期のMTS君も合格。翌年その翌年にも高校山岳部の後輩が入学してきて、一時は同部同窓生が5人にもなったときがありました。私は山スキー部に入部したのですが、そのGW合宿を終え下山した時に、郷里からオフクロが倒れたとの連絡があり急遽帰郷。彼女はくも膜下出血で意識なく植物人間状態となり、その付き添い看護を親父とするためにすぐさま大学休学をしました。 そして、8ヶ月のちの翌年正月に他界をしました。 もう復学もしたくないほどの虚無感に襲われて、人生が終わったくらいに落ち込んだのでした。
 
もう就職するかなあともかんがえたのですが、父親や親戚の叔父貴に説得されてなんとか復学しましたが、山スキー部には戻らずに、札幌山岳会という社会人団体に所属しました。ここでも、自然愛好の登山家の多くのオトナに出会いましたが退廃的虚無感はぬけだせませんでした。そして、先輩から聞いたネパール話に大いに関心がわき、この状況を変えたいとも考え、高校山岳部の同期MTY君(彼も北大生で同じ山岳会に所属)とネパールトレッキングを計画して実行に移しました。
 河口慧海(かわぐちえかい・僧侶、仏教学者、探検家)が明治時代にチベットに探検旅行をしたカリダンダキ川にそった街道(エベレスト街道でもある)をナムチェバザール・ジョムソンを経て、更に奥地のティリッツオ湖)を目指すという計画でした。往復1ヶ月半の旅でした。(おかげで学部移行の単位不足となり留年した・・・
 
この道中に見聞したことはアタシの人生に多大な影響を与えました。 人々の貧しくとも豊かに見える生活、やっとた(中学生くらいの)ふたりのポーターの献身さなどなど・・・、そして何より、大きかったのが「世の中にはこんなにもデカイものがあるのだ!!」という山々の様相でした。 5000mラインでテント2泊したことがありました。遠くチベット高原も見渡せるような高台で、ふと気づきました。「俺はなんと小さいんだ、そんな小さいやつが何を小さいことに悩んでいるのだ!!」と、ネパール旅で癒されすべてが吹っ切れたのでした。
 
このネパールの旅がなければ、それからのアタシ、今のアタシはなかったなあ。
二十歳、1974年のことでありました。
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