2010.8.8(日) 晴
「蛇」日本の蛇信仰(吉野裕子著)講談社学術文庫、定価960円、購入価700円。
人はなぜ蛇を嫌うのか、不思議な現象である。もちろん例外もあり、蛇が好きで堪らないという御仁もおられるわけだが、概ねの者は蛇が嫌いである。蛇のせいでエデンの園を追われたという、キリスト教の影響のある者なら解るけれど、そうでない人も大方の日本人は蛇を嫌う。それは足の退化したあの異様な姿態、鱗、そしていつも睨まれているような眼が多大にその理由となっているようだ。そして毒を持つ蛇が居るということが余計に嫌われる理由となっているのだろう。
ところが古代にはその蛇が敬われ、尊ばれ、信仰の対象となっていて、様々なものに形を変え今日にも至っているのである。鏡、案山子、鏡餅、注連縄など常識となっているものもあれば、えっと驚くようなものもある。
縄文時代における蛇信仰の始まりは、蛇の姿が男根を思わせ、その交尾の強烈さから生命力の存在を認めたからだろう。縄文期の信仰対象として多く残る石棒も蛇体神としている。弥生時代になると農耕が始まり、蛇の生命力、繁殖力が稲の収穫への祈りと重なり、田畑における鼠などの天敵としての蛇を崇めたとも考えられる。
東北地方の男根信仰も石棒から連なる蛇信仰なのだろうか。遠野。
吉野氏の論考は単刀直入であるがために、読者をしてえっと思わせるところがある。なぜそうなるかという論理的な解説が端折られているのだ。たとえば沖縄などでは蒲葵(びろう)が神聖なものとして宗教的な儀式等によく使われるのだが、それは蛇に見立てられて信仰されているというのだ。理由は男根に似ているからと記されているが、猜疑心の強い私にはそれだけでは納得できない。
諏訪大社の神紋梶の字が木と尾に分かれるので、蛇を表すというのもにわかに納得できるものではない。
ミシャグチ神として諏訪大社の神事などが取りあげられている。吉野氏は諏訪大社の祭神、縁起、神事などについて蛇との関わりを強調されている。確かに元旦の蛙狩神事など蛇を連想させるものもある。ところが以前に紹介した「古代の鉄と神々」(2009.12.15参照)でも同じ神社、神事などを取りあげているが、ここでは金属、特に鉄との関連で説いておられる。たとえば藤は吉野氏はその蔓の様子から蛇を表すと言われるし、真弓氏は鉄穴流しに使う植物としてとらえている。神事に使われるサナギの鈴も吉野氏は、サは小さい、ナギは蛇の古語、従って小蛇と解され、鈴は蛇が興奮した際に尻尾を震わせて音を立てる動作を象徴しているのではとしている。真弓氏はサナギは鉄鐸で、鈴は褐鉄鋼が水生植物の根に付着した、古代の鉄の原石と推理している。両者には共通する意見も妥協点も無い。あえて無視をしている感さえ浮かんでくる。吉野氏の方が後年の出版なので無視をするとしたら彼女の方なのだが、、、、。丁度「古代の鉄と神々」と「知られざる古代 謎の北緯三四度三二分をゆく」(2010.1.10~12参照)と同様の関係だ。
蛇と金属は百足同様大変関係が深い、「蛇」の中で金属との関連を少しでも書いて欲しかった。
ミシャグチ神でかつて通勤でいつも通っていた町名を思い出した。中京区東洞院六角辺りで、御射山町という山鉾町である。地名事典で調べるとかつては諏訪町と呼ばれていたそうで諏訪神社もあったそうである。妙なところで関連があるものだと思うが、まったくの蛇足である。
今日のじょん:朝クンクンというのは「おしっこしたいよー」という合図だそうだ。放っておくと膀胱炎になったりするそうだから、何をさておいても連れてってやるか。