晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

砂鉄 2/21

2010-02-21 | 歴史・民俗

2010.2.21(日)曇、晴

 奥上林のI鼻さんが2冊の本を貸してくれた。ススムさんにも2冊借りているところで大変苦しいのだが、一冊は読了したのでまあいいかという感じである。お借りした本は「逆説の日本史」1,2で小学館から出版され、人気のシリーズである。ともすれば本や教科書を鵜呑みにしてしまいがちな私たちに、ちょっと視点を変えて歴史を総点検しようという主旨だそうだ。私の場合元々斜にしか見ないので必要はないのだけれど、視点を変えた歴史をのぞいてみたいという気はある。読み始めてすぐに疲れてしまった。古代史の古典的な書物ばかり読んでいるので、理屈をこねくり回したようなこの本がとても苦痛である。それでもいつかは面白くなると信じて読み進んでいるのだが、果たして読了の自信は無い。
 この本の中で、現在の歴史学を批判しているひとつが「実証主義」である。つまり、実証を重んじるあまりに、証拠がないものは、存在しなかったあるいは無かったとする態度である。これは一見なるほどと思うが、歴史の事実なんて実証されるのはほんの一部分であって、ほとんどの部分は人びとの了解というか納得で成り立っているのではないか。かつては学会の中での納得であったのが、今や世界中での納得という風になってきているのではないだろうか。納得させようとするのなら、証拠集めはしなくてはならないし、例え証拠があり得ないという状況であっても、状況証拠でもいいから収集しようという態度がなければならないと思う。
 話がマキシマムになってきたが、身近に振り返ってみると、わたしの上林メタルバレイ説も地名や神名ばかりで一向に具体性がないという風に感じていた。いくら蘊蓄をばらまいてみたところで、それは所詮マスターベーションであって、大衆の納得を得ることは出来ない。古代金属文化存在の証拠って一体何だろう。タタラ跡、鉄滓、羽口などの部品、坑道跡などが発見されることが最も信憑性が高い。しかしそれらの発見の可能性は確率的には極わずかだし、それらしい現場に行ってトレンチをするとか、工事現場に遭遇するとかの努力をしなければならない。今の私に出来ることは毎日上林川の河原に降りて、何かそういう物が流れ着いていないか探すことである。Img_3848

この辺に降りていくのだ。


 念道は上林川の中流にあり、堰があって流れが緩やかになっているところである。何かが流れ着いて留まる絶好の位置だ。じょんの散歩ついでに出来ることであって、それだけをやり続けることは不可能だろう。 つづく
Img_3917
これなーんだ?

【作業日誌 2/21】
椎茸柵作り(梁完了、ドア取り付け)

今日のじょん:今夜もけたたましく吠えた。ベランダに飛び出すが、何者かの気配は無し。ベビーチェアの雨除けのため掛けているビニールが風に揺れて、ガサガサと音を立てていた。音がしないように片付けると吠えるのは止んだ。ん~。


 

 

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引地のこと(14-2) 2/20

2010-02-21 | 歴史・民俗

2010.2.20(土)晴

 長澤村の金山比古神社については創建が1456年(室町時代中頃)に長澤村の開発者近藤与左衛門宗重らによってなされたとある。これははっきりした棟札があり、棟梁や願主名が記されている。創建時は蔵王権現社と呼んだ。蔵王権現は吉野の金峰山寺の本尊で開祖は役戸角であり、修験道の本山である。近藤与左衛門は釜口村からヒヤリ峠を越えて長澤の地に至ったとある。与左衛門は吉野の蔵王権現の信仰が厚く、長澤の地を吉野に見立てて蔵王権現を祀ったそうだ。明治3年にその蔵王権現から金山比古命に祭神を代えている。これは文書には説明がないが、明治の廃仏毀釈(1868年4月に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。)に対応する措置だと思う。金山比古神社の東に中の森、伊勢の森両神社があるが瑣小川(さおがわ)神社、豊受神社といい生穂賀茂神社の末社になったこと、金山比古神社の国有林払い下げの古文書などが記載されており、最後に同神社の的矢神事のことが書いてある。
 さて、親切に送っていただいたこれらの文書を見る限り、金山比古命は明治になって急遽奉られたため、古代の金属文化とは関係のない神社であると言える。
 ところが室町時代以前の長澤村はどのようなところだったのだろう。与左衛門が長澤の地に来て蔵王権現を創建したとき、村の様子は如何ばかりなのか。如何に山深いとはいえ、淡路のこの地が未開の地であったとは思えないのだが。そして与左衛門は何を求めて、何のためにこの地を訪れて開拓をしたのだろう。もちろん戴いた資料ではそれらをうかがい知る術もない。
 淡路の金属産地のひとつは南あわじ市の賀集(かぞ)周辺である。一帯には鍛冶屋、タタラ神、鍛冶ヶ渕、鋳屋敷、などの地名が残っているそうだ。また「吹子の口」「ノロ」などが発見されているそうだ。「黄金と百足」若尾五雄著に詳しい。西に進むと伊加利、湯の川など金属地名らしきところもある。淡路島南部は中央構造線上にあり、金属文化が栄えていても不思議ではない。淡路島の全体が領家変成帯に属し、鉄や銅の鉱物が豊だなあと考えていた矢先、淡路市の垣内遺跡のニュースを見つける。昨年の4月のことだが、淡路市で国内最大の弥生時代後半の鍛冶遺跡が発見されたということである。ややもすると古代金属文化の古典ばかり追いかけていると、最近のニュースに疎くなる。つづく

【作業日誌 2/21】
椎茸柵作り(柱、梁、ドア取り付け等)Img_3918

柱を立てて、ドアを付けて、周りと天井にネットを張る予定。



 今日のじょん:夜にじょんが吠える対象を突きとめたいという願望は日増しにふくらんでいる。向かいの竹藪に獣が来ていることと、下の府道に人が歩いていることぐらいしか解明していないのだ。連日連夜吠える対象は何なのか。
 今夜ストーブの熱を効率的にするため、店側のドアと二階のドアを開けていた。突然じょんが吠えだした。店の方を向いて吠えている。外を見ても何も居ない。数回繰り返すと、二階でガサガサ音がする。かみさんが探し物をしていた。どーもこの音に反応していたようだ。音、臭い、気配、何でも反応しているみたいだ。 

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