晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

葬式は、要らない?? 8/3

2010-08-04 | 日記・エッセイ・コラム

2010.8.3(火)快晴

 お盆が近づくとお墓や葬式の話も賑やかになってくる。不信心な私でもお墓詣りをしたりする。クローズアップ現代で「変わる葬式」と銘打って直葬などのスタイルを紹介していると思えば、讀賣新聞の文化面では今年一月に刊行されて人気の出ている「葬式は、要らない」島田裕巳著やそのアンサーブック「葬式は、必要」一条真也著などを紹介している。テレビも真剣に見たわけではないし、本も読んだわけでないので偉そうなことは言えないが、いずれも葬式そのものに対する考え方の問題で、哲学的、宗教的な根源のところの論議では無いようだ。
 それよりも7月10日に亡くなられた、つかこうへい氏の遺言には感銘した。あの短い文の中に、つか氏の生き様もポリシーもすべて凝縮しているようで、どんな位の高い戒名よりも、どんな大がかりなお葬式よりも、バカでかいお墓よりも値打ちと意味のある短文だと思う。この場で公表はしないが、その中には、戒名も通夜も葬式もお別れの会のようなものも、お墓も要らない、日本と韓国の間の海峡に散骨してくれという旨が書いてある。散骨を除いては私と同じ思いなのでドキリとしているところである。Img_0880
 
親父のお墓、死者のためより生者のためにあるようだ。


 私は葬式は生者が主役で、その悲しみを紛らわすため、区切りとしてのものと心の処理の場だと考えている。後に残った者が悲しむこと無くむしろ喜ぶぐらい生きるつもりだし、心の処理は事前にして置いていただくので、葬式は不要となる。ただ、ものの処理だけは自分で出来ないのでお願いするつもりだ。Img_3100
 
鹿児島県はおそらく日本一お墓を大事にしていそうだ。聞くと毎日花をお供えするそうだ。写真は桜島のお墓、火山灰対策だろうか、立派な家に収まっている。


 当の本人はどうなるかって、死とは映画の終わりみたいですべてが無くなる訳だから、戒名だお墓だなんてのも何も要らないわけだ。人生はスクリーンに映った映像のようなもので、終わってしまえば何もない。ではなぜみんなあの世だのこの世だの騒いでいるのだろうか。それは大脳のなせる技である。あの世も、地獄極楽も大脳が考え出した、この世をうまく生き抜くための仕掛けなのである。だからあの世がどうのこうのって惚けてしまって、この世を真剣に生きていなかったら、これほど矛盾した人生は無いわけだ。南無阿弥陀仏 合掌。

【作業日誌 8/3】
草刈り7回目

今日のじょん:上林は水がきれいだからブヨが多くて蚊が少ないと言われていたが、今年は蚊も多いぞ。蚊取り線香焚きまくってるんだが、、、、。Img_1140

コメント
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