2010.2.19(金)晴、曇
引地とは水車の水を引いたところ、あるいは水車で何かを挽いたところではないかという推理のひとつの根拠は、「鉄の生活史」(窪田蔵郎著)の技術革新と鉄の量産という項に下記の記述があったことである。
この時代の製鉄に関する記録としては、「日本書紀」の天智天皇の条に「同天皇九年(670)に水碓(みずうす)を造りて鉄を冶す」との記載がある。この水碓なるものがどのようなものかわからないが、「信貴山縁起」によると農業用の水車の絵が描かれており、少し時代は下がるが、淳和期(824-832)ごろには、諸国に令して農業用の水車を造らせているので、相当普及したことが想像できる。中略
しかし「日本書紀」の記載では、水車を利用したというのであるから、使用されたとすればこれを石臼に連動させて、岩鉄鉱を粉鉱として溶融しやすい形にさせたものか、あるいは吹子を連結して鉄冶をおこなった記録があるから、その原始的な形がこのようなものであったかもしれない。
まさにわたしの想像と一致する記述があり、驚いている次第だ。そして淡路市の引地水車についての回答があった。引地(ひきじり)というのは地名だそうだ。地図にも載っていないので小さな小字なのだろう。淡路市長沢引地となるのだろうが、郵便番号検索も長沢までしか出てこない。長沢にある金山比古神社が鉄に関連のある神社ではないかとの質問には、地元の人に確認したが、製鉄や鉱山の話は聞いたことがない、という回答だった。まあ、当然のことと諦めるが、神社に関して文書があるので郵送してあげようと親切にしていただいた。かくも古代の金属文化というものが今日には伝わらないものなのかと思うが、引地の近所に金山比古神社という構図だけで満足しよう。
後日北淡路歴史民俗資料館の担当者の方から、引地水車の写真と金山比古神社に関する資料が郵送されてきた。電話で問い合わせなどしてきたが、これほど親切にしていただいたのは初めてである。お礼の手紙を送っておこう。
さて、淡路の金山比古神社については次回で御紹介しよう。つづく
【作業日誌 2/19】
椎茸柵作り(穴掘り完成、ドア作製)
今日のじょん:火曜日が雨だったのでシャンプーが今日に延びた。結構大変なので冬場は3週間に一度で良いようだ。最近よく食べるので体重が心配だったが、果たして18Kgとなっていた。20Kgまでは良いかと思うが、体重を下げるというのも難しそうだから、少しコントロールの必要有りだ。
気温は低いが日差しが暖かく、昼寝にはぴったりみたい。