2010.6.16(水)雨、曇
引地のこと、遊里のことが一向に筆が進まない。それは府内の小字、おそらく何万とあるだろう地名を拾っているからだ。引地についてはインターネットの地図で検索される以上に各地にあるようで、少なくとも府内のどこに存在するかを調べている。府内ならば現地を訪ねることも可能だし、地域、地形の比較をするのも容易な気がするからだ。遊里については「ユリ」地名が丹波特有の地名と言われているが、果たしてそうなのか調べてみたいからだ。これは相当骨が折れるし、時間もかかる。というわけで続きが書けていないという事態である。むしろ私の一生を掛けて、果たして完結するか否かというような問題だと思う。先日、七五三掛(山形県)の地名についてかつて述べていた仮説がどうも違うようだと新説を書いた。そのように調べが進むほどかつての説は変わってくるものである。念道についても、念道のこと(1)~(3)(2009年7月9日、8月10日、8月27日)で述べているが、どうもこれは怪しいなと思い始めているところである。
明治の文書に「子ント村」の記述があり、子は十二支の子で北の方角を指すという 私の従来の説はどうもあやしい。というのはカタカナ書きの古文書を見ていると、「ネ」を「子」と表しているのは極一般的である。例えば「コネダス」という動詞は「コ子ダス」と表記されるのだ。「子ント村」と表記してあってもそれは「ネント村」ということであって、決して十二支の子では無いわけだ。北の渡し、北の領地、北の門などといった私の従来の説は脆くも瓦解してしまった。
それでは「念道」とは一体何を表すのだろう。
「念道」が文書に出てくるのは川北家文書といって室町期ののものである。(文明二年、綾部市史)角川日本地名大辞典では「ねんどむら」と読んでいる。そして同じ地名は今のところ和束町杣田の念道一ヶ所しか見あたらない。小さな小字らしく、インターネットの地図では見あたらない。やむなく和束町の役場に電話する。役場の職員もすぐにどこか解らないほどマイナーな小字らしい。色々聞いてもらって、大体の位置を教えて貰う。和束町の中心部から府道62号線を南東に進むと、下杣田、中杣田、杣ノ根、上杣田、奥杣田と解りやすい地名が続く、奥杣田で道は南西に曲がり、川を渡って杣の谷にいたる。この中間に念道があるということだが、何でも「タテイワ池」の附近とも言われた。地図で見ると奥杣田から右に道が出ており、その途中に池が見える。これが「タテイワ池」だろうか、これ以上は現地に行かないと解らない。いつかは訪れて見たいものだ。つづく
念道橋から念道をのぞむ。
【作業日誌 6/16】
木小屋増築(桟作り)
食用ほおずき植え付け
ラッキョウ試し堀り
今日のじょん:
おかー「言うたらあかんで」
おとー「あした誰かきはるそうやで」
じょん「・・・・・・」